売り上げは今月最低である。
 有間はうんと軽い売り上げをじゃらじゃらと鳴らしながら帰宅した。

 リビングへの扉を開け――――閉める。

 すると中からティアナが有間を呼んで扉を開こうとするのだ。
 当然有間はそれを阻んだ。以前もこんなことがあったが知らない。そんなこと知らない。


「アリマ! ここを開けて!! お願いだからー!」

「ティアナが! ティアナがとうとう男を連れ込んだ!! どうしよううちクラウスさんに殺される!!」

「へ!? ち、違うの!! あれはルシアなの!!」

「そんな名前聞いたって……はい?」


 間の抜けた声を上げた途端、力が抜けて扉が開かれる。
 ティアナに引き込まれた彼女はすぐ近くの場所で座り込んでこちらを見上げる見目の良い少年を見下ろし――――こめかみを押さえてふらついた。

 ティアナに支えられつつ、ぼそぼそと呟き始める。


「香央(かさだ)の女子(むすめ)磯良(いそら)、かしこに往きてより、夙(つと)に起き、おそく臥して、常に舅姑(おやおや)の傍(かたへ)を去らず、夫が性(さが)をはかりて、心を尽して仕へければ――――」

「アリマ!! アリマしっかりして!」


 有間は昔から、激しく混乱したり動揺したりすると昔読んだ書物をそらんじる。こうなるともう誰の話も聞かないし、頭も回らない。
 ティアナはそれを知っているから有間の背中を撫でながら何とか落ち着かせようとした。

 そんな有間を、ルシアやマティアス達は奇異なものを見るかのような眼差しで見つめている。

――――ようやっと落ち着いたのを見計らって、エリク達がティアナに声をかけた。


「ティアナ! 僕にもかけてよ!」

「オレにも頼む」

「あ、う、うん。わかった!」


 有間はソファにぐったりと座り込み、彼らの様子を力無く眺めた。未だ混乱は完全には落ち着いていない。

 ティアナは三人に粉を振りかける。それは金色をしていた。砂金に似た輝きを放ちながら柔らかな体毛に触れ――――。


 突如視界が光で満たされる。


 有間は咄嗟に袖で顔を隠した。
 落ち着いた頃に袖を降ろしてまず目に入ったのは壁際に背中をぴったりとつけたティアナだ。

 顔をひきつらせた彼女の視線を辿って、有間も固まった。


「やった〜! 見て見て! 僕も元に戻れたよ、ティアナ、アリマ!」

「この感覚……久しぶりだ。やはり両足で立てるとほっとするな」


 ……はい?
 ソファからずり落ちた有間は口角を痙攣させた。

――――ちょっと、待て。
 何で、あいつが。

 何であいつがここにいんの!?

 ざっと青ざめて見つめる先――――己の両手を見下ろして感触を確かめる元狼だった青年。


『お前とは何処かで会わなかっただろうか』


「ま……」


 マ ジ で か……!!
 有間はたらりと冷や汗を流した。

 そして、彼と目が合った瞬間窓から家を飛び出した。



‡‡‡




『そこにいると、怪我をするぞ』


 大きな木の上でぼんやりとしていると、下方から声をかけられた。
 視線を下にやればこちらを見上げる少年が一人。左目を眼帯で覆った彼は不安げに眉を顰めていた。

 無視をするとまた何度も声をかけられるものだから面倒になって太い枝から軽々と飛び降りた。
 少年は驚いたようだがすぐにほっとしたように笑った。


『良かった。この辺の木には、樹液に毒があるんだ』


 こちらよりも幾らか年上と思われる彼に、素っ気なく言葉を返す。


『……知ってる。この辺の土地の毒素を吸い出してるんだろ? この辺は固有種の毒草が群生していて、その所為で土壌にもその草の毒が広がっているんだって聞いた』

『ああ。だから町に戻ろう。空気にも毒が混じることがある。毒素にやられる前に……』


 少年が差し出した手を払いのける。
 そして彼に背を向けて歩き出した。町の方ではない。全くの別方向に、だ。


『うちがどうなろうと、君には関係ないよね。赤の他人だし、何よりうちと君は国が違う。君が僕のことを気にする要因は何にも無い筈だ。そもそもここが危険な場所だと言うんなら、君自身ここに来ない方が良いんじゃない?』


