澪は来てくれるだろうか。
 己に前に配膳されていく料理を見下ろし、彩雪は浮かない顔をしている。

 折り鶴の招待状を受け取った彩雪は、時間の少し前に神泉苑へ向かった。
 澪が一足先に来ていないかと期待したのだ。

 久し振りの澪。短くなった髪はそのままに装いだけが変わった彼女に会い、彩雪はまず安堵した。
 追いかけて声をかけてみれば彼女はちゃんと彩雪と会話をしてくれた。
 まだ彼女との繋がりは切れていなかったのだとはっきり分かってほっとした。

 澪はあの日――――黄泉と現世を巻き込んだ動乱が終結した翌日、動乱のさなか黄泉から放たれた八百の大怨を追う為旅立った晴明の横に並んだのを最後に、仕事人の前に現れることは無かった。
 たまに都に戻って来る晴明に訊ねても、黄泉に報告に戻っている、出立と同時に合流するらしいとだけ。
 帰ってくる度に訊ねる彩雪に、珍しくうるさがることも無く答えてくれる晴明もいつもな苦々しい表情だ。彼も彼で思うところがあるのだろう。

 源信にも一度も顔を見せていないらしい。
 彼が寂しげに笑って言うには、学び屋に通う子供達も、その家族も皆、澪のことを覚えていないから戻れないのだろうと。

 澪は死人。それも、和泉――――皇に背く《まつろわぬ民》だ。
 彼女自身が生者や皇との線引きを明確に引いて守っているのだろうとは分かる。

 だけど、仕事寮は皆彼女達のことをちゃんと覚えている。
 だから源信や和泉に会いに行きにくくても、彩雪には会いに来てくれたって良かった。邸の中でゆっくりお茶をして、壱号や弐号も交えておしゃべりして過ごしたって良かった。
 そのくらいは、きっと許される筈だ。

 最近は、和泉が新たに作った陰陽師集団《月輪》も八百の大怨を祓うべく活動しているという。
 晴明も前よりもずっと楽になっているだろう。元々強い固体のみを狙って動いているのだが、小物に煩わされることも多いと晴明が漏らしていたことがある。
 加えて何者かが晴明と同じように大物を狙って動いているらしく、無駄足になることも珍しくない。

 ちょっとくらい澪もちょっとくらい息抜きをしたって良いと彩雪は思うのだ。

 黄泉の王だって娘の澪が無理をするのは嫌なんじゃないか、生者と死者の境を越えることがあっても、それが彩雪達なら見逃してくれるんじゃないかと思う。

 澪は、真面目だ。

 彩雪は溜息をこぼす。
 澪の席は彩雪の隣だ。そのもう一つ隣にも三つ程空席がある。金波と銀波と、ひょっとすると澪の双子の妹、標が来るのかもしれない。
 けれど、宴が始まる頃になっても彼女は姿を見せない。
 澪、もしかしてこの場にも来ないつもりなんじゃ……。

 そんなの嫌だな、と強く思った。
 折角会えたのに。


「ん。どないしたんや、参号」


 もう一度溜息をつこうとした彩雪に気付き、向かいの弐号が声をかける。


「あ……うん。澪達、なかなか来ないなと思って」


 隣の空席を見ながら言うと、弐号の炎のとさかも勢いを無くした。


「あー。せやな。確かに澪や漣(さざなみ)がおらんと、全員集合って感じせぇへんなぁ」


 彩雪は小さく頷く。
 この場には和泉もライコウもいる。二人は元気そうだった。
 それが確認できて嬉しい筈なのに、彩雪の心は全く晴れなかった。

 この場に、澪と金波や銀波がいないからだ。

 彩雪が仕事寮に入った時にはすでに澪と、鵺に化けていた金波銀波は仕事寮に所属していた。
 だから、澪達がいなければ仕事寮の面々が揃ったとは思えない。
 さっき澪に会っていたから余計に寂しい。

