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けたたましいベルの音に意識が一気に浮上する。
布団から腕を一杯伸ばして手探りで探し、冷たくつるつるした丸い形の物を手に取る。ぺたぺたと触って、見つけたボタンを押せばベルは止んだ。
すると次に耳に飛び込んできたのは鳥のさえずりだ。
真由香は上体を起こし、目を擦った。
真っ暗な中ベッドから降りて手を壁についてそろそろと歩く。そうして、辿り着いた洗面所で顔を洗って眠気を覚ました。柔らかいタオルで顔を拭いた彼女はふと思い出したように顔を上げた。
「……あ、そうだ。昨日の煮物残り物があったんだ」
朝ご飯はそれで良いかな。
そう漏らして洗面台を後にする。
キッチンに入れば、真由香は一層慎重になった。
また手をさ迷わせて鍋を掴むと、そのままコンロの上に置く。大きくズレて傾いたのを慌てて直した。
火を点けて調整すれば、彼女はほうと吐息を漏らした。
「冷や飯が残ってたし……お味噌汁はどうしよう。ご飯と煮物だけで良いかな」
冷蔵庫を開けてお握りにしてラップに包んでおいた冷や飯を一つ取り出した彼女はその横の、顔の高さに置いてあるオーブンレンジにそれを入れる。ボタンの場所を確認して時間を設定し、スタートボタンを押した。
「よし」
それから彼女はお茶を入れ、頃合いを見て火を止めた。温め終えた冷や飯も椀に入れ替え、よそってダイニングテーブルまで運ぶ。椅子を引いて座った。
手を合わせて声を発すれば、一人だけの食卓は始まる。1LDK部屋の中には、咀嚼する音しか聞こえなくなった。
真由香は親元を離れてマンションに暮らしている。
親と言っても、血の繋がりは無い里親だ。妻が子供が出来ない身体であるが故か、過保護が過ぎるのが玉に瑕(きず)の童顔夫婦とは、近所の感想である。
二人共音楽に関してはどちらも有名な人物であるのだが、真由香の前ではそんな影は少しも無かった。
この一人暮らしについても、強く反対されたものだ。一ヶ月かけて説得したのだけれど、結局は自宅からそう遠くないマンションを借りることになってしまった。一週間に五度は父か母、はたまた両方が訪れる。
里親に愛され、かつ近くの私立高校に通い、仲の良い友達もいる。
真由香自身、今の生活はとても恵まれていると思う。真由香に音楽の才能があるからと引き取ってくれた里親には感謝してもしきれない。
高校に通えるばかりか音楽に没頭出来るし、本当の子供のように、健常者のように扱ってくれる。友達も、真由香の《目》を気味悪がることなど一切無い。
今、彼女は本当に幸せだった。
「……と、早く準備しないと! 今日から考査だったんだ」
真由香が入学してから、考査には特別に点字でのテスト用紙が作られるようになった。幸いなことに、カウンセリング担当の先生が点字に明るい人物だったのだ。それでなくとも、何処かに依頼をするつもりではあったようだけれど。
時間は、真由香の考査には普通よりも長めに取ってある。なので、一般生徒よりも帰るのは遅くなってしまうのだった。
歯を磨いた後制服に着替え、身なりをちゃんと整える。髪などは触って入念に確認した。
鞄と、母に貰った大事なバイオリンを入れたケースを手にすると、家のコンセントを一部だけ抜いて家を出る。
真由香は家では練習が出来ないからと、放課後に吹奏楽部に混じってバイオリンを弾かせてもらっていた。部活には入ってはいないので彼らの演奏に加わることは無い。
戸締まりを確認し終えた彼女は、最後に玄関の鍵もしっかりと閉めて家を出た。
階段は危ないので、エレベーターを利用する。
途中声をかけられて溌剌と挨拶をした。
エントランスに出れば、まず自分のポストを確認した。管理人の行為で、分かり易いように取っ手に細工をしてくれた。他のポストとは違い、形が動物なのだ。多分、猫。
手紙が入っていれば、学校で先生や友達に確認してもらう。大概がダイレクトメールなのだが、たまに世話になっていた孤児院からの手紙が混じっていることがあるのだ。誰かに読んでもらうことが分かっている為、点字でなく手書きで、子供達が真由香に送ってくれる。月に数度しか無いそれが、真由香は楽しみだった。
――――されど。
「……あれ?」
中に入っていたのは手紙ではなかった。
石だ。真由香の手に収まる程度の、ごつごつとした石。
真由香は首を傾けた。
「悪戯……かな」
外に捨てようと思って身体を九十度回した直後である。
石が微動、したような気がした。
いいや、まさかそんなことある筈がない。
気の所為だ。
真由香は少しだけ気味が悪くなって、足早に出口へと向かう。
自動ドアが駆動する音がした。
刹那――――。
手の中で石が破裂した!
「ぁあっ!?」
破片が皮膚を裂き、熱が肉を焼く。
右手を襲った激痛に真由香はその場に座り込んだ。痛みに溢れた涙が頬を伝った。
「い……ったぁ……っ!!」
あの石、爆発物だったの!?
突然の事態に狼狽え混乱する。
悪戯にしては度が過ぎている。下手をすれば死ぬところではないか。
「き、救急車……っ、呼ば、なくちゃ……っ!」
だが、少しでも動かせば凄絶に痛い。手が吹き飛んでしまったんじゃないか、そう錯覚してしまう程に右手の感覚は激痛に支配された。
……でも、このままじっとして誰かが気付くのを待ったって、無駄に痛みが続くだけ。
真由香は、歯を食い縛りつつ左手で鞄を探る。
その時、唐突に強い風が吹いた。左から真由香の身体に叩きつけるかのように。
まだマンションの中なのに、《左》から風?
「……っえ?」
鼻腔を刺激したのは、土と緑の匂いだった。
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