13
翌日、《彼》は河川敷に現れた。
「こんにちは、お嬢ちゃん」
「こんにちは」
真由香曰くおじさんのようなオカマんは、真由香の隣に座ると「宿題のことなんだけど」と言いにくそうな堅い声音で切り出した。
それで、ああ、やっぱり彼でも駄目だったんだと納得する。やはり、色を表現するのは難しいのだ。
大した落胆も無く、真由香は小さく笑った。
けれども、彼はまだ悩んでいた。
「この空の蒼をどうやって表したら良いのかしら……爽やか? ううん、在り来たりだわ。冷たさだと全然違う青になってしまうし……」
「あの、そんなにかんがえなくてだいじょうぶですよ。わからないんだったら、もう良いんですし……」
「それはダメ。ワタシが許せないの」
ぴしゃりと言って、彼はまた唸る。
そこまで真剣に考えてもらうと、むしろ申し訳ないのだけれど……。
罪悪感に眦を下げた。
「ううん……ソーダ水のような――――いいえ、これも違うわね。研ぎ澄まされた意識のような――――どんな表現やねん。いや、それよか……」
どんどんと、複雑になっていく彼の言葉選びに、真由香もまた頭が痛くなってきた。語彙力が無いと言っておきながら、真由香の知らない言葉が沢山出てくる。余計に分からなくなっていった。
彼の独り言に、遠くから聞こえる子供達の歓声が被る。きっとスポーツか何かが白熱しているんだろう。
それをほんの少しだけ羨ましいと思いつつ、彼女は目を伏せた。
それから暫くして、不意に彼が声を大きくした。
「ああ、もう! ワタシってば本当に語彙力無いわね!」
己を叱咤するように言い、真由香の頭をぽんと撫でた。
「あの……?」
「ごめんなさい。やっぱりワタシにとっては一つしかしっくり来なかったわ」
「ひとつ?」
「広くて優しくい、ワタシの大好きな色。この空の蒼は、そんな色だとしか言えないのよ。ごめんなさいね。一番大好きな色だから、なるべくアナタにも好きになってもらいたくって、徹夜して考えてたんだけど……好きだからこそ、どう表現したら分からなくなるわね。沢山の言葉が浮かぶのだけれど、それでもどれがぴったり当てはまるか分からないのよ」
広くて、優しい。
この人の大好きな色。
真由香はその言葉を反芻(はんすう)し、時間をかけて吟味(ぎんみ)した。
そうして――――、
「じゃあ、お空の色はおにいさんの色ですね」
と。
途端、彼は素っ頓狂な声を上げた。
「ワ、ワタシの色ですって? ワタシ、髪の色は赤よ。染めてなかったら茶色よ」
「……あの、わたしみえません」
「あ、そっか。……ってそんなことはどうでも良いのよ。ワタシみたいな変人を空の色にしちゃ空に失礼だわ。もっともっと良いのを考えるからそれはダメ」
「良い?」と何故か真摯な声音で言われ、真由香は首を傾けた。そんなに嫌がることでもないだろうに、どうしてこんな声をするのだろう。
問いかけると、彼は沈黙した。
ややあって、
「……ワタシはね、本当は空が好きなのだって許されないような人間なのよ。だから、ね。ダメなのよ」
頭を撫でられた。
「……でも、」
「――――そうと決まれば、また明日から気合いを入れなくちゃダメね! この宿題は絶対にやり遂げてみせるわ。アナタにこの空を好きになってもらいたいもの。その為なら画家生命を賭けてでもの色を表現します」
どうしてそこまでするんだろうか。
それが不思議でならない。
たかだか空の色を訊いただけだ。それだけでこんなに一所懸命に考えてくれる理由が分からない。
空が好きだから?
それだけの理由?