 宴を催してくれた和泉達には申し訳ないけれど、隣に寂しい肌寒さを感じてしまって、美味しい料理にも夢中にはなれなかった。

 彩雪は、そうなのだが。


「そう言ってる割にはしっかり食べてるよね、弐号くん」


 すでに半分も量が減っている弐号の膳を見、彩雪は苦笑する。
 ついでに言えば、嘴(くちばし)の端にも食べ滓(かす)がついている。

 それを指摘した彩雪に晴明が唐突に命を下した。


「参号。外に行ってこい」

「え?」

「聞こえないか?」


 淡々と言われ、彩雪は耳を澄ます。
 そして、宴の賑わいに少女のはしゃぎ声が隠れているのが分かった。

 澪の声に似ているような気がしたが、澪はあんな風にははしゃがない。

 ということは――――浮かんだのは澪そっくりの女の子。

 はっとして晴明を見上げると、彼は丁度腰を上げた源信を見ていた。
 源信も気付いたのだ。

 ううん。源信さんだけじゃない。
 一見落ち着いている風の和泉もライコウも、動作の端々で外の様子を窺っている。


「行ってきます」

「ああ。……源信に、今はまだ触れてやるなと言っておけ」

「? 分かりました」


 彩雪は徐(おもむろ)に立ち上がり、庭へ降りた源信を足早に追いかけた。

 と。


「っ!?」


 ぞぞ。
 感じた悪寒に、彩雪は身体を震わせた。

 またこの感覚。
 周囲を見渡す。誰もいない。
 彩雪は眉根を寄せた。


「ここに来てから、ずっとだ」


 頭の中に蘇るのは、宴の直前に晴明と交わした言葉。


『この建物やお庭に、なんていうか……誰かの視線のようなものを感じてしまって。気のせい……ですよね?』

『……感じたか。まったく、鋭いのやら鈍いのやらだなお前は』



 そう、視線だ。

 限られた人間のみが立ち入りを許されるこの禁苑に入ってから、宴が行われている主殿、乾臨閣(けんりんかく)の中に至るまで、彩雪はずっと得体の知れない視線を感じているのだった。
 辺りを注意深く見渡しても生き物らしい影は一切無く、こんなにも荘厳な美しい場所に在っても景色がほんの少し不気味に思えてしまう。

 一体、何の視線なんだろう……。
 唇を引き結んでもう一度周囲を見渡していると、


「どうされましたか、参号さん」

「あ、源信さん」


 源信が、立ち止まって彩雪を振り返っている。
 彩雪が追いかけてきていることを分かっていたのだろう。


「あ……す、すみません。澪達を迎えに行くんですよね。わたしも一緒に行っても良いですか?」

「ええ。構いませんよ」

「ありがとうございます。……っと、それと、晴明様から伝言を預かってます」


 首を傾げる源信に、晴明の伝言をそのまま伝える。
 すると、彼は何かを察したように一瞬黙り込み、「分かりました」穏やかな声を返した。


「ありがとうございます。心に留め置いておきましょう」

「意味が分かったんですか?」

「安倍様は、わたくしよりも澪のことを理解しておいでですから」


 そんなことは無いと思うけど……。
 けれども去年の夏からずっと、晴明が澪と行動を共にしているのは事実。
 その間に、何か気付いたことがあったのかもしれない。
 晴明が触れるなと言うのなら、澪にとっては誰にも触れられたくないことなのだろう。少なくとも、今はまだ。

 乾臨閣を振り返る彩雪の肩を、源信が優しく叩いた。


「それでも、ここに来てくれましたから。参りましょうか」

「……はい」


 二人は並んで歩き出す。

 暫く歩いた先に、四人の少年少女と一人の男がいた。湖に浮かぶ島の丸池の縁にしゃがみ込んだ少女を残りの三人が囲い、男が側の大柳の下から見守っている。

 あ、あの丸池……。
 来る時にも気付いた丸池だ。
 以前迷い込んだ時には無かったように記憶しているそれは、源信曰く涌き水で生まれたもののようだ。
 その時源信も言っていたが、今も最初からそこに在ったかのような、奇妙な調和感を感じる。
 それなのに、周りの景色から自らを切り離すみたいに淡く不思議な輝きを放って見えるのが何とも神秘的だ。

