真由香が猫族の村に暮らすことを許されて、はや十日。
 怪我の治りは、本人が思うよりもずっと早かった。


「もう治ってるわ……あんなに酷かったのに跡も残ってない」


 関羽に包帯を解かれひんやりとする右手を撫で、真由香も同意を示した。
 あの傷は、絶対に一ヶ月近くはかかるものだった。とても二十日程で治るとは到底思えない。
 けれども、強く握り締めても痛くも何ともなくて。
 これも自分が違う世界の住人であることに起因しているのだろうか。

 一人考え込む真由香に、劉備ははしゃいだ声で「よかったね」と。


「これで、真由香の楽器がきけるね!」


 楽器――――その単語を反芻(はんすう)して真由香は思考を中断する。


「……あ、そっか。もう弾けるんだ」


 解禁だ。
 そう呟いた途端、全身がむずむずし出した。

 弾きたい。

 その願望を認識した刹那、いても立ってもいられず、真由香は立ち上がった。


「私、蘇双さんにバイオリン返してもらいに行ってきます!」

「もう返しに来てるよ」

「あれっ?」


 宣伝したところに、目当ての人物が横槍を入れた。
 すっかり気を殺がれてしまった真由香は緩く瞬いて身体を反転させる。だがそちらは壁だったらしく、関羽がすぐに向きを正してやった。

 彼女の手に蘇双はしっかりとケースの取っ手を握らせた。


「ありがとうございます、蘇双さん」

「弾くの?」

「弾きます。何か、もう弾けるんだと思うと手がむずむずしちゃって」


 座り込んでケースを開け、バイオリンに触れる。懐かしい感触だ。まるで長年会っていなかった友人に再会出来たような、そんな感慨深い気持ちで胸が一杯になった。
 そっと持ち上げて、弓を持つ。

 弦の具合を確認して、何度か試しに音を鳴らした。
 そうして、調整をする。


「本当、変な楽器だね。ばいおりん、だっけ?」

「はい。私の暮らしてた場所じゃ結構有名な楽器なんですけど……」


 世界が違うのだからそれは仕方がないことだ。
 真由香は苦笑し、そっと立ち上がった。
 バイオリンを構えて深呼吸を一つ。

 唇を引き結んで弓を引いた。

 懐かしい音色に全身から力が抜けるような心地を得た。
 リラックスして、覚えている曲を奏でる。

 これでようやっと練習が出来るのだと思うと嬉しくて、それが音色にも乗ってしまう。
 気付いた時には己の口端は緩く上がって、笑みを浮かべていた。
 やっぱり私はバイオリンが大好きだ。
 無くなったら、きっと私らしくいられなくなるかもしれない――――。
 そう、改めて感じながら区切りを付けて曲を止めた。

 吐息を漏らしたのは、誰だったか。


「……二胡に近い音色ね。それに、とっても綺麗な曲だったわ」


 純粋な賛辞が嬉しい。
 真由香はえへへとはにかんでバイオリンを労るように指でそっと撫でた。



‡‡‡




 しんと静まり返った夜。真由香は一人井戸に座り込んでいた。
 昼間はずっとバイオリンを弾いていた。おかげで指が疲れて少し痛い。

 でも、今は胸が一杯だ。満ち足りた気分が心地良い。
 大事なものを取り返せたような、そんな感覚に近いかもしれない。
 実質弾いたのは十日程振りだ。けれども、前回は手の痛みや心境もあってとてもこんな気分にはなれなかった。

 楽器が弾けたことで、思考も明るくなれば良い。
 前向きに、自分の《これから》を考えられたら良い。
 いつか元の世界に戻れるのだと思って、しっかりと過ごして行きたい。
――――猫族の皆の役に立ちながら。

 何が出来るだろうか。
 ここで、私に、何が。
 ……駄目だ、まだ思い付かない。
 吐息が漏れた。

 と、


「あれ、真由香じゃん」

「その声は……張飛さんですね。こんばんは」

「おう。何してんの? ってか、一人?」

「はい。ここは家から近いので。杖があれば一人でも来れるようになりました。関羽さんにもちゃんと許可は貰ってますよ」


 次の目標は杖無しで来ることです。
 そう言って真由香はぐっと拳を握ってみせる。


「本当、お前って目が見えないのにあんまし気にしてねえのな」

「生まれた時から何も見えないのが、私にとっては当たり前ですから。これが普通ですし、不便だなって思うことは確かにありますが、でも嫌だなって思ったことはありません。だって私、見えない人には勿論劣りますけど、ちゃんとやれていますから」

「……何か凄ぇなー、お前。オレとそんな年変わんねぇのに」


 凄い、だろうか。
 真由香はこてんと首を傾ける。


「普通だと思うんですけど」

「でもオレじゃ無理だって。いきなり目が見えなくなっちまったら、何すりゃ良いのか分かんねぇだろうし」

「ああ、そうですね。私も、いきなり目が見えるようになったら困っちゃうと思います」


 視界から突如得られた膨大な情報を、処理しきれずに混乱してしまうかもしれない。
 そして、色のある世界を知って全盲を恐ろしく感じてしまうかもしれない。
 そう思うと、ちょっとだけ嫌だ。今まで過ごしてきた世界を否定してしまうような気がして。


「やっぱり慣れ親しんだ世界が一番ですね」

「そうだな。……あー、そうなるとやっぱオレ達って過保護?」

「過保護です」

「ばっさり言うなよ!」


 しまった、思わず即答してしまった。
 少しだけ笑った。


「でも大丈夫です。両親は別の意味で過保護でしたから! 一人暮らし始めたら七日の内五日は家を訪ねてきますから!」

「多いって! ――――って、一人暮らし? お前今まで一人で暮らしてたの?」

「はい。そうですよ」

「……やっぱお前凄ぇわー」

「そうですか?」


 慣れてしまえばそうでもない。
 そう言うと、それでも彼は凄い、凄いと賛辞を繰り返した。

 さすがに照れ臭くなって待ったをかけようとすると、


「……あ、そうだ。真由香」

「は、はい」

「別に敬語じゃなくて良いぜ。これから村で一緒に暮らすんだし。遠慮は要らねえって。ってかむしろ姉貴みたくタメ口で喋ってくんね?」

「え? ええと……、うん。了解」

「よーし。これで肩が凝らなくて済む」


 「堅っ苦しいの苦手なんだよなー」と、張飛。心底そう思っているようで、真由香は苦笑を禁じ得なかった。

 そこに関羽が加わるのは、もう少し後のことである。



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