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「――――それから、その人とは会ったのか」


 真由香は首を左右に振った。

 以後、彼と会ったことは一度も無い。
 約束通り学年が上がった四月から梅雨に入るまで毎日欠かさずにあの河川敷を訪れたけれど、彼は来なかった。彼の入院する病院も知らないからお見舞いに行くことも出来なかった。

 せめて名前くらいは、訊いておけば良かったな。
 真由香の中では、まだあの人は『画家さん』なのだ。
 名前だけでも知っていれば、何か手がかりになったかもしれないに。
 最後の時にも訊かなかった幼い自分を後悔しても今更なのだけれど、やっぱり悔やまれる。

 けれど、約束を果たせなかったのなら、きっと――――《そういうこと》、なのだと思う。

 この年になって思い出してみれば、そうだとしか考えられない。
 勿論、信じたくはないけれども。

 とても大切な友達だった。
 自分に色を教えてくれた人。空の蒼を一生懸命に伝えようとしてくれた人。
 今でも彼の声を思い出せば胸が熱くなる。ほっとする。


「だから私、空が大好きなんです。画家さんが大好きだったから。単純な理由なんですけどね」


 へへ、と苦く笑って頬を掻く真由香の頭にぽんと何か硬めの物が載せられた。
 それが趙雲の手だと認識した後に、そろりと撫でられた。


「では頭を撫でられるのが好きなのも、その人物の影響か?」

「あ、いえ。それは母との記憶で一番はっきり覚えているのが頭を撫でられることだったからです。……あ、そう言えばお母さんも空は好きだったような気がします」


 答えると、趙雲は「母君は亡くなったのか?」と驚いた声で。
 ……あれ、言っていなかったっけ? 関羽さんや世平さんには掻い摘んで話した記憶はあるのだけど、伝わっていないんだろうか。


「私、小さい頃に施設――――ええと、理由があって親のいない子達が生活してる場所に、預けられたんです。今お世話になっているのは私を引き取って下さった里親で、ですから母との記憶はあんまり無いんですよ」

「……」


 趙雲はそこで沈黙してしまう。
 ややあって手が離れていったのに少しだけ名残惜しさを感じていると、何故か謝罪されてしまった。

 真由香は驚いた。


「どうして謝るんですか?」

「言いにくいことを言わせてしまっただろう。母親に捨てられたなど……」

「捨てられたって言うか……単純にお母さんは疲れちゃっただけですよ。盲目の子供を持つと何かと気苦労が多いんでしょうし。それにお父さんが入院中だったから余計に心労が溜まってたんだろうって、院長がお母さんの親戚に聞いたそうです。悪い偶然が重なってそうなっちゃっただけです。これは誰も悪くないんです」


 自分が盲目だってことも悪くない。
 父と真由香の面倒に疲れ果ててしまった母が悪いということも無い。
 ただ悪い偶然が幾つも重なっただけ。ただそれだけのことなのだ。

 そう断じる真由香に趙雲はまた黙り込んだ。

 何かマズいことを言ってしまっただろうかと自分の発言を思い返していると、不意に肩を掴まれて引き寄せられた。
 こん、と額に温かいものが当たる。

 抱き寄せられたのだとは、半瞬遅れて分かった。額に当たっているのは多分趙雲の胸板だろう。


「趙雲さん?」

「いや……何となくこうしたくなってな」

「はあ……」


 ぽふぽふと頭を叩かれるように撫でられる。
 ……まるで、孤児院で良く自分の面倒を見てくれた兄代わりの人みたいだ。

 真由香が孤児院に入った頃から仕事で世界中を飛び交っていた彼は、最低でも二ヶ月に一度は孤児院に戻って真由香に世界で見てきたことを話してくれる。里親に引き取られても、一人暮らしをしても、帰国した時には絶対にお土産を持って家に来てくれた。

 目を伏せていると、唐突に趙雲が納得したように呟いた。


「そうか……妹、か」

「はい?」

「いや……お前のことを妹のように思っているんだと思うと、妙に納得した」

「妹……じゃあ趙雲さんはこっちでの私のお兄さんですか」


 おお、ここで新しい兄が出来ましたと漏らすと、彼は笑声を漏らした。


「明日、良い結論が出ると良いな」

「……う」


 途端、急激に胸が鉛が落ちたみたいに重くなった。
 趙雲は勿論そんな気は無いのだろうが、厳しい現実を突きつけられた。
 そう、現実。これが現実なのだ。
 状況を考えれば、ここでのんびりと過ごしている場合ではないのである。何かアクションを起こさなければならないことは、十分に分かっている。

 うううと唸り出した真由香に趙雲は困惑した。


「そうなんです明日なんです私今まで何もしてないんです……!」


 趙雲から離れて頭を抱えると、「それは大丈夫だと思うんだがな……」と呟く。
 その言葉に顔を上げかけたがすぐに違うと否定する。それはあれだ、自分への励ましだ。

 立ち上がって両手に拳を作った彼女は趙雲を呼ぶ。


「い、今からでも間に合いますか!?」

「さあ……そればかりは俺には分からないが、何かするのであれば俺も手伝おうか?」

「はい、それじゃあ……、…………」

「……」

「……」

「……真由香?」

「……や、やっぱり良いです。何をしたら良いのか、全く思い付きません……!」


 がくっと肩を落とせば、つかの間沈黙した趙雲がぷっと吹き出した。



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