 本当、何なのかなあの池……。
 足を止めて丸池をじっと見つめていると、三人のうち一人が大柳の方へ移動した。

 それが澪だと分かった途端彩雪は駆け出した。


「澪!」


 澪が足を止めこちらを向く。
 彩雪の後ろを見て僅かに表情が強張ったのは、気の所為ではないだろう。

 前に立った時には澪は柔らかく微笑み、深々と一礼した。腕の中にはすやすやと眠る真っ黒な鬼の子、小舟が。


「こんばんは」


 彩雪と源信に気付いた三人がこちらへ歩み寄って来る。
 金波、銀波、それから――――澪とうり二つの標だ。


「こんばんは。良かった。みんな、来てくれて」

「どーも」

「お久し振りです」


 銀波と金波も彼ららしい挨拶を返してくれる。

 標は澪の横にぴったりとくっついて、澪と同じ顔を好奇心でうずうずさせて彩雪を凝視している。


「私のこと、覚えてる?」

「うん。彩雪ちゃん!」

「わ、名前を覚えてくれてたんだね」

「あとね、仙人さまが『きょーいくにわるい』って言ってたのも覚えてるよ!」

「そ、それは忘れてくれると嬉しいかな!」


 途端に顔を真っ赤にする彩雪に、澪が小さく笑う。

 そんな澪の頭を、源信が優しく撫でた。
 はっとして顔を上げた澪に、


「お帰りなさい。澪。金波と銀波も」

「……お久し振りです。源信様」


 澪は微苦笑して、ちょっとだけこそばゆそうに返した。
 金波銀波も軽く会釈して返す。

 ちょっとだけ顔が強張った澪が場を誤魔化すように標を源信の前に立たせた。


「標。この方が、私達がお世話になった源信様。さあ、ご挨拶して」

「はぁい」


 標は大きく頷いて、源信に深々と……いや、ほぼ二つ折りになって頭を下げた。


「初めまして。標です。いご、よろしくおねがいします!」


 まるで覚えたての言葉を言う幼児のようにたどたどしく自己紹介をする標に、その場の皆の表情が綻ぶ。


「はい。初めまして。お姉さんからご紹介していただきました、源信と申します。よろしくお願いしますね」


 「それから」源信は大柳の下に佇んだままこちらを見守っている男に向き直り、彼にも頭を下げた。

 初めて見る人物だ。
 顔は、目と鼻の場所に丸い穴が空いているだけの木製の仮面に覆い隠されており、赤黒い狩衣の所為で不気味さが際立ってしまう。

 ちょっとだけ気後れしてしまった彩雪と違い、鷹揚に男に近付いた源信は口を開き、すぐに閉じた。


「源信さん?」

「失礼。あなたとは、初対面の気がしないもので」

「え?」

「ええ。初対面ではありませんよ」


 その方は獄卒鬼さんです。
 澪は男の隣に移動して紹介する。

 獄卒鬼は頷き一礼した。


「そうでしたか。確かに、初対面ではありませんね。お久し振りです。獄卒鬼殿。あの時は、本当にお世話になりました」

「……」


 獄卒鬼は話せないらしい。返事をする代わりにまた頭を下げた。

 彩雪はほっとした。


「驚いてしまってごめんなさい。わたしからも、あの時は本当にありがとうございました」


 ちゃんと無礼を謝罪すると、獄卒鬼は気にするなと言わんばかりに首を左右に振る。次いで、澪の肩をそっと叩き、一礼。

 多分、澪が世話になったと、そのお礼を言っているのだろうと彩雪は思って頭を下げ返した。


「何かさっきからやたらペコペコしてるよな、あんたら」

「お前には到底無理な常識の礼儀作法だ」

「そんくらい頭に入っとるわ!」


 金波と銀波のじゃれ合いも久し振りだ。
 彩雪が笑うと、二人は苦笑して肩をすくめた。



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