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大坂由子(ゆうこ)はつくづく不運な女だと、彼は本人を目の前に思う。
僅かな望みを託した彼女は、しかし彼の望むような成果を見せはしなかった。むしろ、来なかった方が良かったのではないかと後悔したくらいだ。
目の前の由子は、泣きはらして真っ赤になった目を乱雑に拭い、毅然とした態度を繕って《結果》を報告する。
凄腕の弁護士と有名な筈の彼女は、今ではその面影は無い程に憔悴しきっていた。
こんな風にしたのは紛れも無く自分だと、彼は軽率な己を恥じた。
そも、由子を妹分に関わらせてはならなかったのだ。でなくば、由子自身が、そして院長が彼女にずっと隠し続けていた知らなくて良いことを、彼女が知ってしまう可能性があるから。
それを望んだのは由子であり、院長だ。
なりふり構っていられなかった。それだけ必死だったんだ、俺は。
自分に言い訳をして、前髪を掻き上げ、彼は小さく礼を述べた。
由子は静かに首を振り、謝罪する。
「ご期待に添えず、申し訳ございません」
「いえ……謝るべきは俺の方です。俺は真由香のことにあなたを関わらせてはいけないと分かっていながら、頼ってしまったんですから。必死になりすぎて頭から抜け落ちていました」
また言い訳をして立ち上がる。
女性も立ち上がって深々と頭を下げた。
その姿を見ながら、不運な女だと、もう一度思う。
由子は彼の、施設で可愛がっていた妹分の実の母親だった。
当時はまだ新米弁護士としてスタートしたばかりの彼女は、突如としてどん底に落とされた。
妹分を産んだ直後、父親、つまり彼女の夫は不治の病に倒れ、高額な治療費を独りで稼ぎながら赤子を育てなければならなかった。しかもその赤子は全盲だ。
駆け落ちだった為に、身寄りの無いと言っても良い彼女が、夫の治療費を稼ぎながら、助けを求めてくるあらゆる人間の弁護を請け負い、たった独りで全盲の赤子を育てるには剰りに負担が大きすぎた。
他者を頼る方法を知らない彼女の性格も、災いしていた。近隣の住民に助けを求めていたら、まだ少しは状況はましだったかもしれないのに。
精神的に追い詰められていく中、それでも鬱にもならずに数年子供を育てられた精神の強靭さには彼も舌を巻く。母は強し、子供の為なら鬼にもなれると言う、母と慕う院長の言葉の意味を、彼女から教わった。
だからだろう、院長は自分の娘を施設に託した由子を責めはしなかった。捨てたのだと娘に認識させて欲しいという由子の願いを聞き届け、母親に関しての一切を教えなかった。
院長は昔、彼にだけ本音をこぼしたことがある。
『あの子を引き取ることで、母親も、あの子救えるのだと思ったの。でなければきっと今頃、二人はこの世にいなかったでしょうね』
由子は、一体どれだけ苦しんだだろう。
新米だから当然裁判で敗けることも屡々(しばしば)だ。有名な事務所に所属していたとは言え、給料も安い。その精神的負担を抱えたまま、もっともっと稼いで、子供を独りで誰にも頼らずに育てなければならなくて、全盲の子供の世話をしっかりと見なくてはいけなくて――――他人が想像する以上の苦労に、由子は押し潰されてかけていたのだろう。
彼女は、苦しい現実に疲れたのではなくて、母娘共々殺しそうになる自分から娘を守る為に施設に預けたのだと、院長は優しい眼差しをして語った。
母親として決して許されることではない。けれども、あの時の由子にとっての最善は、この方法だったのだ。どんな思いでこの選択を選んだのか、彼には想像も及ばない。未だ、世帯を持ったことが無いから。
娘が小学校に上がった頃には名も売れ始め、個人で事務所を開くまでに成長した彼女は、しかし娘を引き取ることは無かった。弱い母親に引き取る資格が無いのだと、はっきりと断ったと言う。
代わりに、彼女はこっそりと、匿名で施設に定期的な寄付をするようになった。
それが途絶えたのは、夫が病死してから約二年間。案じた院長が様子を見に訪ねた時には、相当憔悴していたらしい。今のような姿だったのかもしれない。
大坂由子は、人に惜しみない愛情を注ぐ女性である。
しかし真面目すぎる分何もかもを自分で解決しようとして、自分を破壊してしまう。
今もそうだ。
彼が頼ってしまったから、腹を痛めて産んだ娘の為に毎日寝ずに行方を掴もうと奔走している。院長以上に、己を省みていない。
「少し休まれて下さい」
「いいえ。私なら大丈夫ですから」
妹分の面影を感じる顔を不健康に陰らせて言われると、胸が締め付けられる。妹分に言われているような錯覚を覚えてしまうのだ。
「ですが、倒れられては俺が困ります。ここに来たのは、院長には秘密にしていますから……ですから、悟られるようなことはしないでいただけると……」
あの人、怒ると怖いんです。
少しでも空気を良くしたくて冗談めかすと、気遣いを察したのか由子は薄く微笑む。
「……分かりました。では、今日一日だけ」
「……はい。ありがとうございます」
一日じゃ足りないだろう。
心の中で返しつつも、きっとこれが彼女の譲歩だろうから何も言えない。
彼は謝罪と謝辞を述べ、頭を下げた。
「では、俺はこれで。本当にありがとうございました」
少しでも長く休めるようにと、早々に退出しようとした彼を、由子は呼び止めた。
「あの……田原さん達は、」
遠慮がちに訊ねてくる由子に、彼は顔を曇らせる。
由子の娘を引き取った田原夫妻は、どちらも有名な音楽家だ。
されど、今はほとんど活動していない。娘の失踪が精神的に堪え、楽器を持てないのだ。
子供に恵まれなかった夫妻であるから衝撃も大きかった。妻などは状況を聞いただけで失神してしまった。
夫婦の状況を聞かせると、女性は更に顔を陰らせた。
「そう、ですか……」
「だからといって、今日はちゃんと休んで下さいね」
「……」
はい、と掠れた声で応えを返す由子を、正直信用出来なかった。
だが首を左右に振って無理矢理に笑ってみせる彼女から目を逸らし、彼は事務所を後にする。これ以上由子を見ていると、慚愧(ざんき)に心臓を突き殺されてしまいそうだった。嗚呼、どうして俺は彼女に頼ってしまったのだろう。こんなにも苦しめてしいる。
階段を下りた彼は、大股に歩いて事務所から離れた。
「……何処にいるんだ、真由香」
憎らしげに、悲しげに妹分の名前を呟き、彼はポケットから何かを取り出す。
掌に転がるそれは、彼の手より小さな、ごつごつとした小石だ。赤黒く変色しているのは、血だ。
妹の――――田原真由香のものかもしれない、血。
彼女は無事なのか。
無事だとすれば、今何処で何をしているのか。
誰もが、彼女を案じている。
「生きてるならさっさと戻ってこい。半年も経ってるんだぞ……」
石を握り締め、彼は懇願する。
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