壱
久方振りの都は、相も変わらず賑やかだ。
晴明と別れ、黄泉にて報告を済ませた澪は、小舟を抱いて市を歩いていた。
金波は黄泉にて獄卒鬼と手合わせをしている。先日、大怨との戦いで不覚を取ってしまったことがよほど悔しかったらしい。
都から外に出ないことを条件に、澪は護衛無く都を歩いている。
懐かしい賑わいは澪を忘れ去り、誰からも声をかけられることが無い。
澪が都で暮らしていた証は、今や仕事寮のみ。
学び屋に集っていた子供達も、源信を慕っていた大人達も、ライコウの妹頼子も、あの日を境に澪を忘れてしまった。
仕方のないことだ。
本来なら仕事寮の者達だって、澪と関わった記憶を消される筈だったのだ。大陸の仙人が何らかの意図を持って彼らの記憶を消さなかっただけでも十分過ぎると喜ぶべきであろう。
だが、澪はずっと源信達との接触を避けている。
いつも報告で黄泉に戻る際には、晴明は屋敷に戻って身体を休める。
翌朝早くに発つまで、澪は都を回って時間を潰すのが定番になってしまった。
晴明は決まって泊まりに来いと誘ってくれたり、源信に顔を見せてこいと言ってくれるが、澪がこれに従ったことは一度も無い。
澪は死人である。更に言えば今より遥か昔の人間である。
本来ならば同じ場所に立つことなど無かった。
近い未来、《彼女》の件で再び黄泉が生者の世界を大きく揺るがすであろう。
そうなれば澪もまた仕事寮の補佐につくことになる。
そして、標も――――。
いや、それはまだ考えずにいたい。
ともかくそれまでは、生死の線引きを守らなければならないと思う。
私は遠い昔に死んだ――――自身の認識を曖昧にしない為にも。
頭では分かっているのに、気付けば学び屋の近くに来てしまっているなど少なくない。
学び屋が見える場所にまで至っていて肝を冷やしたこともある。
今日はまだ、市場の中央に近い場所だった。
澪は溜息をついて身を翻した。
店主がこぞって客の気を引こうと声を張る側を通過し、歩き慣れた道を進む。
と、不意に誰かに呼ばれたような気がした。
随所から上がる明るい声に掻き消されたのか、聞き間違えたのか。
澪は一度立ち止まって周囲を見渡した。しかし、声はもう聞こえない。
彩雪さんの声に似ていたような気がするけれど……気の所為だったみたい。
少しだけ落胆した。
「お嬢さん、今日の夕餉は決まったかい?」
「ええ。ごめんなさい。おじ様」
にこやかに声をかけてくれた店主に頭を下げ、澪は市を抜けた。
今日は金波がいないので都の外に足を伸ばせないが、まあ、都も広いのでのんびり散策していれば朝までかかるだろう。
何処に何があるのか把握しているが、日中は毎日同じようで違う人々の営みを眺めて回り、夜中には彷徨う死者を探しては黄泉へ誘(いざな)うのに忙しいので飽きることなど無い。
朱雀大路に出ると、今日は前に歩いた時よりも人が少ない。
今日は風が冷たく、強いから、その所為であろうか。
牛車を引く牛も身体を叩いてくるのに鬱陶しそうだし、牛飼いも風に運ばれた埃などが目に入ったようで、しきりに目を擦っては目をしばたかせて涙で落とそうとしている。
澪の横を足早に通過していった若い貴族も風に悪戯されて歩きにくそうだ。
風に恨めしげな顔をして行き交う人々を横目に眺めて歩く澪は、大内裏が見えてくると道を逸れる。
丁度腕の中の小舟がうとうとし始めていたこともあって適当な、主亡き邸に入った。
小舟は、徒人には普通の赤ん坊に見えるよう術をかけてある。
時折、性根の悪い貴族などに、父親は誰か、故郷を追い出されたかと下卑た問いを嘲笑いながらかけられる。
そういう時はこちらも笑顔で『神が、未婚のわたくしを見初めて授けて下さった御子です』と返して立ち去るようにしている。そんな問いをかけてくるような人間だ、純粋に言葉通りの意味で受け取る輩ではないだろう。それを心の中で笑う、ささやかな仕返しだ。
簀の子に腰掛けて歌う、澪と標の故郷で歌われていたという優しい子守唄。
勿論、母に教わったのではない。
大好きな兄が、自分達の為に歌ってくれていたのを覚えたのだ。
標も小舟も、この子守唄を歌うと寝付きが良い。
小さな声で歌っていたのに、気付くと欄干に小鳥達が集まっていた。
澪が気付くのを待っていたかのように、一斉に歌い出す。子守唄に合わせて、とても穏やかに、我が子を慈しむように。
その頃にはすでに小舟は完全に寝入っていて、もう歌う必要は無かったのだけれど、小鳥達の歌声が嬉しくて澪は子守唄を止めなかった。
‡‡‡
小舟が目覚めると、小鳥達は歌を止め澪の身体に飛び移る。
目覚めたばかりの赤子を覗き込み、愛らしい声でさえずった。小舟が手を伸ばすのへ、近付いて頭を擦り寄せる小鳥もいた。
小鳥達からも愛でられる愛しい我が子を見下ろし、澪は微笑んだ。
すると、
「やっぱり、澪!」
「!」
明るい声に驚いた小鳥達が一斉に飛び立ってしまった。青空へと逃げていく。
こちらに駆け寄っていた声の主は足を止め、空を見上げた。
「あ……っ、ご、ごめんなさい」
小鳥達に向けたのか、空に向かって謝罪する。
澪は小舟を抱き直して立ち上がった。
庭に降りて彼女へと歩み寄る。
「彩雪さん……」
晴明の三番目の式にして、最愛の女性、彩雪である。
今、自分の顔がどんな表情になっているか分からなかった。ただ、顔中の筋肉が僅かに引き攣っている。
やってしまった、と申し訳なさそうな顔して澪へ向き直った彩雪は、苦笑を浮かべた。
「……驚かせちゃったね」
「お気になさらないで下さい。この子も起きたので、そろそろ移動しようとしていたところでしたから」
彩雪は「そっか」と言いつつ気付かわしげに澪の顔を見つめてくる。
「今日は少し冷えてるし、風も強いよ?」
こちらに戻ってきてからの澪の行動は、晴明から聞いているのだろう。
瞳にこもる光は思案に沈みつつ、澪を案じる。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます。彩雪さん」
「うちに寄っていかない? 壱号君や弐号君も心配してたから、絶対に喜ぶと思うよ」
源信の所に行こうと誘わないのは、きっと学び屋の子供達が澪を忘れているからだろう。
ひょっとすると、ここで澪が了承したら、彩雪は源信を邸に呼んでしまうかもしれない。
嬉しいと思いながらも澪は首を横に振った。
「いいえ。ここでも私にはやるべきことがございますから」
「ちょっとだけでも?」
「ごめんなさい」
「……そっかぁ。残念」
心底からそう言ってくれるのが分かる。
澪は罪悪感に胸を痛めつつ、彩雪に頭を下げて邸を出ようとした。
が。
「あっ、あれって……!」
「? ……あ、」
ひらり、
ひらり。
目を真ん丸に見開いた彩雪の視線の先に、空を頼りなげに彷徨う小さな鶴が在った。
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