紅蓮様





†リクエスト内容
 関羽。




 幽谷は鼻を動かし、眉根を寄せた。
 この独特な臭い――――夕立が来る。
 家を出て空を仰げば、空の向こう側が黒く澱んでいた。


「洗濯物を入れなければ」


 幽谷は早足に歩き出した。

 そう言えば、関羽は何処に行ったのだろうか?



‡‡‡




 運が悪い。
 まさか、山菜を摘みに山に入って夕立に遭おうなんて。
 しかもこれはかなり酷い。

 手頃な木の下に逃げ込んだ関羽は濡れてしまった髪を撫で、雨水が入ってしまったらしい耳をいじりながら天を仰いだ。
 さっきまでは青かった空を灰色の雲が覆う。雷が、落ちてきそうだ。
 瞳を不安に揺らし、自身の身体をぎゅっと抱き締める。濡れてしまった服が、関羽の身体から体温を奪っていく。このままでは風邪を引いてしまいそうだ。

 雷は落ちそうだし、風邪は引きそうだし……本当に運が悪い。
 関羽は重く嘆息した。


 直後である。


 空が光って、鳴った。


「……っ!」


 関羽の顔が青ざめる。これは、この腹の中すら揺るがすような低い音は……!
 ひやり、背筋を嫌なモノが伝い落ちた。

 そして、視界が一瞬強烈な光に包まれる。寸陰のそれに関羽は小さく悲鳴を漏らしてその場に座り込んでしまった。

 また雷が鳴る。
 耳を押し潰しぎゅっと堅く目を瞑る。
 夕立だから、きっとそのうち止む。

 きっと、きっと……。


「――――関羽様?」


 不意に降ってきた声に関羽ははっと顔を上げた。ぎょっと目を剥いた。


「……っ幽谷!?」


 彼女は関羽の前に立って、赤と青の双眸で関羽を見下ろしてくる。いつの間にここに来たのだろうか、いやそれよりもこの激しい雨の中なのに何も被りもせず……ずぶ濡れだ。横や前髪は肌に張り付き、顔にも雨水が幾筋も伝い落ちている。後ろの髪の毛先からはぽたぽたと滴っていた。服も雨に濡れている所為で色合いが暗くなり、肌にぴたりと張り付いてしまっている。関羽とは比較にすらならない。

 幽谷は関羽の前に屈み込むと、


「どうかなさいましたか? 酷く、怯えていらっしゃいますが……」

「そ、そんなことより、どうして幽谷……ずぶ濡れじゃない!」

「夕立が来ると思いまして洗濯物を取り込んだのですが、関羽様が村におられませなんだ故、もしや山にいるのではないかと付近の山をお捜ししておりました」


 ……どれだけ捜してきたのだろうか。
 関羽は立ち上がると手を引いて自身の隣に幽谷を立たせた。


「そんなにずぶ濡れになるまで捜してくれなくても良かったのに。風邪を引いてしまうわ」

「……いえ、ずぶ濡れになることには慣れておりますから」


 幽谷は関羽が濡れぬようにと彼女から一歩離れる。
 そして、顔を上げた。

 刹那、空が光るのだ。

 関羽は再び耳を押さえてうずくまってしまった。


「関羽様」

「へ、平気……っ」


 気にしないでと笑う関羽に、幽谷は目を細める。そして空を睨め上げて、ふと彼女の前に膝をついた。彼女の頭を撫でてその身体をそっと抱き寄せた。驚く彼女の背を一定の速度で叩き、そっと声をかける。


