手が痛い。
 つんとした血の臭いに混じる草木の香りが気になるけれども、まずは手当をしないことにはどうすることも出来ない。

 右手首を掴んだまま、真由香はその場に座り込んだままだった。
 ……どうしてだろうか。床がごつごつしている。まるで、地面のよう。硬く小さな物が足に食い込んで少し痛い。けれどそれも右手の激痛の前には些末なもので。
 真由香はどうしようかと弱り果てた。

 ここがマンションでもないことは、真由香でも十分分かっている。
 この周囲に人の気配は全く感じられない。聞こえるのは鳥のさえずりだけだ。雀だけではない。聞いたことの無い鳴き声も聞こえてくる。
 ここが何処なのか――――自分は助かるのか。
 分からない。


「いっつぅ……!」


 ああもう。痛くて痛くて考え事も出来ない!
 本当に、手をどうにかしないと――――。


「――――そこに誰かいるのか?」

「……っえ?」


 真由香は顔を上げた。と言っても、見ることは出来ないのだけれど。何処から声が聞こえたのか、突然のことだったから分からなかった。せめてもう一度、声か物音がしてくれれば……。

 ふと、茂みを揺らすような音がした。
 右斜め前、だ。
 そちらに顔を向けた。


「だ、誰……で、すか……」


 足音が聞こえる。途中、ぱきっと枝を踏んだ。


「まさかこんなところにまで人が入って来たとは……怪我をしているのか?」


 青年の声だ。凛としている。
 真由香の前に屈み込んだのだろうか、落ち葉を踏み締める音が間近に聞こえた。
 右手に触れ、左手を剥がす。無理矢理に動かされて、一際強い激痛に声を発した。

 青年の動きが一瞬止まった。


「すまない。だが、このままでは危険だ。早く手当をしなければ命に関わる」


 その真摯な声音から、青年には真由香を怪しがる素振りなど無かった。本心から真由香の怪我を案じているようだ。
 真由香に再び謝ると、その身体を軽々と抱き上げた。

 予期せぬ出来事に真由香が仰天する。ひきつった悲鳴を上げた。


「ひ……っ!?」

「村まで連れて行こう。そこで手当をしてもらうんだ」


 まあ、確かに痛みで歩けはしないけれど。
 それでも異性に――――いわゆるお姫様だっこという形で抱き上げられるなんて恥ずかしすぎる。
 それに、荷物のこともあった。大事なバイオリンだけでも、置き去りにはしたくなかった。

 けれども、痛みが邪魔をして口から漏れるのは呻きばかりだ。意識はすぐに右手に集中してしまう。胸の前で右手首を掴み、動かないように固定した。それでも、痛いものは痛い。


「目が見えないようだから感覚も鋭くなっているだろう。痛いだろうが、もう少し辛抱してくれ。村は、ここから近い」

「で、でも……っ」


 荷物が。
 荷物がある。
 大事なバイオリンが残っている。あれだけは、傍に。
 真由香は途切れ途切れに、ひきつった声でそう訴えた。

 すると彼は、


「……ならば、お前を届けた後に俺が取りに戻るよ。この辺りには人は来ないし、すぐに戻れば大丈夫だ。だから、今は怪我の手当を優先してくれ」


 優しく諭され、真由香は食い下がれなくなってしまった。唇を真一文字に引き結び、何も言わずにこくりと頷く。

 青年はそれに安堵したようだ。小さく謝罪し、歩を進めた。



‡‡‡




「あ、趙雲! ――――って、何だよその子!?」


 村に着いたのだろうか、驚いた少年の声が鼓膜を震わせた。

 その悲鳴じみた声に、複数の足音と声が聞こえる。その中には不審がるような言葉もあった。


「手! どうしたんだよその手!! 何かすげーことになってんぞ!?」

「森の中でうずくまってたんだ。手当て出来ないだろうか」

「そ、それは別に構わねえだろうけど……その子、見慣れない形(なり)だよな。何処の子なんだ?」


 趙雲と呼ばれた青年が分からないと返すと、周囲が俄に騒ぎ出した。渋る言葉の方が多い。この村は、余所者には優しくないようだ。

 しかし、趙雲は真由香が盲目であることを伝え、怪我の手当てを頼み込む。

 すると、


「皆、どうしたの?」


 女の子の声がしたのだ。
 不審がるその声は、次の瞬間驚愕に張り上げられる。


「な――――その子の手、酷い怪我じゃない!! どうしたの!?」

「森の中で見つけたんだ。目が見えないようで身動きが取れずにいた。何とか手当てだけでも出来ないだろうか」

「分かったわ。私の家に運んで!」

「ああ。……もう少しの辛抱だ」


 真由香に声をかけ、趙雲は歩き出す。真由香の腕が揺らされることの無きよう、彼は細心の注意を払ってくれた。

 女の子の家に着くと、段差のようなところに座らされて右手をそっと優しく持ち上げられる。痛みに呻くと、女の子が謝罪してきた。


「酷い怪我……火傷までしてるわ。一体何が遭ったの?」

「い、石を、掴んで……うっ」

「あっ、ご、ごめんなさい! 手当てを先にしましょう。話はそれからで良いわ」


 こくりと頷くと、女の子は濡れた布のような物で右手を優しく、軽く叩いて拭き始めた。勿論、それだけの刺激でもかなりの激痛を伴う。けれど、歯を食い縛って耐え続けた。

 女の子は真由香の怪我を出来るだけ刺激しないように、しかし迅速に手当てを行った。草の匂いが鼻腔を突き、それが手に塗られる感触に呻きは絶えない。

 包帯を巻き終えて、暫く安静にしていると、痛みはさっきよりも大分収まっていた。少しは、話す余裕が出てきた。触って感触を確かめると、手首よりも少し下までしっかりと巻かれている。


「また夜に交換しましょう。暫くは動かさないようにね」

「……あ、ありがとう、ございました。あの、何とお礼を言ったら良いか……」

「良いのよ。でもあなた、何が遭ったの? その手は火薬か何かに触れたの?」


 そこで、真由香自らに起こったことを簡単に話した。到底信じられるような話ではないとは思うものの、隠して不審がられるよりはましだ。
――――が。


「まんしょん? ぽすと? 何、それ?」

「え……?」


 真由香は首を傾けた。


「えと、分からないんですか?」

「ごめんなさい。ところどころの言葉が……」

「……そうですか」


 ……どういう、こと?
 やや俯き加減になって思案する。
 現代社会にマンションやポストは当たり前の存在だ。子供でも知ってる筈だ。

 だのに、彼女が知らないなんて……?

 マンションから一瞬で別の場所に移動したことと言い、どうなっているのだろう。

 今更ながら、胸中に重いモノが渦巻いた。
 自分の置かれた状況が理解しがたくて、それに恐怖を感じる。疑問の答えが無いのも手伝って、不安に心臓が跳ねるような感覚。


 嫌な汗が、額を流れた――――……。



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