……信じられない。
「今日から暫くは辞書をお供にしようかしらねー。丁度暇潰しにしてた本も読み終わった頃だったし」
「……えと、」
「じゃあ、今日はこれでお開きよ。もうすぐ日が暮れてしまうわ。お家の人が心配するでしょうから、早く孤児院に帰りなさいな」
「…………はい」
良いのだろうか。
面倒なことを押しつけたのに。
彼はにこやかな声で真由香を促す。
そうして昨日と同じように背中を優しく押してくるのだ。
それに逆らわずに杖で地面を叩きながら歩き出せば、「また明日ねー」と声をかけられた。
――――そう言えば、彼は一体何と呼べば良いのだろうか。
彼の名前を自分は知らない。
自分も、名乗っていない。
……。
……。
……。
「……がかさん、で良いかな」
帰途を辿りながら、彼女はぼそりと呟いた。
‡‡‡
一ヶ月になっても、画家は答えを得られずにいた。
「うーん……これじゃあダメだしなあ」
「もういいのに」
「ダーメ! ワタシが嫌なんだもの。何とかして表現して、お嬢ちゃんを空愛好会にスカウトするの」
「あいこーかい?」
「空が好きな人が集まるの。今のところワタシしかいないけれど」
一瞬、入りたいと思った。
けれども今言ったらまた何か言ってきそうだ。まだ空の蒼を上手く表現出来ていないじゃない! ……とか。
画家と放課後ほんの数十分だけ話すこの時間が、真由香にとっては一番安らぐそれとなっていた。
画家は自分を盲目だからとからかってこない。自分の知りたいことに真摯に向き合ってくれる。悩みを言えば、自分のことのように一緒に考えて悩んでくれる。
孤児院でも小学校でも得られないような、安心感がそこにあった。
いつの間にか画家のことが大事な友達だと思っていて、友達の彼が好きな空も、見えないのに大好きになっていた。
画家の側にいると、驚くくらいに落ち着く。
悩み続ける画家の袖を掴もうと手を伸ばすと、間違えて肘に当たってしまった。
「あら、どうしたの?」
「……なんでもない、です」
「そう。じゃあ、そうなのね」
画家は、真由香が話さなければ無理に訊いてこない。ただ、『今日はちょっと落ち込んでるのね』と、真由香の様子に気付いたことを言ってくるだけ。
それで話してしまうのは、きっと自分が画家に心を許しているからだろう。
再び考え込んだ画家から手を離し、ぎゅっと拳を作った。
この時間が、もっと続けば良いのに。
友達なのにと、寂しく思った。
――――しかし、画家が解散を言い出す前に、別れは唐突に訪れるのだ。
「ちょっと! 何やってるんですか!」
「……げっ」
突如聞こえた怒鳴り声は若い女性のものであった。
「毎日病院を抜け出して! ご自分がどんな身体なのか知ってるでしょう!?」
「ああ、はいはい。分かってるわよ」
病院。
その単語に真由香は反応した。
病院は体調が悪い人が行くところだ。
ならば彼も身体の何処かが悪いと言うことになる。
真由香は画家を呼んだ。
「どこか、わるいんですか?」
画家はつかの間黙り込んだ。
「……そうね。ちょーっと、体調が悪いのよ。でも大丈夫。ワタシは不死身なんだから、すぐに治せるわ。だから、そんな顔しないでちょうだい?」
優しい声音と共に、ぽふっと頭を撫でられた。
真由香はしゅんと眦を下げてこくりと頷いた。
「……も、もう駄目ですからね。病院を抜け出すのも、外出も。監視しますから!」
「え、じゃあもう会えないんですか?」
女性に問いかけると、彼女はうっと言葉を詰まらせた。
衣擦れの音と共に、覚えのある病院の匂いが鼻孔に入り込んだ。頬を温もりに挟まれた。
「……そ、そうなるんだけど、でも仕方のないことなのよ。この人が元気になる為には、じっとして身体をお休みさせてあげなくちゃいけないの。君にはとても寂しい思いをさせちゃうけど」
「お休みしたら、また会えますか?」
「……ええ、きっと」
「じゃあ、まちます。まだしゅくだいがあるから、毎日ここでまってます」
「は、宿題?」
間の抜けた声を漏らす女性にこくりと頷けば、画家がふふと笑った。
「それはこの子とワタシのひ・み・つ」
「あんたがその姿で秘密とかキモいんですけど」
「……アナタ、ワタシが患者だって分かってるわよね」
「生憎と病院を抜け出す患者に払う敬意は持ってませんのでオホホ。――――ということで、君はそろそろ帰りなさい。今までこの人の面倒見ててくれて本当にありがとうね。面倒臭かったでしょう、この変人」
「変人だって自覚はあるけれどアナタに言われるととてもムカつくんだけど」
「やった」
「喜んでんじゃねえよ」
おお、低くなった。
初めての男性らしい声に真由香はちょっとだけ新鮮な気分になった。
けれども、画家に頭を撫でられてすぐに萎んで心細くなる。
「大丈夫よ。またすぐに会えるわよ。そうね……来年の春――――アナタが一学年上がった頃に、ここで会いましょ。その頃には退院してるでしょ」
今は秋。まだだいぶかかる。
すぐじゃないじゃないかと責めるように呟くと、彼は困ったと笑声を漏らした。
けれど、それ以上真由香が食い下がるのは許されず。いやに急かす女性が無理矢理に画家を連れていってしまうのだ。
「じゃあ、約束よ」
「……ぜったい、やくそくです」
「ええ」
最後に頭を撫でて、彼は帰ってしまった。
この時から、真由香は空の色を画家さんの色と思うようになった。
画家が宿題をちゃんとしてきたら、その時に変えてやるつもりだった。
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