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唐突に、真由香は世平に釣りに誘われた。
と言っても真由香も一緒に釣りを、などではなく、ただ単に自分に付き合うついでに川へ一緒に出かけないかとういうことだ。
恐らくは気が塞ぎ気味だった真由香を気遣ってのことだろう。
勿論真由香は喜んで了承した。関羽が渋っていたが、世平の側を離れないからと説得した。当然ながら、最近では使わないようにしている杖もちゃんと持っている。
川なんて――――否、山自体久し振りだ。高校に入学してすぐ、合宿のような行事があり山頂の施設に泊まった以来だったろうか。あの時は、本当は登山をしなければならなかったのだが、真由香は安全性を考慮された為に参加出来ず、代わりに施設内の準備などを手伝っていた。その折に誤って川で転倒してずぶ濡れになってしまったのは、良い思い出だ。行きのバスの中で出来た友人にも、担任にもこっぴどく叱られてしまったけれど。
川の音を聞きながらそのことを思い出して笑っていると、近くで釣りをしている世平が声をかけた。
「どうした、急に笑って」
「いいえ、昔川で転んでしまったことがあったなって」
「……おいおい」
呆れられたようだ。
まあ、この話を聞いた人は大体そんな反応だ。
笑声を漏らしながら、真由香は靴、靴下を脱いで川の中に入った。近くの石に腰掛けて足をばたつかせた。川の水はひんやりとして、とても心地が良い。
「そう言えば、真由香」
「あ、はい」
「お前がいた国のことを、まだ詳しく聞いていなかったな」
どくり。
……この、話か。
真由香は笑みを消して俯いた。
なるべくならこの話は避けたかった。どうせ突飛過ぎて信じてもらえないだろうから、叶うことならこのまま曖昧にしておきたかった。
――――されど、やはりはっきりと話しておいた方が良いと心の片隅で思っていたことも、また事実である。世話になる以上、自分のことは全てさらけ出し、まず自分から警戒を解かなければならない。薄々と感じていたことだ。
真由香は暫し沈黙した後、世平を呼んだ。
「ここが、私が今まで生きてきた世界と、――――違う世界なのかもしれないって言ったら、信じてくれますか?」
‡‡‡
「違う世界、か」
自分の世界のことを話す真由香の話に黙って耳を傾けていた世平の反応は、思いの外淡泊なものだった。驚いているものの、程度は意外な程に軽い。
真由香は少しばかり戸惑った。まず嘘だと否定されるとばかり思っていたから、このような反応は予想していなかった。
世平は吟味するように彼女の言葉を反芻(はんすう)し、不意に唸るような声を上げた。
「たまに意味の分からない言葉を使ったりしていたのも、元の世界で使われていたからか?」
「はい」
「……ま、正直信じられねぇな」
だが確かに、真由香の身形も持ち物も、どれもこっちじゃ見たことの無ぇ物だ。
そう言って、世平はまた考え込んだ。
「お前がこっちに来たきっかけの現象も不思議でならないんだが、そればかりはお前も分からないんだろ?」
「はい。全く……正直、手が無事なのも不思議だとは思ってますけど」
あの話を受け止めてはもらえたようだが、やはり信じる信じないについては、すぐには難しいようだ。
真由香は包帯に包まれた右手に触れ、彼女もまたどうしようかと思案した。
このまま信じて下さいなんて勝手だけれど、だからといって嘘ですと誤魔化してしまうのもどうかと思う。
やっぱり、話さない方が良かったのかなあ……。
腕組みして世平のように唸る。
すると、
「まあ、それは世話になると決まってから考えよう」
と、世平。
真由香は目を丸くして顔を上げた。世平のいると思われる方を見、声を上げた。
「え! 後で皆さんに話すとかしないんですか?」
「話したら、多分確実に追い出されるぞ」
