壱
鬱蒼と茂る枝葉に遮られ日差しも届かぬ山奥。
土と緑の匂いが横たわるその場所は、神聖な空気に満ちみちている。
柔らかな腐葉土を踏み締めて澪は一人、悠々と歩く。
鳥の歌声が聞こえる。
虫の囁きが聞こえる。
すれ違った動物達は誰もがのびのびとこの山に生きている。
この山は清らかだ。
神聖なる自然の息吹が、この山に留まらず麓の草原までを邪悪なモノ達から守っている。
山の何処にも汚れた存在はいない。
こんな清浄な場所があったなんて、信じられない。
澪は深呼吸をし、ふと肩を小さく跳ね上がらせた。
自分の腕の中にいる黒い塊を見下ろし、破顔する。
「あなたも歩いてみたいの? 小舟」
腕の中にいるのは、黒い球体を二つ繋げたような小さな小さな生き物だ。頭部と思われる上の球体の上部には小さな角が生え、その下に真っ赤な円が二つ横に並んで明滅している。瞬きをしてているのだ。
澪の小指よりも小さく細い腕を一杯に伸ばして来る我が子に澪は愛おしげに目を細め、身を屈めた。
そっと地面に下ろしてやると、小舟は短い足でぽてぽてと澪の周りを歩き出す。
小石を両手で拾い上げてぽいっと前に投げた。
ころころと転がっていく小石を小走りに追いかけて拾い、また前へ放り投げる。
単純な遊びを繰り返す小舟を微笑ましそうに眺めていた澪は、ふと後ろから誰かが歩いてきている気配を察知し立ち上がった。
振り返り、頭を下げる。
「兄様(あにさま)」
光を受けて濃紺に透ける美しい黒髪を風に揺らしながら、安倍晴明は澪に歩み寄って来る。
「あれの心も少しは落ち着いたか?」
「さあ。今のところ、姿を見せていません。きっと、この空気に夢中になっていることでしょう」
晴明は周りを見渡し、感嘆した様子で「珍しい」呟いた。
「これも、嘗てここで崇められていた《神》の影響か……」
「それもありますが、今でもなお《神》と、《神》に身を捧げた存在を時代へ語り継ぎ、感謝の念を絶やさなかったこの地の人々の純真な思いもまた、この地の清浄さを保っているのでしょう」
澪は小石を追いかけてだいぶ離れてしまった小舟を再び抱え上げた。
晴明を振り返り頷くと、晴明は小舟の頭を撫でて麓へ歩き出す。
ゆっくりとした歩みの彼の隣に並び、澪も、きっと懐かしさを噛み締めているだろう部下を捜しに向かうのだった。
‡‡‡
金波の変化に真っ先に気が付いたのは澪だった。
とある山に入る直前に一瞬だけ歩みが乱れた彼は、人に踏み鳴らされた狭い山道を歩いて行くうち身体がどんどん強張っていった。
人の往来があると言えど左右から伸びて鬱陶しい枝葉を払う為先頭を行っている金波は、平静を装っているものの周りの様子が気になっているようだ。彼のすぐ後ろを歩く澪にはそれが良く分かる。
中腹に至る頃には最後列を歩く晴明も気付く程に動揺が顕著になっている。
鬱蒼と生い茂った山道から開けた場所に抜けた時になって、澪は金波を呼んだ。
しかし金波は切り立った崖の縁に立って、眼下に広がる森林、その中にぽっかり開いた青い穴を凝視している。
湖だ。木々の緑、空の青と雲の白を鏡のように水面に映す湖の畔に、様々な草食動物が集まっているのが見える。
澪が金波の肩を叩いてやっと我に返って勢い良く振り返った。
勢いが良すぎて、体勢を崩して後ろ向きに倒れそうになった。晴明が咄嗟に腕を引いて戻してやらなければ、崖下へ落下していた。
青くなって胸を撫で下ろし、金波は晴明に礼を言い、澪へ謝罪した。
「どうしたのです? 金波。この山に覚えがあるようですが」
「それは……あー、いえ……」
金波の視線が露骨に泳いだ。言いにくそうに唇をもごもごと動かしている。
澪は首を傾け当たりを見渡してみた。
少しの間考え込んで、「もしかして」
「ここは、あなた達の《前世》に関係がある場所なのですか?」
金波の顔色が変わった。
図星だ。
澪は微笑み、
「では、この山を暫く散策してきてはどうでしょう」
金波は目を丸くした。
「え? いやっ、ですけど……!」
困惑する金波が遠慮しようとするのを手で制し、「良いですよね?」晴明を振り返り、許可を請う。
晴明は涼しい顔で素っ気なく答えた。
「好きにしろ」
「ありがとうございます。……金波」
「あ……ありがとうございますっ!」
頷いて見せると、金波は目を輝かせ二人に勢い良く頭を下げた。
急いで横の茂みに飛び込み斜面を軽々と登っていく。
その無邪気な姿は金波にしては珍しい。
やはり銀波と血の繋がった兄弟なのだ。
もう姿が見えなくなってしまった。
小さく笑う澪。
晴明は鼻を鳴らし、身を翻した。
「あら……兄様。戻られるのですか?」
「私達は、一旦麓の村へ行くぞ」
「どうしてです?」
「あの様子では一日では終わらぬだろう。戦闘を担当する者に変に引きずられて足手まといになられても困る。一夜の宿くらいは借りれる筈だ」
「そうですね」
つまり、黄泉を出て初めて故郷に帰ってきた金波の為にもう少し滞在してくれる、と。
澪は笑い、足早に山を下りる晴明を追いかけた。
「でしたら、私も後程小舟と一緒にここを歩いてみます」
「ああ。そうしろ。ここのところ、お前には過剰に働かせてしまっているからな」
「お役目ですから、お気になさらないで下さい。兄様」
晴明がふと足を止める。
澪も立ち止まると半歩退いて半身になり、澪の頭を撫でた。
緩く瞬きした澪は、少しして嬉しそうに相好を崩したのだった。
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