弐
澪の掌に、羽を休めるようにそっと降り立ったのは折り鶴だ。
丁寧に折られたなめらかな手触りの織神(おりがみ)。
久方振りに見た小さな式神からは、懐かしい気配が感じられる。
澪は目を細め、折り鶴をじっと見つめた。
懐かしい筈であるのに、心がざわつく。
この折り鶴に一時の命を芽吹かせたのは皇の息吹。
二度と関わることはないだろうと思っていた――――いいや、本来死人が関わってはならない、遠い遠い存在の吐息が、この折り鶴には宿っている。
この中に皇の言葉が在る。
私の手に停まったということは、私へも向けられた言葉。
恐らく源信達にも織神は皇の意思を伝えに飛んでいるだろう。
そうと分かっていても、澪の指は動かなかった。
「澪……開けないの?」
「……開けないといけませんね」
遠慮がちに言う彩雪に、澪は曖昧に笑った。
と、まるで澪の心の動きを察したかのように、折り鶴が微かに震え、ひとりでに我が身を開いていった。
そこには、美しい文字が綴られている。
『今宵、酉の正刻、神泉苑へ集え』
間違いなく、これは仕事寮に所属していた仕事人達へ届けられた皇の意思。
……その証拠に。
ひらり、ひらりと、彩雪の頭上を舞い降りてくる折り鶴が一羽。
「彩雪さん」
「あ……また折り鶴」
今度は彩雪の手に舞い降りた折り鶴は、彩雪の手によって開かれ、同じ文面が眼下に晒される。
彩雪は目を通し澪に視線を戻した。
「神泉苑に……だって」
彩雪は困惑している。
その理由について、澪は察しがついている。
今からほんの一月前、都に戻った晴明に一通の手紙が届けられた。
澪は黄泉へ報告に戻っていた為実際の文面は見ていないのだけれど、内容は仕事寮の無期限休止を知らせるものだったという。
彩雪達は理由を本人達に訊ねようとしたそうだが、それ以降和泉達の行方は分からないまま。
そんな折にこんな招待状が届いたのだから、困惑するのも仕方がない。
きっと、彼らも黄泉のことに気付いて……。
心の中にずっしり沈む重りが更に重量を増し、胃の辺りが苦しくなった。
新たな危機に周りが動いていく中で、澪だけが迷いの中に残りずっと停滞している。
このままでいけない。早く結論を出さなければ。
じりじりとひりつくような焦りが胸を焼く。
この招待状に従って神泉苑に向かえば――――。
「私は、これから黄泉に戻らなければならないので、彩雪さんは先に向かって下さい。用事を済ませましたら、私も神泉苑へ参りますから」
「……そっか。うん。分かった」
彩雪は心細そうに瞳を揺らして頷いた。
澪は彩雪に頭を下げ、足早に廃邸を後にした。逃げたと思われていなければ良いが。
嘘をついた罪悪感から、胸がちくちくと痛い。
後ろめたさが表に出ていないことを願いつつ、澪は雑踏に紛れたのだった。
‡‡‡
一条戻り橋を通りかかると、愛くるしい無邪気な声が聞こえた。
「澪姉ちゃーん!!」
姉を呼ぶ声に、暗く沈んでいた心が急浮上する。
込み上げる愛しさで笑みが零れた。
声のした方へ身体を向ければ、姉と瓜二つでいながら、姉と違い闇に染まらぬ無垢な笑顔が眩しい少女が全速力で駆け寄って来ている。
一旦小舟を地面に下ろし両手を広げた姉に、妹は感情をぶつけるように抱き着いた。
全力で飛び込んできた勢いを耐えるのは用意ではないが、そこは姉、すっかり慣れて踏ん張りも危なげない。
標は姉の腕の中で大きく息を吸うと、「澪姉ちゃんだぁ」嬉しそうに言った。
「小舟も元気だね〜」
澪から離れると腕を振りがら飛び跳ねて全身で喜びを示す小舟を抱き上げ、ぎゅううと抱き締め頬擦りした。
「澪様!」
遅れて、銀波と道満が早歩きに近付いて来る。
