10
部屋を出て一階に降りると、丁度クラウスが玄関にいた。開けようとしているのか、扉に手をかけていた。
「クラウスさん、何処かにお出かけですかい」
それまでの心中を追いやって軽佻(けいちょう)に話しかけると、はっとした風情でクラウスが有間を振り返り、あからさまに青ざめた。
だがそれも一瞬のこと。中途半端に開いた扉から誰かが顔を出した。
「こんにちは〜! ……え?」
「……」
あ、ヤバい。
ロッテだ。
彼女は有間……否、白豹を見るや否や片手で口を覆って恐怖に目を剥いた。
有間はその場に伏せて、クラウスを見上げる。下手に動けばロッテが騒ぎ出すのは必定だ。大人しいことを示して安心させた方が良いだろう。
そう判断して、有間は静かにクラウスの行動を待った。
クラウスもそれが分かったようで、ロッテを招き入れ冷静に宥める。
「この豹は人慣れしているから、無闇に襲いはしない。ティアナにもすぐに懐いたしな」
「え、く、クラウス兄さん……どうしたの? あ、じゃなくって、この子、本当に大丈夫なの?」
「ああ。触ってみるか」
クラウスが有間に向かって片手を動かして見せる。
それに応じて、有間は腰を上げて彼の隣に腰を下ろした。
ロッテが少しだけ仰け反るのに、クラウスが彼女の頭を撫でて見せた。
ロッテを呼んで促せば、彼女は暫し有間を見下ろし、やがて意を決したように怖ず怖ずと手を伸ばした。
それが、頭に触れる。……ぎこちなく撫でる。
その間有間は微動だにしなかった。
やがて、ロッテの顔が感嘆に輝いていく。
「ほ、本当……! 大人しいのね、この子! それに凄く良い毛並み……」
「ああ。でなければここに預けたままにはしない」
「……そうね。それもそっか」
「それで、どうしたんだ?」
身を屈めて有間の身体を撫で回し毛並みを堪能するロッテは、クラウスの問いかけに顔を上げた。
「ちょっと頼みたいことがあって来たんだけど……ティアナは? アリマでも良いんだけど、」
「二人は今、風邪で寝込んでいるんだ」
ロッテが顔色を変えた。
「え? 風邪で? 二階の部屋にいるの……!?」
「ああ。薬を飲んで寝ている」
「そうなんだ……心配だわ。寝ているなら邪魔はできないけど、明日辺り、お見舞いに来ようかしら」
ロッテの言葉に有間が少しだけ身を堅くする。それは駄目だと心の中で訴えた。
「止めておけ、お前に風邪がうつったらどうする」
「それは、そうだけど……。アリマ、昔倒れた以来寝込むような病気にかかったこと無かったでしょう? ティアナも心配だけど、アリマは大丈夫?」
「アリマの方が症状は重いが、薬を飲んで落ち着いている。二、三日も経てば治るだろう。お前が来たことは伝えておく」
クラウスが諭すように言い聞かせれば、ロッテは渋々と頷いた。
そして彼が再び用事を訊ねると、ロッテは両親が風邪で寝込んだ為、両親の代わりにロッテがパンを焼き、ティアナと有間間に店番を頼めないかと訪問したらしかった。
種類が減ってでも店を開けようとするのは、いかにもロッテの両親らしい。
だが、有間は一度だけ経験したが、パン作りは重労働だ。ロッテ一人では追いつかない。
「そういう話なら、まず俺の所へ来るべきだろう」
「え? 兄さんの所へ?」
「……二人の風邪が治るまで、俺が代わりにやってやる」
ロッテは素っ頓狂な声を上げた。
「だ、だって兄さん、仕事は……!?」
「実は事情があって、三日間休みをもらってあるんだ。パンを焼くくらいなら、その事情と両立できる」
「ほ、ホントに!? あの仕事漬けの兄さんが三日も休みを取るだなんて……! ね、ねぇ。どんな事情なの?」
そこで、クラウスは有間に視線を移した。
何もせずに沈黙を保っていると、
「たいしたことじゃないんだが……ティアナの代わりにこの白豹の面倒を見なければならないんだ」
「……そう言えばクラウス兄さん、預かってるって言ってたわよね」
「ああ。俺が、な。ザルディーネの某貴族が飼っていたんだが……賢い為に脱走癖がついてしまったらしくてな。油断した隙に逃げ出して、何をどうしたのか、その足で誰にも捕まらずにこのカトライアまで来てしまったらしい。先日、保護してティアナに一時的に預けていたんだ」
「へえ……確かに、上品な感じがするし、さすがザルディーネ貴族の飼い豹って感じね」
茶化すように言って、ロッテは「カトライアへようこそ」と咽を撫でる。……気持ち良いなんて、思っていない。
「というわけで、この豹は暫く一匹にさせておいても問題は無い。こいつの食事にさえ間に合えば、粗相はしない」
感じ入ったロッテに、少しだけ居心地の悪い心地になって、有間はロッテの腕をすり抜けると背を向けて家の奥へと歩いた。
途中で振り返って尻尾を揺らした。
「行ってこい、だそうだ」
「ふふ、可愛いわね。じゃあ、ごめんなさい。兄さん、お願い出来る?」
「ああ」
クラウスは有間に目配せし、ロッテと共に実家のパン屋へと向かった。
それを見送り――――有間はとある事実に思い当たる。
「……頼りになる唯一の家事戦力消えた」
それは、有間にしてみれば致命的に近い事実であった。
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