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 有間は中庭で己の両手を見下ろしていた。
 封印の施された証であるその文様。今は薄く発光している。
 使ったのはつい昨日のことだ。まだ目が眠っていないが故のことであった。

 感覚は完全に遮断されている。けれども手袋を外せば不快な感覚は酷いだろう。
 その手で頬を掻いて有間は「どっこらせ」と重そうに腰を上げた。

 そして屋内に入ろうとし、足を止める。


「……何やってんの」

「う……」


 ティアナである。
 彼女は開けっ放しの扉から顔と手だけを覗かせて、気まずそうに顔を逸らした。
 その足下にはエリクの姿が。


「良い子は寝る時間だよー」

「アリマ、何だか元気無いね」


 アルフレートが凄く心配してたよ。
 とてとてと歩み寄るエリクを抱き上げ、有間は苦笑を浮かべる。


「もしかして、表に出てた?」

「ちょっとだけ、ね。夕食で上の空だったし、誤魔化してたでしょ?」

「……かなんなぁ」


 ひょっとしたらバレているかもと思わないでもなかったから、有間は肩をすくめるだけに留めてその場に座り込んだ。エリクは掻いた胡座(あぐら)の上に。

 ティアナも、有間の前に腰を下ろした。


「……話したくないのは分かるけど、せめて話せる部分だけでも教えてもらえない……かな」

「……」


 有間は目を細めた。
 ややあって、「――――ティアナはさ」と。


「うん?」

「昔っからうちを構ったよね。どんなに冷たくしたって。……殴ったり切りつけたりもしただろ。……痕も、残ってる」


 手を伸ばして彼女の右肩口に触れる。

 有間自身、思い出したくない記憶だ。どんなに昔を思い出しても、このことは絶対に触れない。無かったことにするつもりは無いが、思い出したくない。
 今なら、彼女がどんなに辛かったか、痛かったか思いやれる余裕があるから。
 胸が凄く締め付けられる。

 だいぶ消えかかってはいるが、有間が包丁で切りつけた傷はまだ残って衣服に隠されている。
 血が沢山流れた。深く深く、てらてらと煌めく肉が見えた。
 クラウスは激怒した。有間の頬を叩いても、彼は足りなかった。
 ベリンダもフランツも悲しそうに有間を見た。

 それなのに、彼女は。


「……今度ロッテのジャムを試食しようって、さ。一人笑って」


 痛かった筈だ。
 怖かった筈だ。
 こんなこと、絶対に体験したことが無いだろうに。

 それでもクラウスや両親のように有間を責めるような眼差しはしていなくて。

 その姿に重なったのは、一番仲の良かった邪眼一族の親友であった。
 有間を庇おうとし、邪眼一族の中で一番最初に、有間の前で、無惨に首を落とされ笑顔のままに死んだ――――幼なじみ。

 泣きそうになった有間は、他人に弱い部分を見られることに本能的に恐怖してその場から逃げ出した。

 ずっとキンバールトの森にいたのをフランツが迎えに来て、そのまま家に帰った。
 道すがらフランツから聞かされたのはティアナの様子だ。
 彼女は肩を切りつけた有間を探しに行くと言い張ってなかなか言うことを聞いてくれなかったのだそうだ。クラウスが諭しても、逆に彼の言葉に癇癪を起こすくらいに必死で。

 信じられる訳がなかった。
 同族以外は皆敵という認識のもと今まで逃げ回っていたのだから。
 ベリンダやフランツにだって、頼りながらもなお不審を抱くことだってままにあった。

 ……今なら分かる。頑なに与えられるものに怯えて拒んでいたのだと。その与えられるものがあまりにも当たり前のように簡単に手に入れられたから、そのことに恐怖を抱いていたのだと。

 肩から離した真っ黒な手は僅かに震えていた。


「……ティアナは、もしこのカトライアが戦禍に巻き込まれたとして、うちが君達を捨ててカトライアから逃げたら、どうする?」


 薄情だと罵る? 恨む?
 ティアナは瞠目した。

 残酷な問いだと自分でも思う。
 けれど求めてきたのは彼女だと、自身に言い訳をする。

 ……嗚呼、こんなことを訊ねて自分はどんな返答を望んでいるのか。

 エリクが不安そうに有間を見上げてくるのに、その心地良い手触りの背中を優しく撫でた。

 ティアナは暫く沈黙し、目を伏せた。


「私は――――」


 瞼が上がる。
 翡翠のような純粋な瞳が真っ直ぐに有間に向けられた。……ティアナのその穢れ無い瞳に羨望を抱いたこともあった。


「私は、きっと待ってると思う」


 有間は眉根を寄せた。


「待つ? 何を?」

「アリマをよ」


 だって、いつか《帰って》来てくれるでしょう?
 今度は有間が目を見開く番だった。

 帰る――――帰る?
 自分がこの国に《帰る》?


「ここに、うちが帰る……」


 違和感が、無い?


 困惑してティアナを見やると、彼女は断じるように大きく頷いた。

 すとん、と。
 心に何かが落ちたような軽い衝撃。
 エリクを撫でていた手が止まった。

 有間は沈黙する。

 暫くして出た掠れた声は、ゆっくりと告げた。


「父さんが、ルナールにいるんだ」


 ティアナが小さな声を漏らした。



―第三章・完―




●○●

 エリクをどうするか、ちょっと考え中です。
 アルフレート寄りで、エリクが入り込んできても良いんじゃないかとか、頭の片隅で考えてます。



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