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……今日からだ。
目覚めた真由香は一つ頷いた。
外では小鳥がさえずっている。窓から風がそっと吹き込んで髪を揺らした。
今日から十日間、真由香は猫族の村に暮らすこととなった。その間は関羽と世平の家に泊まる。申し訳ないのだけれど、真由香は盲目なので慣れない土地では誰かに支えてもらった方が何かと助かるのもまた事実。二人の厚意に素直に甘えた。
今日から十日間、試されているも同じ状況になるのだ。
もう一度、頷いた。
「真由香、起きてる?」
「……あ、はい。大丈夫です」
寝台から下りて扉を開くと、「服の着方が分からないんじゃないかって」と手に柔らかい布を当てた。それは服だ。
着方が分からないだけじゃない。真由香の片手はまだ満足に動かすことが出来ない。少しでも動かしてしまえば激痛を伴ってしまうのだ。
関羽は礼を言った真由香を部屋の真ん中辺りに立たせると、一言謝って真由香に服を着せだした。たまに真由香に自分でさせるようにしているが、今回はほとんど関羽に着せてもらった。
いつか自分で着れるようにならなければ。十日後、この村を出て行くことになるのかもしれないし。
「はい。後は髪の寝癖をどうにかしなくちゃね。着替えは、暫くはわたしも手伝うわ」
「ありがとうございます。早く慣れないと、ですね」
ぐ、と左手を握って笑うと、関羽が小さく唸った。
首を傾けると、不満そうな声が真由香を呼んだ。
「真由香とわたしは、年が近いんだし、敬語を使う必要なんて無いと思うんだけど」
「え? いえ、だって関羽さん達は私の世話をして下さってますし、ご迷惑をおかけしない為にも失礼なことは出来ません」
「……敬語が迷惑だって言ったら?」
えっとなって口の端がひきつる。
敬語が迷惑って言ったら……どうしよう。
固まって困惑していると、関羽の視線を痛い程に感じる。
しかし親から、孤児院の院長から相手への礼儀を尽くせと強く言われてきているから、どうしても敬語を無くすのは憚(はばか)られる。
困り果ててしゅんと眦を下げた。
すると、関羽は短く吐息を漏らすと、
「……じゃあ、もし十日後ここにいて良いってことになったら、敬語は無しね。分かった?」
「えと……は、はい」
それなら、良い、か――――いや……世話になるという事実は変わらない。
叱りつけるかのように、強めに言われて思わず頷いてしまった真由香はすぐに悩んだ。
けども関羽はすっかり機嫌を良くして約束だと釘を刺してくる。朝御飯を食べようと背中を優しく叩いた。
「い、良いのかなあ……」
「良いの! そんなことよりも寝癖を直してご飯を食べなくちゃ!」
「あ、ぅ……うぅ……」
……ごめんなさい。
両親と院長に、心の中で謝った。
‡‡‡
朝食を終えた真由香は、昼頃まで家で点字楽譜を読んでいた。
されどふと鞄から折り畳み式の杖を取り出してふらりと家を出た。関羽に声をかけようとも思ったが、洗濯物に忙しかったようだから黙って出た。家から離れなければ多分、大丈夫。
伸ばした杖で地面を叩いたり足を慎重に踏み出して凹凸を確認しながら歩く。なるべく壁際に寄った。
すると不意に、
「……何してんだ?」
「あ、関定さ――――わぁっ!!」
「おわ!?」
無用意に踏み出した足下に運悪く大きな岩があったらしく、捻って体勢を崩してしまう。が、幸い転ぶまでには至らなかった。
段差や凹凸が苦手な彼女にとっては良くあることだった。院長から『真由香はきっと、目が見えていても転びやすいんでしょうねぇ』と言われる程、何かと真由香は転びやすい。注意をしていても躓(つまず)いてしまうことがあるのだから、筋金入りだ。
何とか体勢を元に戻してふうと吐息を漏らすと、関定が案じてくる。それにいつものことだからと返した。
「いつものことって……」
「家族にも、目が見えていても良く転ぶ子なんだろうねって言われてましたし」
「……そんなんで、一人で歩いてて良いの?」
「関羽さん、家事で忙しそうでしたし」
関羽さんの邪魔は出来ません。
そう言うと、何故か溜息。
「あ、やっぱり出ない方が良かったでしょうか」
「いや、それ以前にもう少し自分のことを考えた方が良いと思う」
真由香はきょとんと弛く瞬いた。
「自分のこと……、いえいえ。ちゃんと考えてますよ。これからどうしよかなって。あとどうやったら迷惑をかけずに暮らせるかな、とか、何か役に立てることは無いかな、とか」
「そう言うことじゃなくてさー……ああ、どう言えば良いのかなぁ」
困り切ったような声音に真由香は訝った。そのような意味でないのなら、どういう意味なのだろうか。
黙って返答を待っていると、関定は暫し唸っていたが、やがて諦めたのかまあ良いかと息を吐き出した。
「んで、どっか行くつもりだったのか?」
「いいえ。その辺をぶらぶら歩こうかなって。関羽さん達の家から離れなかったら大丈夫かなと思ったんですけど……」
それに、歩けばこの足場にも慣れる。
一人で村を歩けるようになれば、何か役に立てることが見つかるんじゃないかと考えたのは、真由香のちょっとした願望でもある。
真由香は関定にそう答えて頭を下げると、そのまま何処かに歩いていこうとした。
関定は勿論彼女を止めた。肩を掴んで引き留めた。
「ちょい待ち」
「何です――――」
「真由香!」
「――――か?」
背後で聞こえた声に真由香は振り返る。
今の声は……世平か。確か、朝早くから釣りに行っていたと思うのだけど。
「世平さん。お魚、釣れなかったんですか?」
「ああ、今日はどうもな――――ってそれよりも、だ。お前な。一人で外を歩くんじゃねぇ。転ぶだろう」
「大丈夫ですよ。転ぶのには慣れてますから。これでも転び方は上手い方なんですよ」
少しだけ胸を張ると、「昨日転んで顔面強打した奴が何を言いやがる」こめかみを小突かれた。でも額の傷は軽かったし、それ以外に怪我は無い。
「真由香。外を歩く時は必ず関羽を同伴させとけ。関定じゃ心許無ぇ」
「うわ、ひでぇ」
不満を漏らす関定は黙殺される。
世平は嘆息して、真由香の頭を撫でた。
「でも私、杖もありますから大丈夫ですよ」
「杖?」
左手に持った杖を掲げる。
世平は黙り込んだ。
それからややあって、
「何だそれ」
「何だって…………あ」
そう言えば、言ってなかったかもしれない。
真由香は苦笑して、謝罪した。
また、こめかみを小突かれてしまった。
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