「なー、真由香ー」

「張飛なんて人私は知りません」

「だから悪かったって!!」


 びっしょりと濡れた真由香はぷいっとそっぽを向いた。
 彼女の手を引いて隣を歩く趙雲が小さく笑声を漏らす。

 彼女の後ろで張飛がひたすらに平謝りする。けれども真由香はにべもなく切り捨ててしまう。
 川からの帰途、ずっとその調子だった。

 二人の様子を眺めながら、釣り竿持つ蘇双は鼻を鳴らした。遊び疲れた珠梨は関定の背中ですやすやと心地良さそうに眠り込んでいる。


「自業自得だよ、張飛」

「けど、蛙が駄目だとかオレ知らなかったしさー!」

「渡す前に先に言えって」


 関定が呆れたように言う。

 彼の言う通りと言わんばかりに、真由香は大きく頷いた。
 渡す前に言ってくれれば、拒絶も出来たし苦手だと教えられたのだ。知らないで渡そうとしただけなら、真由香だってまだ笑って許せる。

 でも、でも。
 触ってしまったら、もう……!
 感触の残る手に未だにぞわぞわと悪寒を感じる。鳥肌が立った。

 それを見て、宥めるように趙雲が頭を撫でてくれた。撫でられると、少しは楽になる……気がする。


「ううぅ……」

「けど、虫が平気な真由香がぬるぬるが駄目だったなんて思わなかったな。てっきり苦手な物は無いんだとばかり思ってたけど」


 関定が意外そうに言う。

 確かに女の子で虫が平気なのは珍しいかもしれない。けれども自分にも苦手な物くらいある。
 真由香はさも当然のように言った。


「何で駄目なんだ?」

「だって、ぬるぬるしますもん」

「いやいやいや……」


 あの手をぬっと滑る感覚が嫌いだ。そして手に残る粘液も嫌いだ。
 つまるところ、全てが嫌いなのだ。


「じゃ、ぬるぬるした虫は駄目なのか?」

「駄目です。ぬるぬるした関定さんも駄目です」

「オレはしねぇから」

「分からないじゃないですか。世の中何が起こる分からないんですから。何も無いところで転んだりするんですよ!」

「「「それは真由香だけだから」」」


 関定だけでなく、張飛や蘇双まで声を揃える。

 「あう」真由香は肩を落とした。
 ちなみに、川から村に戻るこの山道、彼女は二度転んでいる。どちらも張飛と関定が支えてくれたので怪我は無い。


「本当、一日に十回は転んでそうだよね」

「……いえ、二回です」


 唸りながら言うと、また鼻で笑われた。
 でもそんなには転んでない……筈だ。
 強くは否定出来ないので唇を尖らせる。

 また趙雲が頭を撫でてくれた。

 蘇双も、そこでその話を終わらせた。


「……そうそう、今日釣った魚、真由香にあげるよ。関羽に焼いてもらうと良い」

「蘇双、勝手に決めるなっての。……そのつもりではあったけどさ」

「じゃあ良いでしょ」

「お前は釣ってないだろうが!」

「五月蠅い」


 ぴしゃり。
 蘇双は冷たくあしらってしまう。

 真由香は苦く笑い、釣り上げた関定に礼を言った。

 すると関定もそれ以上は蘇双に噛みつくことも無く。今度は真由香も釣り上げようなどと言ってくれた。


「そうですねぇ……今度は釣り上げたいです」

「魚影が見えない分、難しいだろうしな。釣り上げられたらお祝いだな」

「頑張ります」


 また釣りに行ける。
 それが嬉しくて、ふふと小さく笑った。

――――出来ることがどんどん増えていく。
 ちゃんと生活出来ている、そのことが嬉しい。
 自分が思っていたよりも、難しくはない。
 頑張ればこの世界でも出来ることがあるのだ。

 急激に浮上する気分に自然と足取りも軽くなった。


「どうした、真由香」

「何でもありません」


 趙雲に嘯(うそぶ)いて、真由香は《画家さんの色》をしている空を仰いだ。
 真っ黒な視界でも、何となく明るく感じられた。

 ……くしゅんっ。



‡‡‡




 その日の夜、真由香は一人世平の家にいた。
 昼とは打って変わって、難しい顔をして世平と向き合って座る。

 目の前の世平も、きっと難しい顔をしているだろう。

 彼女が一緒に来てくれた関羽を一旦返したのは《あの話》をする為だ。今はまだ世平以外に聞かれる訳にはいかない。……申し訳無く感じてはいるけれど、内容が内容だから。


「……真由香は、どうしたいんだ?」

「皆さんはとても良くしてくれます。だから、このまま黙っておきたくはないです。でも、話すのは、正直怖い……と思ってます」


 受け入れてもらえるか、それは真由香がこの村で暮らすことよりも難しいことだ。
 だから、怖い。
 妄想だとか夢物語だと片付けられてしまったらどうしよう。
 自分が今まで暮らしてきた世界を下らない嘘なのだと切り捨てられたらどうしよう。

 勿論証拠は幾らでも持っている。
 けれど、それでも信じられなかったら?

 受け入れられたばかりだから、こんなにも不安を感じてしまうのだ。

 けれど、このまま黙っていたくはない。優しい彼らを騙しているような気がしてしまう。
 真由香は膝の上に置いた両の拳をぎゅっと握り締めた。

 世平は小さく唸り、


「……まずは劉備様に話してみるか。長の判断に身を委ねよう」

「そう、ですね」


 でも、彼も受け入れてくれるか分からない。



 真由香の世界が、この世界とはまるで違うだなんて。



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