左腕が嫌に重い。
 瞼を押し上げて、ぼやけた視界に違和を感じた。何処か平面的な世界だ。
 ゆっくりと起き上がり、有間はその違和感の正体を知った。

 左目が、見えないのだ。

 恐らくは左手の邪眼を潰されたことによる後遺症だろう。左の顔に触る右手が上手く見えない。
 左目の周囲は異様な程に凸凹としていた。感触から、それが浮き上がった血管だと分かる。
 上手く動かせない左手に舌打ちし、見覚えのあるベッドから降りると、一人ああ、と声を漏らす。

 薬屋の地下室だ。
 ということは、気絶している間に、鯨かクラウス辺りに連れ出されたのだろう。あの城で比較的自由に動ける者と言えば、この二人しか思い当たらない。
 痛みも無い。麻酔を打たれたように感触も鈍い。ただ、重いだけ。重いだけならどうとでもなる、筈だ。

 部屋の中には誰もいない。有間だけを寝かせて皆ザルディーネに向かったのだろうか。いや、さすがにティアナはここに残っているだろう。マティアスが連れて行くとは考えにくい。
 左手を庇いつつ、側に畳まれて置いてあったマフラーを手にした。手早く首に巻いて扉を開き、不安定な視界に苦心しながらゆっくりと慎重に階段を上る。薬屋へ続く扉を押し上げると、カウンターに寄りかかっていたらしいアルフレートの後ろ姿を見つけた。

 扉が開いた音でこちらに気が付き、振り向く。
 有間と目が合うなり、ざっと青ざめてカウンターを飛び越えた。丁度着地場所が目の前だったから驚いた。


「アリマ!!」

「うわはい。――――っておぅわ!?」


 脇に手を差し込まれて持ち上げられた。近くに降ろされたかと思えば左の頬に触れられ、それが分からずに唐突に訪れた感触に有間はびくりと身体を震わせた。アルフレートが柳眉を顰める。
 彼が青ざめたのは、左目付近の血管のことだろう。労るような触れ方に苦笑し、右手を添えて離した。


「左目が見えなくなってるけど、問題は無さそうだから」


 立ち上がって薬屋を出ようとすると、ばたんと乱暴に扉が開け放たれ、扉と正面衝突。後ろに倒れ込んだ。
 悲鳴が上がる。……ああ、ティアナだね。
 一番被害の大きかった顔を撫でて沈黙していると、前でティアナが必死の体で謝ってくる。


「ご、ごめんなさい! まさか扉の前にいるとは思わなくって!」

「……いや、うん。シリアス展開ぶち壊すボケをどうもありがとう。お陰でうちもちょっと前向きになれそうな気がする」


 手を剥がせば、泣きそうに顔の歪んだ彼女は有間の顔にぎょっとする。彼女も有間の左半面に驚いたらしい。


「も、もしかして今さっきので……!!」

「いや目覚めた時からそうです。ああ、止めて。左目見えないからそっちから触ろうとするのは止めて」

「……大丈夫か?」


 ティアナの隣に立って無表情に手を差し出してくるのは鯨だ。その目にほんの少しの安堵が垣間見れた。
 右目に映るように差し出されたそれに己の手を重ねて立ち上がると、更にその後ろにクラウスと鶯の姿が見えた。二人共、厳しい顔で有間を見ていた。


「左腕は?」

「痛くは無いし、触覚も鈍い。もしかして麻酔打った?」

「……いや、邪眼が死ぬと一時そうなる。血は俺が止めたが、もうその状態であるならすぐにでも治る」

「え、そうなの?」


 鯨は小さく頷いた。
 曰く。
 邪眼が死ぬと耐え難い激痛に苛まれ、その後麻酔が打たれたような状態となり、その間邪眼の場所に応じて何かの機能が無能となる。けれどもすぐに完治し、感覚も戻ってくるそうだ。ただ、失った邪眼はもう消失してしまうが。
 そう語る鯨の表情がやや堅いような気がしたが、彼も動揺しているのだと有間は申し訳なくなった。


「じゃあ、左目は、傷が塞がれば見えるようになるって?」

「ああ。……それで、アルフレート殿下とティアナ殿が今からザルディーネに発つそうだが、お前はどうする」

「……は?」


 有間はぽかんと顎を落とし、ティアナを見やった。


「……え、は、ちょっと、はい?」


 ザルディーネって。
 ザルディーネってディルクが破壊しようとしている場所じゃないか。
 そこに、ティアナが?
 何をしに?


