銀波の目が、朝日そそぐ水面(みなも)の如く輝いた。
 華奢な身体がぶるぶると瘧(おこり)のように激しく奮え背を丸くする。

 痛みを堪えるみたいに苦しげな呻きを漏らしたかと思えば、葦屋道満が怪訝に思って声をかける寸前に、背を伸ばし両手を天へ突き上げて歓声を上げた。


「雪だー!!」

「……、そうだな。雪だ」

「ゆ、き、だー!!」

「ゆーきーだー?」


 道満の隣では標が銀波の真似をして、こてんと首を傾げる。


「ねえねえ、どーまんさまー。『ゆーきーだー』って、なあに? 楽しいこと? あそび?」

「違う。雪、だ」

「ゆき?」

「雪は知らないか?」

「んーとね、お空から神さまがふらせてる、きれいで冷たいつぶつぶのことだって澪姉ちゃんが言ってた。ゆきがいっぱいの所から来る人、いっぱいいたんだよ」


 「そうか」道満は銀波から視線を標へ移し、その場に屈み込んだ。
 足が沈む真っ白な、砂のようには流れない、素手で触れればみるみる水に変わっていく冷たいそれを黒い掌で掬い上げた。

 興味深げに凝視する標に近付け、触るように言う。

 標はずぼっと指を尽き入れた。
 瞬間飛び上がって甲高い声を上げた。


「冷たい!」

「ああ。冷たいだろう。雪は温かいものに触れると溶けて水になってしまう」

「すごい、すごい! 雪って水に変身するんだね!」


 無邪気にはしゃぐ標に、道満は表情を緩めた。
 しかし、彼の赤い双眼には、ほんの僅かに悲しげな色がある。


「お前達が生きている頃、故郷では雪は降らなかったのか?」

「んー……わかんない。雪、ふってたのかなあ。澪姉ちゃんに訊いたら分かるかな?」

「どうだろうな」

「じゃあ、今度いっしょに訊いてみようねえ」


 道満は目を細め、言葉を返す代わりに標の頭を撫でてやった。

 標は嬉しそうに笑い、くしゃみをした。
 鼻を啜り、「寒いねぇ」心底楽しそうに言う。

 標にとっては初めての《外》の世界。
 目に見るもの手に触るもの全てが、生まれて初めて。
 澪標(みおつくし)の妹とその護衛の弟を道満の監視につけたのは建前で、実際は標に世界を教えさせる為だったと、今なら分かる。

 標は何を見ても楽しそうに笑って道満に訊ねてくる。
 そして一度教わったことは二度と忘れない。恐らくは姉以上に賢しいだろう。
 教える側としても、教えたことをみるみる吸収してくれるのは非常に気持ちが良い。

 だが……《生前》を知っている道満には、複雑な気持ちになることもある。


「神がどうやって雪を生み出すのか、知っているか?」


 標の瞳が輝いた。


「ううん。知らない。どーまんさまは知ってるの?」

「ああ。教えてや――――」


 ぼちゃっ。


「わっ」


 標が目を真ん丸にして道満の側頭部を凝視する。

 首が右に傾いだ道満の左側頭部を、髪と同じ純白の雪がべったりと覆っていた。道満の体温で雪が溶け肩へ流れ落ちていく。
 道満は首の傾きを元に戻し顔を左へ向けた。

 そこにはこちらへ何かを投げた格好で銀波がにやにやしていた。


「へっへー、隙あり」

「……」


 道満は足元の雪を掬(すく)い上げ、ゆらりと立ち上がる。
 雪が勝手に丸く凝固するのを、標は興味深げに見上げている。

 銀波は応戦の構えを見せた道満に、好戦的な笑みで挑発する。

 彼のこういうところは、嫌いではない。
 金波だったらばこんな風に子供じみた悪戯を仕掛けては来るまい。
 むしろ道満を警戒し、標を近付けなかっただろう。

 銀波も警戒してはいるが、旅の始め程ではなくなった。

 最近では、幼児二人の子守をしている気分である。
 騒がしい二人の世話を焼きながら過ごす日々。慣れ親しんだ鬱々とした退屈も逃げ出すくらいに。
 遥か昔に諦めていた生き生きとした抑揚を取り戻したような心地だ。

 犯した罪を償う為のこの旅だのに、楽しくてたまらない。
 この人選を任された《彼》は、こうなることを期待していたのかもしれない。
 優しい……本当に優しい男だ。
 助けてやれなかったのに。
 死してなお、苦しませたのに。

 道満は大きく振りかぶり銀波に向けて雪玉を投げた。

 銀波は軽々と避ける。


「はんっ! 雪の中でこの銀波に勝てると思うな!」

「そうか。ではこうしよう」

「何しようが……って、ちょっと待った!」


 銀波の周りに竜巻が生じ、雪を巻き上げ頭上で大きな雪玉を成形する。

 身体を丸めた大人一人がすっぽり入ってしまう程の巨大雪玉を見上げた銀波。青ざめ口端を引き攣らせた。


「ちょ、反則! 雪合戦に術は反そ――――くぎゃあぁぶふっ!!」


 雪玉が落下した。
 大量の雪に押し潰された銀波に、標は手を叩いて喜ぶ。


「どーまんさますごーい! おっきな雪だー! 標もやりたい!」

「そのうちにな」


 道満は標の頭を撫で、空を仰いだ。
 ここは山頂に近い。天気はとかく変わりやすい。

 あまり長居は出来ぬか……。


「……っぶはぁ! ちょっ、さすがに死ぬわ!!」

「もう死んでいるだろう」

「言葉のあやだっつの!」

「ああ。そうだろうな」


 雪の小山のてっぺんから顔を出し猛抗議する銀波に歩み寄り、襟を掴んで引き抜いてやった。

 地面に下ろしてやると全身に着いた雪を乱暴に払い落とし、拗ねた顔で道満を睨め上げてくる。

 道満は銀波の頭を軽く撫で、標を呼んだ。


「雪が降る仕組みを話す前に、雪で遊んでみるか?」

「わーい、あそぶあそぶー!」


 道満は次に銀波に視線を向ける。

 銀波はむっとしつつも頷いた。


「標様。雪合戦をしませんか? 楽しいですよ」

「ゆきがっせんしてみたい!」


 元気良く答えた標に、銀波の表情も綻ぶ。
 道満の視界から外れない程度に離れ、雪玉の作り方から教え始める。

 彼らの姿を見守りながら、道満は近くの岩に腰掛けた。

 その表情は、穏やかだ。



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