「……そうですね」
「今の猫族は余所からの人間には過敏な傾向にある。金眼に操られた劉備様が人間達にしたことで、報復として猫族が滅ぼされることがあったら――――一応曹操の保護下の村である限りそんな心配は無いんだろうが、やっぱりしたことがことだけに色んな不安もあるんだ」
曹操、とは、随分と前に猫族を兵士として利用した人間。
金眼の件が落ち着いてからは彼がこの村を用意し、猫族を住まわせたのだと言う。
曹操自身の思惑もあるだろうけれど、猫族はこの村を有り難く貰うことにした。
その人名について訊ねると、世平はそう答えてくれた。
以前省略された『色々あって』には、金眼に操られた劉備が人間達にしたことも入っているのだろう。
敢えてそこは問わずにおいた。
「だから、あまり気を悪くしないで欲しい。……まあ、さすがに警戒しすぎだとは思うんだがな」
「いいえ。私だって、きっと怪しいって近付かないと思いますし。むしろ、ご迷惑をおかけしてすみません」
謝罪すれば世平は沈黙する。
「世平さん?」
「……お前は、他人を気遣ってばかりであまり自分の本心を言わないな」
「本心ですか……?」
だって、それを言ったら迷惑になってしまう。
世話になっている身分の自分が、そこまで甘えて良いとは思えなかった。
真由香はそこで、その話を避けたくてこれで終わりだと言う代わりに唐突に立ち上がった。滑ってしまわないように石に手を付いて、慎重に足を進める。
「真由香、危ねぇぞ!」
「大丈夫です。この程度なら気を付けておけ、ば――――」
ずるっ。
「あれ?」
……ばっしゃん。
‡‡‡
「いわんこっちゃねぇ……」
「すいません! 本当にすみません!!」
全身がぐじゅぐじゅとして気持ち悪かった。
更には涼しい風が体温を奪って寒い。
真由香は先日のように正座をし、寒さに震えながらうなだれていた。
だって、あんなにすぐに――――しかも結構しっかり手を付いていたのに転ぶなんて思っていなかったのだ。
そういうところは直しなさいと、院長からも両親からも言われていたのを、今更ながら思い出す。
「で、でも! 怪我した手は死守出来ましたよ! ほら、無事です!!」
たまたま何もぶつからなかっただけだったんだけれど。
世平に「え、えへ」と笑うと、すかさず拳骨が落ちてきた。痛かった。
頭を抱えて身を屈めると、世平は長々と嘆息した。
「お前の危機管理能力は一度見直した方が良いんじゃないのか」
「いたた……よ、よく言われます」
ああ、また溜息。
幸せ逃げてしまいますよ、と心の中で言う。さすがに拳骨の直後でこれは言えない。
「とにかく、今日はもう帰るか」
「え、お魚釣れてませんよね」
「それで放置する気か」
「私なら大丈夫です。風邪引き上手ですから!」
胸を張ったら小突かれた。風邪引き上手というのは、少々無理があったか。
世平は濡れそぼった真由香の髪を乱暴に撫でると、「良いから帰るぞ」と真由香から離れていった。
気配でそれを察し、慌てて立ち上がる。
世平の釣りの邪魔をしてしまったし、まだここで遊んでいたかった。
大丈夫だからと繰り返すが、彼は応じてはくれない。
けれども。
「また来りゃあ良いさ」
と、諭すように言ってくれた。
また、ここに連れてきてくれるのだ。
真由香は足を止めて、唇を真一文字に引き結ぶ。かと思えば、すぐに世平の後を追いかけた。勿論、足場には十分気を付けて、だ。
「世平さん!」
「ん?」
世平の声は近い。
それを確認して真由香は歩を弛めた。
「ありがとうございます。あと、本当にすみませんでした」
「構やしねぇよ。だが、今度来る時は大人しくしていてくれ」
「はい! 邪魔にならないように遊びます」
「……そうか」
また溜息が聞こえた。
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