14





 洗い終えた後、確かに気分はさっぱりと心地良い。
 よくよく拭かれた身体に受ける風も気持ち良く、有間はベランダにて風上に身体を向けて目を伏せてじっとしていた。

 その側にはティアナもちょこんと座っており、何処か様子の違う
 アルフレートも洗濯を終えた後はずっと二人の側にいる。おまけに、結局王立図書館に行く以外に何もしなかったマティアスもいた。

 何で、この二人もいるんかなぁ……。
 別にここにいることには何の意味も無い。強いて言うなら、ティアナが飢えた人間と言う名の獣達の貪欲な手から守る為ではあるけれども。
 ベランダの隅でこちらの様子をただ眺めているだけなので無理に追い出すようなことはしないが、しかしじっと見守られているというのも非常に気まずいものだ。
 肩越しに振り返ってうざったそうに睨むが、彼らは気にするなとしか返ってこない。

 多分滅多に見られない姿を眺めているだけなんだろうが……視線にうんざりとしてきた頃、更に客人が訪れた。


「アリマ。少し良いか」

「あ、パン屋はもう良いんだ」


 クラウスである。
 ティアナがきょとんと首を傾けたので、ロッテの願いで今まで風邪で寝込んだ両親の代わりにパン屋を手伝っていたのだと教えてやった。だが、超貴重な戦力をみすみす手伝いにやってしまったことは今でも悔やまれる。

 仕立ての良い衣服に少しだけ小麦粉をつけてしまっているクラウスは、気まずそうな顔で有間の側に片膝をついた。


「お前に一つ、確かめたいことがある」

「ん?」


 クラウスは一旦口を閉ざし、目を伏せた。暫し思案し、目を開ける。


「お前は《山茶花(さざんか)》という人物を知っているか?」


 そこで、マティアスが僅かに反応を示した。
 それを横目に見、有間は天を仰ぐ。
 彼が何のことを問いかけているのか、有間には分かっていた。


「……『ヒノモト北部闇紺山(あんこんざん)が総本山か』」

「!」

「とある宗教団体が本格的に動き出したらしいね。一説には現在の政府に不満を持つ人間達が邪眼一族を神のように祀って、政府に対して武力で抗議をしているとか、宗徒が各地で反乱が起こしているとか、すでに宗徒はヒノモトの至る場所にいるとか。あんま良い噂は書いてなかったなあ、あの新聞」

「……朝読んでいた新聞はヒノモトの物だったんだな」

「うん。結構前の物だけどね」


 有間は欠伸を一つ。
 目を細め、橙の空を流れて行く雲を眺めた。
 まるで、時の流れのようだ。風に乗って抗わずに世界は流れていく。
 邪眼一族のことも、いつか砂塵となって忘れ去られてしまうのだろう。この宗教団体もいつか、歴史書から抹消されるのだろう。

 自分には何の関わりも無い。だから気に留めるべくもないのだ。
 そんな、教主の名前が《山茶花》だからといって、どうということも――――無い。


「山茶花っていう少女は、邪眼一族にいたよ。年が近かったから、いっつも遊んでた」

「……では、」

「でも残念だね。その子はもういないんだ」


 死んだから。
 淡泊に告げれば、ティアナが息を呑んだ。

 それに構わず、


「目の前でさぁ、大きな鉄球に押し潰されて無惨な姿に成り果てて死んだよ。普通に会話してたところに、こう、頭からぐしゃっと」


 手を首の辺りまで挙げて、地面にぽすっと落とす。視線は空へ向けたままだ。
 今でも思い出せる。
 雪に覆われた大地に咲いた真っ赤な花。山茶花のような、真っ赤な血の花。

 綺麗で不気味で、悲しい花だ。

 クラウスは目を伏せ、吐息をこぼした。


「……そうか。すまなかったな」

「いいや、別に良いさ。昔のことは、もうどうでも良いし」


 有間はそこでようやっと視線を落とし、腰を上げた。
 身を翻して家屋に入る。


「……悪いけど、その手の話は鯨さんに訊いてよ。うちには全然分からないからさ」


 階段を下り、中庭に出る。
 隅に伏せて前足の上に頭を乗せた。


『ねえ、有間ちゃん。加代ちゃんがね、南のあんこんざんにはゆーきゅーのたきって言うすっごいきれいなたきがあるんだって』

『いつか三人でいっしょに見に行こうよ。やくそくね!』


 脳裏に反響するのは幼女の声だ。
 頭からこびりついて離れない、友達の声。約束。

 ……忘れたなんて、嘘。
 彼女は今でも、こんなにも有間を苦しめ悲しませる。
 せめて、彼女の死んだその瞬間だけは忘れてしまいたいのに。
 悪い思い出ばかりが残ってしまうのだ。

 ジギスムントの得物に良い思いを抱かないのも、その所為なのだ。


「約束、ね……」


 果たされることは無い約束。
 それを覚えていたとて詮無いことだ。
 一緒に行くべき筈の加代も、山茶花も、有間を置いて死んでしまったのだから。


「いつまでも三人で一緒にいようねって言ったのは、山茶花のくせにさ」


 目を伏せて寝てしまおうとするが、寝れば昔を夢に見てしまうのではないかと不安に駆られてすぐに目を開けた。
 顔を上げて嘆息すると、こちらに近付いてくる足音が聞こえた。

 首を巡らせれば、アルフレートが案じるような顔で中庭に出てくる。
 気遣う言葉でもかけるつもりかと思ったけれども、どうやら違うらしかった。
 無言で隣に座り、あやすように背中を撫でてくる。

 何も言わずに、側にいる。

 有間は目を細めた。
 アルフレートを見上げ、吐息を漏らして前足にまた頭を乗せる。
 ぐるると小さく唸って、目を伏せた。



‡‡‡




 幸い、この数日後に二人の身体は元に戻る。
 クラウスは、もう有間にヒノモトのとある宗教団体のことは訊ねてはこなかった。恐らくは以前からクラウスに聞いていただろうマティアスも。

 有間とティアナが安堵する傍ら、ゲルダにことの次第を聞きつけて駆けつけた鯨に、シルビオがかつて無い恐怖を味わうことになるのは、言わずもがなである。



●○●

 ファンディスクへの伏線を引きつつ、これでESSは終わりです。


.

- 140 -


[*前] | [次#]

ページ:140/140

しおり