7
倒れた有間をティアナは抱き起こした。
軽く揺すって声をかけても、蒼白の顔はぴくりともしない。
突き刺した右手からは血は流れていなかった。あの女性が何かをしたのかもしれない。手袋を取って確かめたかったけれど、それよりもまずは有間の意識の有無を確認しなければならなかった。
「とにかくベッドに運ばなくちゃ……!」
有間の身体を引きずってドアから離れると、ようやっと扉を開けられたアルフレート達が有間の様子に血相を変えた。
駆け寄ろうとするのを鯨が扉を閉めて阻み、ぐったりとした有間を抱き上げてベッドに寝かせた。ティアナに子細を質(ただ)す。
ティアナはその前にと、ようやっと有間が突き刺した手を持ち上げた。鯨に処置してもらおうと手袋を外した。
驚愕。
「え……?」
無い?
手袋を抜いた、その後に現れる筈の腕が、無かったのだ。ただただ、向こう側の景色が見えるだけ。
何処から無いのか、それを確かめることも忘れ、手があった場所を凝視する。
鯨が狼狽して青ざめ、ティアナから手袋を奪った。慌てて手があった場所に被せる。
するとどうだろうか。
無かった腕が、戻っているではないか。
ティアナは鯨を振り仰いだ。遅れて全身に戦慄が走る。身体が震えた。
「これ……どういうことなんですか……!」
「見たままだ」
鯨は舌打ちした。
「……少し、出る。有間はすぐにも目覚めるだろう。東雲、お前も来い」
「あ、は、はい!」
苛立ったような鯨は鶯を睨み、早口に命じる。
鶯も、異様な程に青ざめていた。鯨の言葉に神妙に頷きはしたが、歩けるのだろうかと思う程に身体が震えていた。
鯨が乱暴に扉を開ける音がティアナの身体を打ちすえた。
足早に上へと向かう二人を、アルフレートが呼び止めた。
「待ってくれ! 出る前に、子細を話してくれないか。アリマは、大丈夫なのか」
「……」
鯨は沈黙し、アルフレートの問いには答えなかった。かつかつと、乱暴な足踏みで階段を上がっていった。
アルフレートが追いかけようとすると、鶯が申し訳なさそうに一礼して止める。アルフレート達を中へ押しやり、扉を閉めた。
取っ手に掛けようとした手はしかし拳を握って扉を殴りつける。どうなっているんだ、と苛立たしげに呟き、ティアナを振り返る。
「ティアナ。何故、アリマは邪眼を刺したんだ」
「分からないわ。いきなり、自分で刺してしまったの」
クラウスが有間を見下ろし、眉間に皺を寄せた。
「とにかく、何が遭ったのか話せ」
「え、ええ……」
ティアナは頷き、頭の中にある記憶を整理する。なるべく短く、簡単に説明した。
だが、自分が思った以上に混乱しているようだ。未だあの女性は幻覚ではなかったのか、なんて思ってしまう。
そしてそれは、クラウスやアルフレート達も同じことだった。
「その女性がティアナの両親を知っていた……?」
「もしかしたらお母さん達が旅の中で会ったのかもしれない。お母さんと、何か約束しているようなことを言っていたし。……でも、何だかあの人……人間じゃないような気もして。今でも、現実なのか疑わしいの」
ティアナは恐怖も安堵も感じた女性の姿を思い浮かべ、己の身体を抱き締めた。
『我が兄弟の死、いずくんぞ、受け入れようか。其の死、いずくんぞ、意味を成そうか』
我が兄弟って、誰なんだろう。
己の死が無意味だと言われたことよりも、そちらの方が引っかかった。
有間のような気もするけれど……有間は一人っ子よね。
それに、あまりにも見た目が違いすぎる。
加えて『兄弟』ではなく『姉妹』と言う方が正しいのではないだろうか。
有間のことを指してはいない?
では、一体誰のことを兄弟だと……。
他に何か手がかりは無かっただろうかと、ティアナは記憶の中を粗探しする。
どんなに些細なものでも良かった。女性の言動が少しでも解読出来るのなら――――。
「……ぅ」
「アリマッ?」
有間が身動ぎし、微かな呻きを漏らす。
アルフレートが彼女の名前を呼ぶと伏せられた瞼が震え、徐(おもむろ)に持ち上がった。
ティアナも身を乗り出すと、虚ろな眼差しが虚空をさまよい、
「……アルフレート?」
確かめるように、ぼそりと独白した。
ややあって彼女の紫の目はティアナ、クラウスへと移動する。
そして真実覚醒したようでがばりと勢い良く上体を起こした。両手を見下ろし、眉根を寄せる。
「アリマ? 大丈夫?」
「……」
「アリマ?」
「……見えてる。あの時確かに左右の視力が落ちた筈なのに」
両手も痛まない。
怪訝そうに呟く有間は手袋を外そうとして、止めた。
「痛くないならそれで良いか」
「アリマ」
「……あ、ごめん。ザルディーネに行くんだったよな。うちも一緒に行くよ。ティアナをマティアスのところに送り届ける」
いつもの口調で言い、有間はベッドを降りる。
しかし、アルフレートに肩を捕まれ引き留められた。
「アリマ、お前はここで休むんだ。身体が、」
「悪いけど。友人の死に際には立ち会いたいんでね」
その為に、邪魔な邪眼を取り除いたんだ。
行かなければ意味が無い。
やんわりとアルフレートの手を剥がし、ティアナに笑いかける。それはいつもの笑みで、それ故にティアナはぞっとするモノを感じた。
何か、有間は隠そうとしているのではないだろうか――――何とはなしに、そう思ってしまった。
「アリマ……」
「おぉっと、感動して泣くのはマティアスのところに無事に送り届けてからにしておくれよ」
くしゃり。
少年めいた無邪気な笑みは、黒い影を帯びている。
少なくともティアナには、そのように見えた。
あなたは何を隠しているの?
問いかけたいが、何故か口は動いてはくれなかった。
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