これは、すぐに夢だと分かった。
 遠い遠い昔のことだから。

 澪は標と手を繋いで暗くてじめじめした道を歩いている。
 蛍のような、しかし蛍にしては大きい虫が放つ光を頼りに、揃って鼻歌混じりに奥へ奥へと進んでいく。
 慣れ親しんだ黄泉の闇は、まるで深い深い水底のようだ。夜の闇よりももっと冷たくて陰欝な漆黒が最奥を呑み込んで隠しているが、二人に恐れる様子は全くない。
 二人の後ろ姿は、まるで日が暮れて家路を急ぐ子供である。

 それに近いかもしれない。

 これから二人の訪れる場所には、家族同然の存在がいるのだから。

 暫く歩き続けていると、ふとした時から道が急に幅が広くなり、下り坂になる。
 この辺りで標の足が速まり、姉を追い越してぐいぐい引っ張り出した。

 澪は目元を和ませ、妹に従って速度を上げる。

 徐々に徐々に大きな蛍が数を減らしていくのは、最奥に近い証拠だ。
 澪標(みおつくし)が転んで怪我をしないように《彼女》が生み出して放ってくれた虫達も、最奥へは彼女を畏れて近付かない。

 されど、ここまで来れば十分だ。
 凹凸の激しい道も平坦に均(なら)される。

 やがて、二人は足を止める。
 暗い中に仄かに浮かび上がる輪郭が、澪標の目に映る。
 それは観音開きの巨大な扉だった。
 澪は、妹の手を引いて扉に近付き、掌を軽く押し付けた。

 ややあって扉がゆっくりと、アヤカシの唸り声のような軋みを上げて開いていく。

 澪は扉の動きに合わせて後退する。

 人一人余裕で通過出来る隙間が開いたところで中へ身体を滑り込ませ――――標が唐突に駆け出した。姉の手を繋いだまま。

 扉の中は暗闇だ。
 だが二人は知っている。
 扉を抜けた先は広大な空間であると。

 その中央に、彼女がいる。


「待って、標。驚かせてしまうわ」


 姉が窘めても標は足を止めない。

 座して澪標を待つ彼女を見つけ、声を張り上げた。


「おかあさーん!!」


 彼女は、ゆっくりと手を挙げてくれた。




‡‡‡





 目が覚めた。
 澪は上体を起こし、小さく吐息を漏らした。

 顔を上げ、一夜の宿代わりに借りた廃屋に差し込む光は、朝日程柔らかく明るくはない。静かで冷めた月の光だ。
 まだ夜は深く、朝は遠い場所で人々と同じく眠りに就いているようだ。


「お母様……」


 遠い昔の夢だった。
 どうしてあんな夢を――――今だから、か。
 目を伏せて胸を押さえる。

『おかあさま』

 夢の中で標が嬉しそうに呼んだ相手は、無論《よる》と《あさ》を産んだ女ではない。
 黄泉で出来た、最愛の人だ。

 死んでから、澪と標には父が出来た。そして、《母》も出来た。
 そう呼ぶにはあまりに尊い女性ではあるけれど、彼女が澪標が望むのならばそう呼んで欲しいと優しく赦してくれたから、二人は彼女を母と呼び慕った。

 大好きなお母様。
 いついつまでも私達を優しく見守って下さると思っていた。

 だのに。

 黄泉はまだ、鎮まっていなかった。
 更なるうねりがお母様をも呑み込んで――――。


「悪い夢でも見たか」

「あ……」


 晴明の声だ。


「起こしてしまいましたか」

「ああ」

「すみません。遠い昔の夢を見ていました。御役目をいただいて間もない頃のことを……」


 衣擦れの音がする。晴明が起き上がったらしい。

 彼は、静かに問うてきた。


「……黄泉で何が遭った?」

「……」


 澪は俯き口を噤(つぐ)んだ。


「気付いていないとでも思ったか? あれだけ頻繁に、崖から飛び降りそうな顔で物思いに耽っていれば嫌でも気が付く」


 隠し切れているとは思っていなかった。
 自分でも動揺が糸を引いて、戦闘中でも時折集中力を欠いてしまう場面もある。
 晴明の補佐として側についているのに、情けない体たらくである。

 彼に言及されたら、流石に話さねばならぬだろうと、思っていた。それが限りだと決めていた。


 しかし。


 澪は小さく謝罪するに留めてしまった。

 晴明はつかの間沈黙し、長々と溜息をついた。
 さりとて分かりやすく悩んでいながら全く話そうとしない澪を責めることもしない。

 それどころか、


「今はまだ話したくないと言うのなら、そのあからさまに聞いてくれと言わんばかりの鬱陶しい態度をどうにかしろ。その様で戻れば、鈍い参号でも気が付くだろうよ」


 澪はほっと息を吐いた。暗闇の中見えないと分かっていつつも無理矢理に笑顔を浮かべ、言葉を返す。


「……彩雪さんは鈍くないと思いますよ」

「お前はあれに甘すぎる」

「だって兄様の大切な方ですから」


 さらりと返せば、晴明は言葉に詰まる。

 小さく笑声を漏らせば咳ばらいで咎められる。


「兄様。我がことで起こしてしまい申し訳ありません。明日の為、もう一度お眠り下さいな」

「ああ……」


 ちょっとだけ、機嫌が悪そうだ。
 彩雪のことで晴明をからかうと、初々しくて可愛らしい。

 澪はまた笑声を零し、横になった。

 また聞こえた衣擦れの音から、晴明も身を倒したようだ。

 けれどそのまま眠るのではなく、


「澪。何を憂える」


 唐突にかけられた晴明の言葉は、優しかった。
 それだけで、どれ程心配してくれているのか分かる。
 分かってしまうから、余計に苦しい。


「すみません」


 澪は小さく謝罪した。


「なるべく早くにお伝えしなければならないと分かってはいるのですが、私の口から兄様に伝えるということは、私が納得していないことも含めて受け入れたことになってしまうのです。ですから、よしやあちらとこちらの世にとって重要な問題だとしても、私にはまだ、話せません」


 延ばし延ばしには出来ぬことを、澪は抱えている。

 黄泉の王からは晴明に話すように言われたが、同時に納得してからで良いとも言われている。
 父としてはこの旅の間に整理して答えを出して欲しいのだろうが、澪にはどんなに時間をかけたって納得出来る気がしない。

 それを、黄泉の王も咎めたりはしない。報告の際、伝えたか確かめることも無い。
 澪が父親に対して声を荒げて責める程、許せないことだと分かってくれているから。

 黄泉の王も苦渋の決断だっただろう。

 何せ――――、


「標を、大切なあの子を危険に巻き込みたくないのです」



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