「ティアナ」


 語気を強めて彼女を呼べば、ティアナは鯨とアルフレートに目配せした。


「アリマ。二人で話したいの。良い?」

「……」


 有間は目を細め、小さく頷いた。
 嫌な予感が、胸に重い鉛を落とした。



‡‡‡




 地下室。
 ベッドにティアナと並んで腰掛けた有間は目を伏せた。いやが上にも嘆息が漏れてしまう。

 ティアナの話は、正直受け入れ難いものだった。
 彼女の命の長さ、覚悟。
 己の意思全てを込めて語るティアナは、一人の女としても、一介の人間としても、強かった。

 有間は沈黙を保って聞き手に徹していた。ただ、心中が表情にありありと表れている。ティアナの意思に不満を持っていることが見て取れた。


「……で、うちをここに置いていくつもりだった、と?」

「だってアリマは……ディルク殿下の竜の力を怖がっていたんでしょう? イサさんの話じゃ、まともに戦えないって、」

「……」


 有間は視線を横にさまよわせた。
 邪眼があるから、いやが上にも竜の力の全てを感じ取ってしまう。それは仕方のないことだ。
 けれどだからと言ってティアナをこのまま行かせて良いものだろうか。幾ら最期の時をマティアスの傍で迎えたいからと言ったって――――。

 それはつまり、有間には彼女の最期の姿を見せてくれないということだ。
 子供じみた感情だとは分かっている。けれどそれが、少しだけ、寂しかった。
 見捨てることすら厭わないと言った自分が、そんなことを思う。そんな資格も無いだろうに。
 有間は前髪を掴み長々と嘆息した。

 その時、ふっとある疑問が湧く。
 それを確認した直後、有間の口は予期せずそれを声に乗せて発した。


「……あのさ、ティアナ」

「何?」

「前さ、うち……君に訊いただろ。カトライアが戦渦に巻き込まれた時、君達を捨ててカトライアを出たらどうするって。ティアナは待ってると思うって、答えた」

「うん」

「何で?」


 有間にしてみれば、ティアナは友達だと思っていないのかもしれない。
 盾に出来る程度の存在でしかないのかもしれない。
 そう思ったことは無いのかと、問う。

 ティアナは瞠目した。
 それに畳みかけるように、有間は続けた。


「君のような、人間らしい感情を持ち合わせていないと、思ったことは無い?」


 邪眼一族は化け物。
 存在こそ悪。
 それは、万国共通の認識。
 ティアナだって、知っている筈だ。ベリンダ達に聞いたことがあるのだから。

 生き残った邪眼が封印された黒い右手を見下ろし、ティアナの返答を待つ。

 ティアナは、有間をじっと見据えて、口を開いた。


「アリマは、もう覚えてないかもしれないわね」

「何を」

「野犬に襲われた時、守ってくれたでしょう。ナイフで野犬を殺して」


 ……ああ、あれ。


「でもあれ、ティアナは泣いて、一緒に駆けつけてきたクラウスさんに抱きついたじゃん。あれは、うちに怯えたんじゃないの?」

「可哀相、って思ったの。私」

「可哀相?」


 ティアナは頷いて、有間をそっと抱き寄せた。
 彼女の心臓の鼓動が聞こえる。まだ、彼女が生きているという証だ。


「あの時、私を庇って腕を折ったでしょう? でも痛がる素振りも見せなくて、私が泣いても無表情に頭を撫でてくれて。私には、アリマが我慢をしているのが分かったの。何となく、何となくだったけど。頭を撫でたのも血の付いてない手の甲だった。それから暫く、怪我が治るまで私に近付かなかったのも、私を怖がらせない為でもあって、アリマがもう邪眼一族として否定されたくなかったからだったんでしょう?」


 最初から、アリマは怖くなかったわ。
 むしろ仲良くなりたくて仕方がなかった。だから、やり方は酷いとは思ったけれど、アリマが本当は凄く優しいんだって分かって、嬉しかったの。本当のアリマの姿が見えたのが、本当に嬉しかったの。


「だから、私は、私だけは何が遭っても絶対にアリマを拒んだりしない。だから、待つの。帰ってくるって信じていつまでも待つって答えたの」


 離れたかと思えば、額を合わされる。


「それにね、アリマ。アリマがちゃんと私を友達だって思ってくれてること、分かってるのよ」


 でなかったら、ここにいないでしょう?
 にこりと笑うティアナに、有間は言葉を失った。
 ……馬鹿だ。
 この子は、馬鹿だ。
 馬鹿すぎる。

 そう言いながら……それを置いて逝くのだから。

 有間はティアナを離し、立ち上がった。


「アリマ?」


 ふらり、と歩み寄ったのは書類やら奇怪な道具やらが散らばった机だ。
 そこには幾重にも重なった書類に隠れて、小さなナイフが置いてあった。恐らくは材料を切り分ける為の物だろう。その側には乾燥した果物の小さな欠片が散らばっていた。

 そのナイフを手に取り、一つだけ深呼吸する。


「アリマ、あなた、何を――――」


 ティアナがこちらに寄ってくる。
 彼女が近付く前に、有間は動いた。


 ナイフを右手に突き立てる。



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