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「……ふむ、こいつぁ参った、参った」
暗い岩屋の中で、少女は愉しげな声で呟く。
彼女の周囲には無数の目玉が所狭しと浮かび上がり、瞬きを繰り返す。彼らは彼女の子供であり、目だけの存在だ。ぎょろりぎょろりと蠢くそれらは、少女が腰を上げるなり彼女に注目する。
少女はひらりと片手を振った。
「あの子の竜が移動した。儂もそろそろ動かねばなるまいて。花霞姉妹にも、何度も何度も招集をかけられておったしなぁ……」
人として暮らすも、難儀なものよな。
気怠そうに漏らしながら少女はやはり愉しそうに岩屋の入り口へと向かう。
「お前達、儂が守るまでしっかりとここをお守り。でなければ儂は人の姿を保てなくなるからね」
子供に優しく言い聞かせ、彼女は岩屋を後にした。
‡‡‡
「……ティアナ。そろそろ戻った方がいい」
静まり返った闇の中、薬屋から出たクラウスの低く潜められた声は、しかしよく響いた。
彼の視線の先には、立ち尽くしたティアナの姿がある。ここからでは表情は見えないが、付き合いの長いクラウスには、容易に想像出来た。
彼女の隣に立って、
「もうあいつの姿も、とっくに見えなくなっているんだろう?」
「うん……ごめんなさい、クラウス」
マティアスがこの国を経ってから、すでに数時間がかかっていた。
彼はカトライアの民が避難しているザルディーネに向かった。
二十年前、カトライアを灰にしたと言う【最後の魔女】の力――――すなわち、竜の力を得たディルク、そして彼を利用するベルントを止める為に。
それでも、彼を見送ってよりずっとここに立ち尽くしたままだった。
偏(ひとえ)にマティアスが好きだから。
それ故に、彼女はマティアスの役に立てないことを、心底悔しがっていることだろう。マティアスが経つ前に呪いの痛みに耐えかねて倒れた彼女の顔面がが蒼白なのは、それだけの理由ではない。
クラウスも、ザルディーネに避難した家族のことを思うと居ても立ってもいられなかった。けれど彼女と同様、出来ることはほぼ皆無に等しい。
それに、露台でベルントに邪眼を貫かれた有間の安否も気になる。
ティアナ達を救出した際に合流した鯨の話では、ルナール皇帝の姪イベリスの娘としてディルクの形だけの正妃とするつもりらしかった。ヒノモトへの牽制の意味合いも含んでいるのかもしれない。或いは、有間自身の身柄をヒノモトとの交渉の材料にするつもりなのか。どちらにしても、有間をこのまま放置しておくべきではなかった。片方の邪眼も潰されないとも限らないのだ。
鯨が隙を見てアルフレートと共に救出するとローゼレット城に潜伏している筈だが、未だに音沙汰が無かった。
クラウスは目を細め、何かを噛み締めるように唇を真一文字に引き結んだ。
ややあって、
「後悔しているのか? あいつと一緒に行かなかったことを……」
「……、行けば足手まといになると思ってここに残ったけれど……私の身体、マティアスが戻ってくるまで、持たないかもしれない」
「ティアナ……」
手を伸ばそうとして、止める。
ティアナは肩越しに振り返って弱々しい微笑を浮かべた。
「なんとなくわかるの。次に倒れたら……その時が、最後だって。だからね、ここから離れたら、もう二度と外の景色が見られなくなるような気がして……そう思ったら、足が動かなくなって」
情けない、とティアナは笑声を立てた。
まるで弱々しくも美しい花だ。
最期まで鮮やかに咲いていこうとする、儚く強い輪の花。
それを手折りたくないと、心の底から思う。
幸せで在れば良いと願っていた独りの少女に理不尽に与えられた身勝手な死。
何も出来ない己が恥ずかしく、情けなかった。自分には、何もしてやれない。
悔しい、悔しい、悔しい。
「……っ! ティアナ……! どうしてお前が、こんな……っ」
ティアナは目を伏せた。再び、正面を見る。
「私、やっぱり、後悔してるかもしれない」
「え……?」
「マティアスってすごく強そうに見えて、意外と脆いところがあるから……私が、ずっと……側で支えてあげたかった」
ティアナはそっと胸を押さえた。
その鼓動は死へのカウントダウン。
つ、と頬を伝い落ちる涙は熱い。ティアナがマティアスへ抱く想いのように、熱い。
約束した。必ず、ティアナのもとへと帰ってくると。
でも、その時にはもう――――。
「――――ティアナ。手を出せ」
「え?」
クラウスはきょとんと振り向く彼女に無言で促す。
戸惑いつつ、ティアナが向き直って右手を差し出せば、その上にことりと落とされた小瓶。中では何かの液体が揺れている。
何かと問いかけると、クラウスは寸陰押し黙り、
「二十四時間後に、お前の命を確実に奪う劇薬だ」
とても辛そうに、告げた。
ティアナは瞠目した。
「ただしその間、お前の身体を蝕む呪いが発動することはない。お前が気を失っている間ゲルダに作り方を聞いて俺が調合した」
苦肉の策だ。作りながら、クラウスは己の非力を呪い、身代わりを切望した。この薬が役目を果たすこと無く処分されることを強く、強く願った。
マティアスも同じ――――否、それ以上か。彼は完成したそれを憤怒の形相で睨み、使うなとクラウスに言った。
心の中で、謝罪する。
「ザルディーネまで馬を飛ばせば、恐らく間に合うだろう」
ティアナは何かを考え込むように、泣きそうな顔で小瓶に入った望まれざる劇薬を見下ろす。
クラウスがそっと頭を撫でるとゆっくりと顔を上げた。
「俺もこんな物、渡すつもりはなかった。だが、最後の瞬間、お前の側にいるべき相手は……俺じゃない」
「クラウス……」
じわり。
翡翠の目が滲む。
けれど涙はこぼれなかった。
淡く色づく唇を噛み締めてクラウスに深々と頭を下げる。
「ありがとう。私、行って――――」
顔を上げたティアナは、しかし。
クラウスの背後に何かを見つけて言葉を止めた。
ややあって、みるみる表情が強ばっていく。ただでさえ悪い顔色が、もっと青ざめた。
薄く開いた唇が、小さく声を漏らす。
「……アリマ?」
その言葉に反応してクラウスも振り返る。瞠目。
「……っ」
鯨がこちらに歩いてくる。
その後ろで、有間がアルフレートに背負われていた。ぐったりとして、だらりと前に伸びた左手からは、ぼたぼたと止め処無い血が垂れている。包帯を巻いているが、それは真っ赤に染まり、すでに意味を失っていた。
ティアナはクラウスの脇を過ぎ、彼らへと駆け寄った。
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