12
杖を持って一人で町中を歩いていると、いやが上にも注目を集めてしまう。
特に小学校の同級生は一人で歩く彼女を見つける度にからかってきた。親がいる時はさすがに怒られるけれど、『可哀相だから止めなさい』だとか、『あの子とお前は違うのだから自分の尺でからかってはいけない』だとか、それもまた幼い真由香には苦痛だった。
物心ついた時から見えないことが普通だった真由香からすれば、彼らの《普通》がどうして自分の《普通》が違うのか全く分からなかった。
ただ見えない。それだけだ。
見えないから自分は触って確かめるし、耳を澄ませる。
今までそれでしっかりとやれてきた。
だのにどうして自分は《劣っている》のだろう。
何がいけないんだろうか。
自分は《普通に》過ごせているじゃないか。
子供は得てして残酷なものであり、周囲に敏感なものである。
自分と周りの《普通》の何が違うのか、小学校に入学してから考えないことは無かった。
見えないだけってそんなに劣っているの?
私はちゃんと皆のように生活出来てるよ。
そりゃあ、体育の時間は見学ばかりで、ほとんど保健室でお勉強をしているけれど、
私は皆と同じだよ。
そう何度も訴えたけれど、純粋に否定される。
おかしいんだって笑われる。
そんな小学校生活が、寂しかった。
寂しくて寂しくて――――ふと、気が付いたのだ。
ああそうだ。
私は見えないだけじゃなかった。
《色》が分からなかったんだ。
いつも持ち歩く杖は白。
でもそれがどんな色なのかを真由香は知らない。
怪我をした時に流れる血は赤いと人は言う。
でもそれがどんな色なのかを真由香は知らない。
表現方法で、《色》は大きな要素だ。
今までどうしてこんな考えに至らなかったのか不思議に思う程、真由香は色という表現を知らなかった。
人の表現方法を知らないから、自分は劣っているのか。
そんな考えに至った真由香は、院長に色について訊ねた。院長ならきっと教えてくれる。いつもそうだったから。
でもその時ばかりは、院長は返答に詰まってしまったのだ。
『そうねえ……なんて表現したら良いのかしら。赤は……ううん……』
赤い、白い、青い――――言葉そのものが表現なのだ。
それを全盲の真由香にも分かるように表現することは院長にだって難しかった。
その時は院長を困らせたくないとすぐにやっぱり良いやと別の話に切り替えた。
けれどもその事実は真由香の胸に重く沈み、以後真由香は自分は普通なのだと言い張ることを止め、鬱ぎ込んだ。
院長はそれを自分の所為だと思い込んで、何とか色を教えようと考えてくれたけれど、あまりに悩むものだから、迷惑をかけたくなくてもう良いんだと止めた。その時の院長の『ごめんなさい』は胸に深々と突き刺さった。それはこちらの科白なのに。謝ることなんて無いのに。
院長に対する罪悪感も加わって、真由香はより暗鬱とした。
けれどもふと、何とはなしに小学校からの帰り道、孤児院から離れた河川敷へふらりと歩いた。
――――そこで、《彼》と出会ったのだ。
‡‡‡
真由香は膝を抱えていた。杖は脇に置いて、だんまりと虚空を見つめている。
今日は快晴だとテレビで予報されていた。
空は真っ青。
今、自分の真上はその色が広がっているのだろう。
……でも、真由香にはそれが分からない。
悔しい。
草を握って前に投げたその時である。
「草が痛がってるわよ」
変な声が聞こえた。
言葉は女性、でも声は明らかに低い男性のそれだったのだ。
――――これが世に言う《オカマ》さん?
真由香は首をそのままに首を傾げた。
「あら、アナタ目が見えないのね」
「だれ、ですか?」
「ただの売れない画家よ。――――あ、ちょっと隣失礼するわね」
「どっこらせ」と言う彼はまさにおじさん。でも、爽やかな香水の匂いがする。
「どうしたの、お母さん達とはぐれちゃった?」
「わたし、おやはいないです。こじいんのこども、です」
「……ごめんなさい、失言だったわね」
ふるふると首を左右に振ると、ぽふっと頭に何かが乗った。……手だ。
そのまま撫でられて、真由香は目を閉じた。
「で、目が見えないんだったらいつまでもこんなところにいちゃダメよ。この辺は暗くなると怪しいヘンタイが彷徨(うろつ)くの。今はまだ夕暮れで明るいから良いけど、そろそろ帰らなくっちゃ」
「ゆうぐれ……じゃあ、空はあおくないんですか?」
「青く……? 今は橙色よ」
だいだい、いろ。
噛み砕くように呟く。
……分からない。
「……どんな、色ですか?」
「どんな? うーん……ちょっと失礼するわね」
不意に彼は真由香の腕を取って、さすり始めた。
すると、摩擦でどんどんと熱を持っていくそこ。
唐突に止めて温度を確認すると、
「こんな色よ」
「……はい?」
「赤だったら、もっと熱いわ。橙色は、大体このくらいかしらね」
じんわりと点った熱。
真由香は困惑した。
「あの……?」
「ん? なあに?」
「こんな色って、これはちがうんじゃ……」
「だって、ワタシ語彙力(ごいりょく)無いんだもの」
「ご、ごい……?」
「あんまり言葉知らないのよ。頭悪いから。今まで絵一筋だったからねえ」
熱は徐々に冷めていった。色が温度で表現出来るなんて思えない。
何となく釈然としなくてさすられた場所をさすっていると、
「何よ、何か不満でもあるの?」
「い、いえ……えと、じゃあお空のあおはどんな色なんですか? おひるのお空は、どんなかんじなんですか?」
途端に彼は黙り込んでしまった。
あれ、っとなって小首を傾げると、大きな唸り声を上げた。思わず驚いて身体をびくつかせた。
「そうねえー……空の青はワタシ大好きだから、アナタにもそれを伝えたいのよねぇー……うぅ―――――ん……」
……そこまで真剣に悩むこと、かな?
別にまじめに考えてくれなくても良いのに、彼は唸り続ける。
やがて、
「宿題にしてくれないかしら!」
「へ?」
「明日! 明日の夕方ここにいるから、その時に教えてあげるわ。それで許してちょうだいね」
「明日、おしえてくれるんですか?」
「……保証はしないけどね」
そんなに空の青が大好きなのだろうか。
真由香はきょとんと瞬いた。
彼はそんな真由香の頭を撫でて、またおじさんみたく立ち上がる。
「じゃあ、今日はこれで帰りなさいな。……あ、ここからお家まで一人で帰れる?」
「はい。ここには、たまに一人で来てます。それに、ケータイでいつでもれんらくできます」
「そう。それじゃあ、ワタシはここで帰るわね。あんまり外に出てたら怒られちゃうから」
うちのお家はとっても厳しいのよ。
おどけて言った彼は、立ち上がった真由香の尻をはたいて塵(ちり)を落とし、背中をぽんと押した。
「ちゃんと、寄り道せずに帰るのよー」
「あ、はい」
真由香は振り返って、彼に頭を下げた。
「そっちにワタシはいないわよ」
「あれ?」
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