 ひらひらと片手を振ってやれば、


『待て!』


 背後に駆け寄られる。
 瞬間、身を翻して少年の首を捕らえようと手を伸ばす。

 が、掴まれて失敗。


『何をするんだ』

『反射。生憎と君みたいに平和な国で生きてきた訳じゃないんだ。あまり不用心なことをすると、殺すよ?』


 少年が隻眼を細める。そこに怒りが走ったのにすぐに気付いた。
 手首を掴む少年の手に力が込められる。


『オレだって平和な世界で生きてきたんじゃない……!』

『あっそう。それ聞いたら更にその顔見てて苛々してくるよ。さっさと消えてくれない?』


 手を振り払って逃げるように走り出す。彼と話していると虫酸が走る。

 すると少年も追いかけてくるのである。
 これにはさすがに驚いた。まさかあのやりとりの後でも追いかけてくるとは思わなかった。

 しかも、自分よりも早いとか。

 容易く追いつかれて腕を掴まれる。また殴ろうとした腕も捕らえられてしまった。


『だから、ここに長居をしては危ないと言っているだろう!!』

『……っ、五月蠅い! 耳元で叫ぶな! 鼓膜破くつもりかいワレ!』


 遮二無二暴れて両手を払い、大仰に嘆息する。
 頭を掻いて舌打ちして少年の脇を通り過ぎた。


『町に戻れば良いんだろう、も・ど・れ・ば!!』


 苛々しながら大股に歩いていけばやがて隣に少年が並ぶ。まだ先程のこちらの発言を引いているのかやや不機嫌そうに唇を引き結んでいる。

 ……それ見ていると、こちらの苛々も増してくる訳で。
 町に着くまで、一言も交わさなかった。

 けれども、町に入った瞬間人々の往来に足が竦んでしまった。

 人が多い場所は、怖い。
 《生きた人間》が沢山いる場所にいると、有り得ないと分かっていてもいつかこの人々が死んでしまうのではないか、この土地が一面赤に染まってしまうのではないかと、恐ろしくなる。
 心の芯まで冷えていくような感覚に身体が震えた。

 町の出入り口で固まってしまったから、少年は怪訝に思っただろう。しかし、理由は話せない。

 せめて、自分の面倒を見てくれている夫婦が来てくれたら、少しは楽になるのに。彼らは今大事な用事を済ませている。

 片足を後ろにやった瞬間、少年が手を握ってきた。
 そして――――頭を撫でてくるのだ。

 驚いて見上げると彼はそっと笑って『大丈夫だ』と。そしてそっと手を引いて歩き出した。

 少年はなるべく人のいない場所を選んで、小さな広場の椅子に座らせた。
 すると何処かに走り去っていくのだ。

 そして程無くして戻ってくる。
 その手にはこの国で言う『ぱん』に肉などを挟んだ物を持っていた。
 それを差し出されても、警戒心が先に立つ。

 こういう物には、誘拐しやすくする為に良く痺れ薬や睡眠薬が含まれていた。……ヒノモトでは。


『食べないのか? この辺りでは有名なサンドイッチだそうだが』

『……人から貰った物には毒がある』


 そう言うと、彼は納得したように頷いてそれを一口頬張った。


『薬の類は入っていない。だから安心して良い』


 食べかけのそれを差し出される。
 暫く探るように少年を見上げていたが、異変は見受けられなかった。
 怖ず怖ずと手を伸ばしてそれを受け取り、口を付ける。

 こちらの様子を安堵したように眺めてくる少年が気にならない訳ではなかったけれど……ぱんの風味と久しく食べていない薫製、そして歯応えのしっかりした瑞々(みずみず)しい野菜の食感にたちどころに夢中になってしまった。

 今までの旅路では、面倒を見てくれている夫婦はヒノモトに近い味付けや食材を出してくれる。異国の食料で弱った胃腸に負担をかけないようにとの配慮だった。
 だからこうした外国の食材を口にする機会はほとんど皆無であった。

――――と、記憶を手繰った折に見計らったように遠くから自分の名前を呼ぶ夫婦の声が聞こえてきた。

 あっと声を漏らした瞬間、立ち上がって走り出した。夫婦の用事が終わったようだ。
 急いで彼らと合流しようとしたがすぐに少年を振り返って口を開いた。


『……ありがとう』


 言い捨てるように言って、走る。
 その後、その少年がどうしたのかは知らない。

 ただ、彼は外国に入って初めて言葉を交わした年の近い子供だったから、今でも覚えている。




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