「なあ、菊花様だろ。あんたに吹き込んだの」


 不安げに揺れる赤い炎に照らされた洞窟の最奥。
 ぱちぱちと燃える小枝の爆ぜる音に重なって、銀波の静かな声が冷たい夜気を奮わせた。

 膝が健やかな寝息を立てる標の枕になっている道満は、穏やかに凪いだ赤い瞳を銀波に向けた。

 銀波は赤い瞳を見返し目を細めた。


「……変わったよな、あんた」

「変わった?」

「雰囲気ががらっと。だからか? 俺に雪を見せる気になったのって」


 道満はつかの間沈黙した。

 銀波の言う通りである。
 金波と銀波に雪を見せるときっと喜ぶだろうと、出立の直前に菊花が道満に囁いた。
 だがそれを思い出したのはたまたまだ。
 たまたま、少し早い雪景色が見られると聞いた時、ふと思い出しただけ。

 大したことではなかった。

 だのに。

 変わった……オレが?
 どんな風に?

 実感が無い。

 茫然としていると、銀波が鼻を鳴らした。
 つまらなそうに唇を尖らせてそっぽを向く。


「そういう薄い反応されると手応えが無いからつまんねー」

「……それなりに驚いているんだが」

「だったらもっとそれらしい顔しろよな」

「オレは変わったのか?」

「劇的にって訳じゃねえけど。表情が柔らかいっつーか……前みたいに張り詰めてたもんが無くなった感じ」

「……」


 道満は己の顔に触れた。


「分からない……自分では」

「だろうと思ったよ。今のあんた見たら、菊花様絶対喜ぶんじゃねーの」


 言われて眼裏に蘇る、自分を送り出す時に見せた愛しい菊花の笑顔。
 久方振りに見た彼女の笑顔は、色褪せた記憶以上に輝かしく鮮やかだった。

 忌まわしいあの日、道満が失ったものはあまりに多い。
 絶望に心が塗り潰され、何もかもが無彩色となり――――。

 そこで、はたと気付いた。


「……変わったのか」

「あ?」


 変わったのだ。
 いつの間にか変わっていたのだ。
 世界が。

 菊花の笑顔は鮮やかだった。
 そこから変化は始まっていたのかもしれない。

 何にでも興味を持って何でも知りたがる標に振り回され、護衛と監視としての責任感からか道満を頼らない銀波を気にかけ、旅をして来た。
 青い水面に写り込んだ自分に喜ぶ標を見守り、秋になると木々が色を変える理由を標に教え、可愛い桃色の花の名前を地元の者に訊ね、夕日を受けて燃え上がる湖面に暖かそうだとはしゃいで飛び込もうとする標を銀波と一緒に引き止めて……。
 三人で歩いてきた世界は、やはり鮮やかに色付いていた。
 確かに、変わっていた。

 どうして今まで気付かなかったのか。

 その答えはすぐに出た。

 この二人と過ごす時間があまりにも忙しなくて、楽しくて、息つく暇も無かったからだ。


「確かに変わったのだな。オレは。……失ったと思っていたのに」

「失ったっていうけどさ。あんたが大昔守ってたの、何もかも全部滅んじまった訳じゃないんじゃねーの?」


 銀波は後頭部を掻きながら、思案する。
 ややあって、


「人間って、弱いくせして存外強かな生き物なんだぜ?」

「ああ」

「それは大昔から同じだと思うんだよ。だからさ……」

「……」

「……」

「……」

「もう少しましな反応しろよ! 良いこと言おうとしてただけに恥ずかしいわ言いづらいわでもう言う気無くなったわ!」


 頭をがりがり掻いて外套を頭頂まで上げて背を向けた。

 道満は緩く瞬きして銀波を見つめ、


「すまない」

「分かってねえくせに謝んな馬鹿のっぽ!」

「……すまない」


 顔だけを出して銀波は道満を睨みつける。
 かと思えばまた、道満の発言を拒絶するように外套に身を隠してしまう。

 道満は暫く銀波を見つめていたが、不意に標が身動ぎして視線を落とした。


「んん……」


 一瞬眉根が寄って苦しげな表情になった彼女を案じ様子を窺う。

 しかし、標が目覚める気配は見られなかった。
 代わりに、


「……いたいよぅ……いたいよぅ……」


 か弱い声で助けを求め出すのだ。
 標の目の端から涙が零れ落ちた。
 小さな手が道満の服を強く強く握り締める。必死に縋り付くかのように。

 標の涙混じりの声に銀波も跳ね起きた。大急ぎで標に近寄り不安そうに顔色を窺っている。

 道満には彼女がどんな夢を見ているのかすぐに察しがついた。
 旅の中で、何度も目にした姿だからだ。


「……うでがないよぅ……おねえちゃん……おねえちゃん……」

「標……」


 過去を見ているのだ。
 二人が死んでしまったあの、狂人によるおどろしき儀式の記憶を、夢の中で再び……。

 ここで起こせば、彼女は夢の内容は全て忘れてしまう。

 標は澪と違って生前の記憶をほとんど忘失している。自身を守る為だ。
 ずっと一緒に過ごしてきた双子の姉と引き離された不安、生きたまま四肢を斬り落とされる恐怖、それが実の両親であると知った絶望――――心の発育が遅かった標に耐えられる筈がない。
 それでもこうして夢に見てしまうのは、魂にまで深く染み付いているからだろう。
 何度記憶から消し去っても、魂に刻まれた恐怖は、絶望は、消し去れない。

 澪だって表では割り切った風を装っているが、あれを割り切れる筈がないのだ。標以上に、彼女は悲惨な目に遭っている。


「標様……」


 銀波が標の頭をそっと撫でる。
 すると、胸を締め付けられる程の痛々しい寝言はぱたりと止んだ。道満の服を握る手も力が抜けた。

 銀波は安堵の息を漏らした。


「良かった……収まった」


 道満は服を掴んだままの標の手に己の大きな手を重ねた。


「あの時、オレが……」

「あの時?」

「いや……独り言だ」


 標の手が動いた。覆い被さる道満の手、その親指をギュッと握り締めた。
 まるで、生まれて間も無い赤子のように。

 道満は目を細め、残った四本の指であやすように小さな手を軽く叩いてやった。


 あの時オレが兄に変わってお前達を助けていれば……お前達は幸せになれたのだろうか。



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