彼は問う。


「本当にお前は《物語》を始めるつもりなのか」


 彼女は答える。


「否。《物語》は今や序章の結末。カタストロフィーはこの後に」


 彼は問う。


「ふざけるのも大概にしろ。《物語》が真実結末を迎えれば、他は皆お前を置いて還ることになる。お前はそれで良いのか」


 彼女は答える。


「それが、儂の行く末。元より儂は、父にも母にも認められてはおらぬ。更に更に孤独が続くだけ。さしたる変化は望めまい」


 彼は憐れむ。
 永久の孤独の中、母にも父にもその存在を気付かれることの無かった《監視者の管理人》を。



‡‡‡




 薬屋を出ると、有間は素っ頓狂な声を上げた。

 すぐ目の前に佇む影は、二頭の馬だ。
 しかし馬にしては何もかもが黒く、そして巨大だ。如何な馬であろうと、ここまで大きくなることはあるまい。アルフレートの頭頂がやっと足の付け根に至る程だ。

 その側に立つ鯨ですら、浮き上がって見えてしまう。


「何で闇馬(あんば)が?」


 闇馬とは以前、有間が話していた邪眼一族が飼っていた肉食の馬のことだ。
 気性が荒く岩すらも容易く砕いてしまう、扱いの酷く難しい闇馬は確か、邪眼一族と共に駆逐され、絶滅してしまったのではなかったか。

 有間が鯨を見上げると、鶯が小さく手を挙げた。


「実は、闇馬は東雲家で保護していたのです。兄の婚約者が連れていた馬が、逃げてきた野生の闇馬と子供を作りっており、それがこの双子だったんです。人目に触れてしまうと殺されてしまうからと置いてきたのですが、どうやら、ヒノモトから私を追いかけてきてしまったようで……」


 アルフレートの目には、鶯が嘘をついているように見えた。不本意であるという思いが、表情にありありと浮かんでいる。しかし、鯨が何も言わない辺り、その嘘自体は大して問題にする程のものでもないのだろう。
 有間が闇馬に近寄ると、二頭共彼女に鼻を寄せ、まるで彼女を案じるようにすり寄せた。

 それを、有間は柔和な笑みを浮かべて首を撫でてやる。その笑みに、分かりやすい程に濃く落ちた影に、アルフレートは眉根を寄せる。

 有間の様子が、何処かおかしいことはアルフレートも漠然と感じていた。恐らくは、ティアナやクラウスもだろう。
 あの部屋で有間が己の邪眼を殺した時、ティアナの前に不可思議な黒髪赤目の女性が現れた。

 もし、その時に有間の身にも何かが起こっていたとしたら?
 ティアナだけでなく、有間すらも失ってしまうことになるのだろうかと、そんな冷たい不安が脳裏をよぎる。そうでなければ良いと、心の中の自分が願う。
 鯨をちらりと見やると、彼は鶯に何かを耳打ちしていた。

 気色ばんではいるものの、鶯は静かに鯨の言葉を聞いている。ややあって彼が離れると、鯨に一礼して足早にクラウスの方へと歩いた。今度は鶯が、クラウスに何かを耳打ちする。
 一体、何の話をしているのだろうかとクラウス達に歩み寄ろうとしたアルフレートはしかし、腕を捕まれて引き留められた。

 有間だ。


「ティアナが薬を飲んだよ。そろそろ行かないと、間に合わないかもしれない。万が一のこともあるからティアナは鯨さんに任せる。アルフレートはうちと乗って。良いね?」


 有無を言わさない口調は、何処か焦燥を感じさせる。
 それは果たして、ティアナのことを慮(おもんぱか)ってのことなのか、それとも――――違う意味があるのか。
 それを探るように返答もせずに有間の顔を凝視すると、彼女はぐにゃりと顔をしかめた。居心地が悪そうに視線を逸らし、アルフレートに背を向けた。
 手前側の闇馬を指差し、


「うちらはあの子に乗る。闇馬は基本的に気性は荒いけど、比較的大人しい子のようだから、うちがいれば制御出来ると思う」

「……分かった。アリマ」

「ん」

「何か隠していないか」

「別に? こんな状況で隠すことなんて無いだろ」


 嘯(うそぶ)く。
 それこそが嘘であると、アルフレートには分かった。この時のそれは、アルフレートにも看破出来よう程に、不安定で脆く、薄っぺらいものだった。
 アルフレートが手を伸ばそうとすると、鯨が有間とアルフレートを呼ぶ。彼はすでにティアナを前にして鞍も何も無い闇馬に跨がっていた。ティアナは闇馬の高さに怯んで、表情を強ばらせて鬣(たてがみ)を握り締めている。その様だけ見ればなかなかに微笑ましいものだが、彼女に残された命の短さと、闇馬が凶暴で肉食であることがそれを不安要素に塗り替えてしまう。

 有間は鯨に片手を挙げてアルフレートを振り返った。
 先に闇馬の鬣を掴んで軽々と跳躍して跨がった。アルフレートを呼び、闇馬の尻を軽く叩く。

 アルフレートも慌てて闇馬に乗ろうとする。
 有間が伸ばした手を掴み、彼女の指示でもう片方の手で闇馬の皮をしっかりと握り締めて乗り上げる。闇馬の皮は、犬のように良く伸びた。


「うちの腹に腕回しといて。なるべく力込めて、しっかりとね」

「しかし、それではアリマが苦しいのでは……」

「そんな余裕、すぐに無くなると思うよ」


 有間は鯨に目配せする。
 互いに頷きあって、同時に鬣を強く引いた。

 直後、嘶(いなな)き。
 前足挙げて大地を殴りつけ、影その物の闇馬は二頭同時に走り出す。

 その半瞬のうちに空気を震わせたのは。


 ティアナの悲鳴であった。



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