アルフレートの後に部屋に入ってきた人物――――ディルクは、アルフレートにしがみついて恐怖を抑え込もうとする有間に、まるで汚物を見るかのように冷たい蔑視を向けた。
 有間は彼の姿を見ないように、目を伏せた。有間の目には、ディルクの魂はもう人間の形には見えなかった。黒い影に覆われ、ぐなりぐなりと気味悪く蠢く恐ろしい塊だった。
 本能の警鐘は有間の脳を殴るようにけたたましい。

 有間の震え出す身体を抱き締めて、アルフレートはディルクを苦しげに見た。


「兄さん。それ、ルナールの皇族の娘なんだってね」

「言い方を改めろ、ディルク。彼女を物のように言うことはオレが許さない」


 厳しく言うと、ディルクは面白くなさそうに鼻を鳴らす。


「そいつは、ヒノモトの化け物の血も引いているんだ。庶民平民……いや、下民以下じゃないか。生き物として扱うのも厭わしいよ。人でない身で、どうやって兄さんを誑かしたかは分からないけれど」

「ディルク!」

「早く目を覚ましてよ、兄さん。兄さんは、皆から騙されているんだ。マティアスからも、その化け物からも」


 甘えるような声で、弟は兄を諭す。
 アルフレートは有間を落ち着かせるように、震える身体を按撫(あんぶ)する。

 ディルクの前では、有間はただただ怯えるだけの娘だ。
 何の為に、邪眼と魔女の混合術を鯨に習ったのか分からない。
 悔しくても、本能的な恐怖が挫いてしまう。

 有間を抱き締めて放さないアルフレートに、ディルクはふと何かを思い出した風情で、諦念の入り交じった溜息をついた。


「……でもまあ、兄さんがそれに本当に執着しているって言うのなら、丁度良いかもしれないね」

「……何?」

「ベルントはそれを僕の正妃にするつもりなんだってさ。曲がりなりにも女だし、ルナール皇族の血を引いているから」


 アルフレートは顎を落とした。


「アリマを、お前の正妃に、だと……?」

「ああ、だけど僕にはその気は無いよ。化け物を妻にして子供を孕ませるなんてとんでもない。けどそれで兄さんが喜んでくれるなら少し考えるかな。名目上は僕の正妃だけど、兄さんがそれを好きにすれば良い。どうせ、そんな風にしか役に立たないだろう?」

「ディルク!!」


 弟に対して声を荒げた。
 ディルクは一瞬だけ傷ついたような顔をした。けれども、彼が何を憤ったのか分からずに、首を傾けてアルフレートに何事か問いかける。

 アルフレートは何かを言おうとして、躊躇って口を閉じた。


「……すまないが。少し席を外してもらえないか。二人きりで話がしたい」

「どうして?」

「オレがそうしたいからだ」


 ディルクは目を細め、有間を睨めつけた。
 それを庇うようにアルフレートが身を捩って彼女を隠せば、露骨に不機嫌を表す。最愛の兄が人の扱いも受けない気味の悪い存在に籠絡されているのが余程気に食わないのだろう。

 あまり彼女を庇ってディルクにキツく当たると、却って彼女に危害を加えかねないと判断したアルフレートは、声音穏やかにもう一度弟に頼み込む。

 ディルクは、仕方がないと言わんばかりに長々と溜息をついて見せて、何も言わずに退出した。

 暫く扉を睨み、アルフレートは有間を放した。

 直後、有間はその場に崩れ落ちた。


「アリマ!」

「……ご、めん。気が、抜けた……」


 深呼吸して気を落ち着かせていると、アルフレートが有間を抱き上げてベッドに寝かせた。宥めるように頭を撫でられた。


「枷まで付けられて……」

「……はは、おかげで動きにくくてさ」


 上体を起こそうとするとアルフレートが支えてくれる。
 お礼を言った有間に、彼は深刻な面持ちで問いかけた。


「ところで、謁見の間でも、先程でも、お前はディルクの何に怯えたんだ」

「……それは――――」

「――――竜、だろう」


 有間はあっとなってバルコニーを見やった。
 そうだ、忘れていた。鯨がここに来ていたのだ。

 鯨はバルコニーに立っていた。アルフレートに軽い会釈をして部屋に入る。ベッドの側に立ち有間の様子を窺う。
 自らの代わりに答えた彼に、有間はああ、そうかと確信を得た。鯨が言うのなら、やはり有間がディルクに見た影の正体は竜なのだ。


「イサ殿……ご無事だったのか」

「俺は不慮の死を許されていないと、申した筈ですが?」


 鯨は有間の頭を撫でながら、無表情に言う。

 アルフレートはほっと息を漏らした。確かに因果律云々を聞かされていたが、それでも案じずにはいられなかった。死ねぬと言っても、怪我はする筈だ。身動き出来ない程のものだって負わぬ訳でもあるまい。


「有間。お前は邪眼が二つあるが故に、竜の存在を過敏に察知したんだろう。本能的な恐怖で何も出来なくなるのも仕方がない。無理して立ち向かおうとするな」

「……でも、どうして竜が第五王子の右目なんかに?」

「【最後の魔女】から、奪い取って、右目に宿らせた」


 有間もアルフレートも身体を強ばらせた。顔を見合わせ、鯨に詳細を促した。


「竜は今まで【最後の魔女】の中に封印されていた。彼女はこちらにいる。ディルクに竜を奪われて瀕死の状態のところを今、東雲鶯に治療させているが、回復するのにはまだ時間がかかるだろう。そちらを優先した為に合流するのが遅れてしまったが……大事は無いようだな」


 この扱いには、少々腹が立つが。
 有間の両手両足を拘束する鉄枷を睨み、鯨は舌打ちした。再び解こうとするのに有間が待ったをかける。


「うちよりもティアナ達を助けて欲しいんだけど。多分、マティアスと同じように牢屋に入れられている筈だ。うちなら、まあ多分殺されはしないだろうしさ」


 鯨は露骨に嫌そうな顔をした。
 それを宥め、有間は自分よりもティアナの救助を頼み込む。

 何度も何度も言葉を重ねると、鯨は長々と溜息を漏らし、これを了承した。


「……分かった。彼女の救助の後に、こちらに戻る」

「助かる」


 安堵に吐息を漏らせば、アルフレートが口を挟む。


「オレも、ここを離れないつもりだ。ベルントはアリマを生かしておくつもりではいるようだが、逃げぬように痛めつけるかもしれない」

「……有間を頼みます」


 鯨は有間の頭をそっと撫でて、身を翻した。駆け出し、バルコニーから飛び降りる。

 ……これで、ティアナ……とマティアスは大丈夫だろう。鯨がいれば、十分な対処が出来る。
 胸を撫で下ろした有間の背中を、アルフレートが叩く。


「二人なら、大丈夫だ」

「……そうだね」


 そう、願いたいものだ。



.

- 106 -


[*前] | [次#]

ページ:106/140

しおり