闇馬の乗り心地は、最悪以外に何も無かった。

 闇馬は普通の馬とは全く違う、別の化け物だと考えて、覚悟しておいた方が良いと言われた。
 鯨の言葉だからとしっかりと肝に銘じていた筈だったのだが、どうやらティアナの思う覚悟とは、領域から及んでいなかったらしい。

 闇馬は速い。普通の馬どころかこの世のどんな獣よりも――――いや、突風よりも遙かに速い。
 全ての事象を超越した脚は、しかしそれだけでなく柔軟で強靱でもあった。

 道中には川があった。ティアナと有間が縦列に横たわってもまだまだ余りのある幅で、人の腰程の深さの川だ。
 橋を使えば良いだろうに側に見えたそれを無視して闇馬は跳躍した。跳躍力に舌を巻くどころか、着地した瞬間に噛んだ。

 更には闇馬の能力であるらしい、見事な海上疾駆で通常の三分の一の時間でザルディーネに到着することが出来たのだが――――。


「おーい。生きてる? 二人共」

「な、何で二人は大丈夫なの……!」


 ティアナはぐったりと石畳の上に座り込み、信じられないと言わんばかりに有間達を見上げた。
 鯨は分かる。だが有間までも平気なのが不思議でならなかった。馬車で酔っていた有間が、けろりとしているのが納得出来ない。……いや、そう言えば馬なら平気だと言っていたような気がする。


「……アリマ。アリマって闇馬に乗ったことあるの?」

「……片手で数えられるくらいにしか無いけど。ってか、絶滅したのってかなり昔だし」


 どうして平気なの!?
 はあぁと重い溜息を漏らすと、隣でティアナと同じく座り込んでいたアルフレートが立ち上がった。さすがと言うべきか、もう回復したらしい。


「す、凄い……」

「ティアナ殿。立てるか?」


 手を差し出してくる鯨は、小さく謝罪してきた。


「闇馬に、七割に抑えるように言ってあったのだが。娘には辛かったか」

「な、七割……」


 あれで、七割。
 戦慄したティアナは、口角をひきつらせた。
 けれど、いつまでも座り込んでいる訳にもいかず、鯨の手を取って立ち上がった。ふらついたのを鯨が支えてくれた。

 闇馬に乗せてもらった時にも感じたのだが、鯨は女性の触れ方というか、扱いが上手い。
 マティアスのようなものではない。女性を労(いたわ)り、支える――――決して腫れ物扱いでもなんでもない、その行動の裏に女性に対する敬意がチラツくような、そのようなものだ。女性として優しくされているのだけれど、だからといって異性として意識することも無く、人間として信頼出来ると思わせる扱いだ。


「走れぬのであれば、抱えていくが」

「……お願いします」


 力の入らない足に、素直に頭を下げると、有間がアルフレートに肩をすくめて見せているのが分かった。アルフレートも、きっと苦笑していることだろう。
 だって、仕方が無いじゃない。予想外だったんだから。
 心の中で言い訳して、ティアナは鯨に抱き上げられながら謝罪した。



‡‡‡




 有間はアルフレートと並び、ティアナを抱える鯨の前を走った。
 時折ザルディーネ王都の中を逃げ惑うザルディーネの民、更にはここに避難してきたカトライアの民とすれ違う。
 中には一人親とはぐれて泣き叫ぶ子供もいた。

 けれどもそれらを全て捨て置き、四人はひたすらに進む。

 罪悪感はある。助けてやりたいと何度も思った。
 だが、彼ら一人一人を助ける前に――――あの空の魔をうち祓わねばならなかった。

 暴虐の限りを尽くす化け物。
 夜闇の中でもくっきりと浮かび上がるその影は大きな羽で空を掻き、口から魔の炎を吐き出す。
 あれ自体をどうにかしないことには、一人助けても二人助けても、状況は変わらないのだ。

 幸い、邪眼を殺したことでもうあの強大な力は感じない。邪眼を両方失ったのは《早計》であったと後で思い出したのだけれど、それももう仕方のないことだ。すっぱりと諦めている。
 懐から取り出した馬上筒を握り締め、有間は走る。阿鼻叫喚の中を疾駆する。


「アリマ、大丈夫か」


 アルフレートが声をかけてくるのに、軽く手を挙げて応じた。
 大丈夫と言えば大丈夫だが、大丈夫ではないと言えば大丈夫ではない。
 軽率な真似が招いた、まさに自業自得と言える自分の身体の状況に、有間は心の中で苦笑を漏らした。

――――と。


「慌てるな! 海へ逃れろ! 兵士たちは市民の誘導を急げ!」


 マティアスの声が聞こえた。

 一旦足を止めてティアナと鯨を振り返ると、脇をティアナが駆け抜けていく。ふらり、よろめいたが倒れることは無かった。


「マティアス……!」

「ティアナ……!? それに……!」


 マティアスに駆け寄るティアナを追いかけはしなかった。
 マティアスはティアナが前に立つと困惑したように眉間に皺を寄せた。


「なぜ、ここに……。まさか、あの薬を……!?」

「ごめんなさい……。自分に残された時間が、本当にわずかしかないなら――――最後の瞬間まで、マティアスの側で生きていたいって、そう思って」

「ティアナ……」


 有間はそこで二人に背を向けた。
 マティアスの向こう側には、ベルントが冷めたように二人の様子を眺めている。大方、安い芝居でも見せられているような心地なのだろう。表情に出ている。