大方、澪を見つけた標が突然走り出し、慌てて追いかけてきたのだろう。
その証拠に澪の顔を見た途端二人のやや張り詰めた顔は同時に緩んだ。
旅の中で、色々と標が迷惑をかけてしまったんでしょうね。
思わず苦笑が滲む。
「澪様。兄貴は?」
「獄卒鬼さんと鍛練をしているわ。道満様、お久し振りです」
「ああ」
道満が正面に立ったのへ深く一礼すると、標が小舟を頭に乗せ、腕に抱き着いてきた。
「ねえねえ、あのね! どーまんさまからね、たくさん教えてもらったのー!」
「そうなの? どんなことを教えていただいたの?」
「えっとねー、雪がどうしてふるのかとか、どうしてお空に虹がかかるのか、とか!」
「まあ、そんな凄いことを教えてもらったのね。今度、お姉ちゃんにも教えてくれる?」
「うん! まだまだいっぱいあるんだよー」
「そう。楽しみだわ。それに、とても羨ましい」
標の輝く笑顔は、澪にとって最上の癒しである。
この子の純真さは絶対に私が守ると決めている。
この子を絶対に恐ろしい目に遭わせないと心に誓っている。
だのに――――私は標に比べればずっとずっと無力だ。
「道満様。標と銀波がお世話になっております」
「澪様。俺はこいつなんかの世話になってません」
銀波は不機嫌そうに訴える。
道満が彼を見下ろす。
その赤い瞳の柔らかさに、澪は少しだけ驚き、とても嬉しく思った。
道満の監視を澪と金波に任せるとの父の案に反対し、標と銀波をつけてもらったことは間違いではなかったのだ。
菊花様も、絶対にお喜びになるわ。
澪は確信した。
「そうなのですか? 道満様」
「ああ。大怨との戦いでは特にな」
「嫌味か! ほっとんどお前自分でやってたくせに!」
銀波の道満へ噛み付く姿は、何処となく子猫が親猫にじゃれつくようである。
澪が笑声を漏らすと銀波がはっとしてばつが悪そうに顔を背ける。
道満の赤い双眼が、また更に柔らかくなった。
それは澪へ向けられる。
「標も、さすがお前の妹というだけはある。教えればたちまち吸収してしまう賢い子だ」
「ありがとうございます。道満様にそう仰っていただけると、姉として鼻が高いです」
道満が手を伸ばす。
その硬くて大きな掌は澪の頭を優しく撫でた。
澪は目を細め、その感触に身を委ねた。
しかし。
「……話は聞いたか?」
躊躇いがちに零れ落ちた問いに、全身が凍りついた。
言葉ではなく緊張という形で返答した澪の心中を慮(おもんぱか)り、道満はそれ以上の返答は求めない。
代わりに、懐から取り出した物を彼女の視界にそっと入れた。
「それは……」
皇の織神である。
「オレのもとに届いた。酉の正刻に神泉苑へ来いと」
「あの方が、道満様にも……」
「お前にも?」
澪は頷いた。
「……では、やはりあの件に」
「恐らくは」
二人は沈黙した。
急に空気が重くなり、自然と銀波も難しい顔になる。
標と小舟が不思議そうに三人を順に見比べた。
彼女の表情に不安が差したのに気付いた澪が、笑顔を取り繕って話題を変えた。
「そうです。折角ですからこれから四人でゆっくり都を歩きませんか」
「……ああ。そうだな。金波が合流してから、我らは神泉苑へ向かおう」
道満は、優しく澪の背中を押す。
『我ら』と言って、澪を勇気付けようとしてくれている。
優しい道満に微笑みを返し、澪は途端に目を輝かせた妹の頭をそっと撫でた。
「美味しいもの食べれる!?」
「ええ。きっと」
「わーい!」
愛しさが込み上げて溢れ出る。
この子い笑顔は、絶対に壊させない。
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