「叩かれた回数を、心の中で数えていて下さい。雷が鳴ったら、もう一度、一から」


 関羽は幽谷の言葉を反芻(はんすう)した。それから、こくりと頷く。彼女の叩く速度に合わせて、数を数える。

 一つ、二つ、三つ、四つ――――。


 雷が鳴った。

 幽谷が抱き寄せているから光までは分からなかったこともあるのだろうか。
 先程までより、怖くはなかった。

 関羽はがばっと幽谷を見上げた。
 彼女は淡く微笑むだけだ。

 関羽は、幽谷に小さく謝辞を述べた。



‡‡‡




 夕立が過ぎると、二人は独特な臭いの中下山した。
 その道程で関羽が幽谷に問いかけてくる。


「ねえ、幽谷。わたしにしてくれたあれって、幽谷がご両親か誰かにしてもらったことなの?」


 幽谷は首を左右に振った。


「任務に訪れた町で、母親が子供にそうしているのを見たことがあるのです。私には、そのようなことをしてくれる方はいませんから。両親の記憶もありませんし」


 本来なら、ああいったことは親兄弟にしてもらうことなのだろう。だが、自分には親に関する記憶は一切無い。
 唯一の親との繋がりは、右手にはめられた翡翠の腕輪だけ。幽谷の記憶には、両親の記憶など一切無い。


「ご両親のこと、覚えていないの?」

「はい。私は、生まれた直後、殺されかけたところを母親が旅人に預けたのだと、その旅人に聞きました。物心ついたばかりに聞いたものですので、確かではありませんが……」


 旅人の声も顔も、名前すらももう覚えていない。
 幽谷は翡翠の腕輪を撫でた。

 関羽は眦を下げた。


「ごめんなさい」

「いえ、構いません。私自身、記憶に無い以上何の感慨もございませんし、不快に感じたりなどはしませんから」


 だから、幽谷には家族というものが、親子の絆というものが分からない。
 きっと未来永劫分からぬままだろう。この血に濡れた手では。
 それに――――。


「私は、四凶ですから」


 今更両親の記憶を求める必要はありません。そのようなもの、知らぬままで良いのです。
 そうきっぱりと言い放つ彼女に、関羽はぐにゃりと顔を歪めた。彼女がそんな風に言うと、関羽の胸がキツく締め付けられる。

 幽谷はそれに気付かないフリをした。たかだか、私(しきょう)のことでそんな顔をする必要は無いのにと思うが、何も言わない。


「帰ったら、洗濯物を干し直しましょう」

「……そうね」


 関羽は俯き加減に同意した。幽谷の後ろに枝葉を踏み締めて続く。
 村に至るまで、二人は無言だった。幽谷にとってそれは苦痛でなく、気まずくて黙り込んでいる関羽と違って自ら声を発する必要も感じずに何も言わずにただただ村を目指して歩いた。

――――村に入った頃だろうか。


「……っ幽谷!」


 関羽が足を止めて声色高く幽谷を呼び止めた。

 幽谷は数歩歩いた先で立ち止まって関羽を振り返った。


「何でしょうか、関羽様」

「あ、あのね幽谷! その……」

「……?」


 関羽は逡巡するように視線をさまよわせると、やがて意を決したように声を発した。


「か、雷が鳴ってたら……またあれをしてもらっても、良い?」

「……」

「いえ、あの、な、何となく……お母さんにされてるみたいな、感じがしたの。わ、わたしもお母さんのことは何も知らないんだけど……!」


 幽谷は目を瞠った。

 関羽が少しばかり顔を俯かせて、黙り込む。


「……関羽様」


 ややあって、幽谷は呼ぶ。

 関羽が上目遣いに彼女を見やると、彼女は笑って頭を下げた。


「私でよろしければ、御意のままに」


 それに、関羽は安堵して肩から力を抜くのであった。



●○●

 紅蓮様リクエストです。

 まさか主従のリクエストが来るとは思わなくて、嬉しくて携帯を取り落としそうになりました(^_^;)もともと落としやすいのですが。
 この話は夢主が猫族の村に迎えられて少し経った頃です。雷に怯える関羽と言うネタをずっとやりたくて仕方なくて、この話に使わせていただきました。

 紅蓮様、この度は企画にご参加いただきまして本当にありがとうございました。
 主従で書かせていただけてとても嬉しかったです。

 お気に召していただければ幸いに思います。

 本当に、本当にありがとうございました。

 なお、お持ち帰りは紅蓮様のみとなります。



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