真由香が猫族の村で暮らすようになって、関定や張飛から再三言い聞かせられていることがある。


『関羽と劉備が二人きりになったり、妙な世界に入り込んだらすぐにその場を離れろ』



 最初はどう言った意味かは分からなかったが、今、ようやっとその意味を理解した。
 真由香はだらだらと汗を流しながら、逃げ出したいと心から思った。

 誰か、誰か助けて下さい……!

 このあんこ入りの落雁よりも甘い空気に胸焼けがして消化不良を起こしてしまいそうです!


「劉備。口に合うかしら」

「ああ。関羽の作る料理はどれも美味しいから」

「ふふ、ありがとう」


 妙な世界の意味はこういうことだったのだ。
 逃げたい。
 ここから早く逃げ出したい。

 しかし、関羽がしっかりと真由香の服をしっかりと掴んでいる為身動きが取れない。
 劉備とお茶をしているので真由香が不用意に転んで怪我をしてしまわないようにとの彼女の配慮なんだけれども、……これでは拷問だ。

 幸いなのは、真由香が見えないことだろうか。
 肌で感じる空気の甘ったるさの上に、きっと雰囲気以上の視界の甘さまで加わってしまったら……嗚呼、予想が出来ない。

 自分が借りている家なのに、酷く居たたまれない。

 劉備と関羽が恋人同士だとは、つい最近知ったことだ。
 二人の互いに対する態度が微妙に違うとは薄々感じていたけれど、ここまでだとは思わなかった。

 ……恋というのは、どんな感じがするんだろうなあ。
 二人から意識を逸らそうと、半ば強引に思考を持っていく。

 真由香は恋をしたことが無かった。何となくあれが恋かも、なんてことはあるけれどそれも恋というものを知らないからこその漠然とした不確定な感覚だ。

 多分、初恋もまだなんだろう。

 いつか関羽にとっての劉備のような、特別な男性に出会えるのだろうか。
 いるとすれば、それはどんな人間なのだろうか。

 想像は出来ない。そんな相手いるかも分からないし、そもそも自分とは無縁のものだと何処かで思っていたから、今更考えてもいまいちピンと来ないのだ。

 友達の恋バナを聞くことは勿論あった。その度に『真由ちゃんも世の中の男が放っておかないと思うよ。だって可愛いもん。壊滅的にドジだけど、きっと可愛いって言ってくれるって!』なんて言われた。その時は笑い飛ばすだけで特に深く考えることはしなかった。
 自分のような歳の娘は、恋に敏感だ。誰彼が付き合っているとか、誰が誰に片思いしているらしいとか、真否も定かではない噂がよく出回ったものだ。

 もし好きな人が出来たらちゃんと言え、相応しいかどうか査定してやる。
――――孤児院の兄の、ある意味口癖だ。……何となく、査定だけじゃ済まないような気がするけれど。

 彼も納得するような相手と、大人になったら結婚して、子供を産んで……。
 やっぱり駄目だ。想像が出来ない。


「真由香? どうかした?」

「え? あ……ああ、いいえ。何でもないよ。ただちょっと考え事を、」

「真由香ー! 遊ぼうぜー」


 真由香の言葉を遮るように家に飛び込んできたのは張飛だ。

 瞬間、真由香の心が一気に晴れたような気がした。いいや、気の所為ではない。晴れた。確実に晴れた。

 関羽の手の力が弛んだ瞬間、真由香は立ち上がった。


「あ、真由香!」

「あ、遊びます! 天気が良いですし!! 外駆け回りたいです!」

「おう! 珠梨も待ってるぜ!」


 ぎゅっと手を握られた。
 これは張飛だ。ごつごつしていて、とても大きい手。趙雲とはまた違った感触だ。

 真由香は関羽達に断って、張飛に支えてもらいながら家を出た。劉備が「気を付けてね」と声をかけてくれた。

 村の道を暫く歩いていると、張飛がはあと長々と吐息を漏らした。


「ついに真由香も洗礼を受けたかー」

「せ、洗礼って……」

「気まずかっただろ?」

「う……はい」


 ぽふぽふと頭を撫でられた。

 しかし、真由香は「でも」と。


「劉備さん達を見ていて、私恋したこと無いなって思ったの。友達の恋バナに付き合うことは勿論あったんだけど、私も大人になったら結婚とかするんだろうなあって、初めて思ったかも……」

「初めて? マジで? じゃあ初恋もまだってか?」

「多分。何が恋なのか分かってないから……近いかも、って思ったことはあるんだけど、やっぱり確かじゃない感じかなあ。張飛は無いの?」

「んー……初恋は見事に破れちまったかなあ」

「え、誰?」

「姉貴」


 ……。

 ……。

 ……。


「……ええぇぇぇ!?」

「そんなに驚くようなことか?」

「え、でもだって関羽は劉備さんと……」

「だから、破れてんの。まあ、分かってたってとこもあるし、素直に二人共上手くやってくれりゃあ良いかなーって」


 張飛の言葉に、真由香は感じ入る。


「大人だ……!」

「たまにお前に基準が分かんねー」


 いいや、大人だ。
 真由香の通っていた高校で、好きな人に振られた女子生徒が、彼が思いを寄せていた女子に陰湿な嫌がらせをしているという噂があった。前者も後者も真由香と同じクラスだったから、それが嘘ではないと知っていた。後者とも友達であった真由香の友人がキレて前者を泣かせて以降、嫌がらせはぱたりと無くなったらしいが。
 男子でも同様の話は聞いていたし――――と言っても単純に仲が悪いだけ。男子は女子と違って結構さっぱりはっきりしている――――自分と歳の変わらない張飛の対応は大人だと真由香は思う。


「にしても、真由香が誰かの嫁、ねえ……どんだけ心広い奴なんだろうな」

「そうだね」


 というか、そんな人いるのかな。
 ぼやいた真由香に、張飛は「捜せばいるんじゃねー?」と、再び頭を撫でた。



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