 ベルントは二人に任せるとして、こちらは竜をどうにかしなければならない。
 こうしている間にも、あの竜は――――否、ディルクは大勢の人間を殺めてしまう。
 被害を少しでも抑えておきたい。被害者の中にはロッテや彼女の両親、それに小劇場の知り合い達がいるのだ。

 馬上筒の銃口を竜へと定め、有間は片目を眇めた。
 右目を狙いたいのだが、竜は首をあらゆる方角に向け、破壊の炎を撒き散らす。
 だからといって目以外の部分――――竜ならば全身が堅い鱗に覆われているだろう。逆鱗に当てられれば話は違ってくるが、ここからでは鱗の隙間すらもぼやけて見えない。

 舌打ちして、近くの家屋に飛び込むかと周囲を見渡すと、ふとうなじがぴりぴりと痺れた。
 反射的にそこに手をやろうとした刹那――――。


「伏せろアリマ!」


 アルフレートが覆い被さって有間を押し倒した。

 地面に背中を打ち付ける直前に、彼女は見た。
 一本の、光の筋を。
 瞬時に理解した。
 それが、ヒノモトの術の一種であることを。

 そして背中に訪れた衝撃に一瞬呼吸を詰まらせた有間はアルフレートを見上げ目を剥いた。
 男の影があった。大柄なんてものではない。もっと巨大な、屈強過ぎる男だ。
 その男の額には《桜》の入れ墨が彫られてあった。

 咄嗟に彼の身体を右に押しやり馬上筒を発砲する。

 けれど特殊である筈の銃弾はただの筋肉に弾かれてしまう。
 驚愕する暇も無く防衛本能の働いた身体が勝手に左へと転がろうと身を捩る。

 が、それよりも早く有間の頭が一瞬で迫った巨大な手に摘まれ、持ち上げられる。
 今度は顔めがけて発砲しようとすれば、その手が何かに打たれ馬上筒を取り落としてしまう。
 歯軋りすると、鯨とアルフレートがこちらに駆け寄ろうとしているのが目の端に映った。

 しかし、鯨は別の影に襲いかかられて視界から消える。
 アルフレートも、巨大な男の隣に現れた蛇のような青年に牽制されて動きを止めた。


「やぁだねぇ〜。本ん当ぅに嫌ぁだねぇ〜」


 ねっとりとした粘着質な声に怖気が走る。蛇青年のものだ。見た目を全く裏切らない。
 眼球だけを動かすと、蛇青年の頬にも、桜の入れ墨があった。
 そして、この二人はどちらもがヒノモトの武士の姿をしている。

 長い舌をちろりと覗かせ、青年は有間を見上げた。


「まっさかぁ、こぉんなところに邪眼がいるなんてさぁ……こりゃぁ、殺す? 殺すしかない感じぃ?」

「……」


 巨大な男は小さく吐息を漏らした。


「貴殿の話し方は、まこと苛立つ」

「しゃぁないっしょ〜。これ昔っから〜。生まれた時からこれだからさぁ」


 蛇青年が有間に歩み寄ろうとすると、巨大な男がすかさず青年から離すように有間を動かす。

 蛇青年は露骨に不機嫌になった。陰湿な目で巨大な男を睨めつける。


「なぁんだよ。田中ぁ。邪眼はファザーンにゃ関係ねぇでしょ〜が。ファザーンに恩売ればぁ、ってのが指示だろ〜?」

「……そうでもないらしい」


 巨大な男が小さくも頑強な目をアルフレートに向ける。
 そして、彼に向かって有間を投げつけた。……まるで、壊れやすい人形を捨てるような、そんな感じだった。


「ぅぐっ」

「アリマ!」


 抱き留められた有間は、きっと二人を睨めつける。
 彼らがヒノモトの軍人であることは間違い無かった。なんて、タイミングの悪い。
 大方、ファザーンに味方して国交の材料にしたかったのだろうが、ヒノモトの人間は、戦える者は邪眼一族の駆除が最優先義務、彼らもその例に漏れない。

 アルフレートの腕を離れて巨大な男を睥睨すると、彼は目を細めた。
 ややあって、背を向ける。


「……おいお〜い。なぁにやっちゃってんの田中? 敵前逃亡? 逃亡しちゃ訳〜? うっわぁマジ信っじらんねぇ〜。あーの石頭が? 見逃すぅ?」

「その邪眼の娘は数分の命だ。邪眼が死んで暫く経っている」

「なっ」


 有間は瞠目した。
 咄嗟に両手を確認するが黒い手袋に隠されたままだ。
 何故分かった?

 あの見てくれで、高名な術士だとでも言うのか。

 竜の方へと歩いていく巨大な男を凝視する有間は、不意にアルフレートに肩を引かれて背後に追いやられた。未だ不満そうに男を睨む蛇青年がいるのだった。


「アリマ。今の話、どういうことだ」

「え? いや、それは……」

「かぁ〜。知らねぇのぉ? 王子の兄ちゃぁん」


 邪眼一族は邪眼を失うと肉体を維持出来なくなるんだぜ?
 そう言って、蛇青年は肩をすくめ、興醒めしたように巨大な男の後を追った。
 死にかけの邪眼の女を犯しても面白くない――――そう冷たく言い残して。

 有間は額から冷や汗を垂らした。



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