「……今、何て言った?」


 ぴくりと片眉を動かした周瑜様の声が、一段と低い。
 穏やかだけど厳しい声音でもう一度同じ言葉を繰り返すよう促され、私はそれに従った。


「ですから、肺病の療養に良い土地をお医者様にお教えしていただき次第、心杏と共に柴桑を出ます。その為、周瑜様にはこの日を以て離縁していただきたいのです」


 深々と頭を下げる。

 ここは姉様の部屋。けれど姉様は、私達が戻ってきた時にはすでにいなかった。
 周瑜様から、姉様の子が泣き出して、どうやら空腹らしく授乳に向かったと聞いた。そう言えば、空き部屋にいた時、赤ちゃんの泣き声が聞こえていた。

 なので、ここにいるのは私と周瑜様、心杏の三人。

 後ろで心杏が申し訳なさそうに弱った声で周瑜様に謝罪した。


「あたし、止めたんだよ。離縁するのはまだやめときなよって……」

「でも、真実はどうであれ、世間的には夫以外の男を誑し込んだ女をこのまま妻にしておいてはいけないと思うんです」


 それに、何処になるかまだ分からないけれど、新しい住まいに移住した後、呉の総都督である周瑜様と顔を合わせる機会があるか分からない。

 なら今のうちに離縁して、それぞれで暮らしていった方が良いのではないだろうか。
 そもそも姉様達のような関係ではない。
 お互い、それなりに円滑にやっていける同居人程度の認識しか無かったろうから、未練も後腐れも無いだろう。

 周瑜様だってご自身のお立場は良く心得ているだろうから、悪い申し出ではない……筈。

 だのに、周瑜様は不機嫌になっている。


「アンタなぁ……」


 長い長い溜息をついて、周瑜様は舌打ちする。

「離縁は却下だ。オレも、アンタと行く」

「え?」


 予想外のことだった。
 私は驚いて周瑜様を凝視した。

 私達と行くと言うことは、移住する土地によっては柴桑に戻れない――――責任ある役目を自ら放棄することになる。
 まさか柴桑の近場になると思っているのか、それともその一帯に最適な場所があると知っているのか……。
 確認の意味も込めて、周瑜様を説得してみる。


「でも、療養の地が何処になるか分かりませんよ。柴桑に気軽に戻れる土地になるとは限らないんですし……」

「柴桑の近くは止めておいた方が良い。河で繋いだ交易が盛んな分、それを目当てに大勢の商人が街道を通って来る。商人の金品を狙って賊が住み着くことも多いから定期的に小隊も巡回してる」

「それでは、周瑜様のお役目に支障が出るのでは……」

「もうオレは都督じゃない。孫権の意向でまだ表には公表されていないが、引継ももう終わらせてある」


 アンタが心杏と一緒にオレの前に現れた時点ですでにいつでも呉を去れる状態だったんだ。
 周瑜様は肩をすくめて驚きの言葉を口にした。

 私は顎を落とし、少しの間静止してしまった。


「……え、ご、呉を去るって……どうして?」


 周瑜様は自分の胸を軽く握った拳で叩いて見せる。


「こんな身体だからな。元々、孫権がオレがいなくてもやっていけるまでになれば呉を出て行くつもりだった。アンタとは、その時に別れる予定だったんだけどな。それが、あの戦で早まった」


 心杏が不思議そうに口を挟む。


「じゃあ、ここで離縁しても別に構わないんじゃ……」

「◯◯が曹操のもとへ向かわなければ、予定通りそうなっていただろうか。だが、今のオレにはそういう気がさらさら無い。アンタと一緒に心杏の面倒を最後まで見る気でいるんだよ」

「周瑜様……」


 彼は、同じ荊州猫族として宿命を背負う心杏を心配して、偶然引き継ぎを終えていつでも出ていける状態に整っていたこともあって、心杏の面倒を見たいと思ってくれているのだと思う。
 どうせ一緒に暮らしていくのなら離縁しようがしまいが関係ないと、離縁の申し出を却下したみたいだ。

 「あの……」私が口を開くと、周瑜様は腰を上げて、


「心杏を何処で療養させるかは、オレが医者と相談しておくから、二人は今日一日大喬達と過ごしてな。ああ、あと、孫権達もこっちに来させるから、ちゃんと謝っておけよ」


 ややぞんざいに片手を振って、足早に部屋を出て行ってしまった。

 ややあって、姉様が戻ってくる。
 すやすやと眠る我が子を大事そうに抱え、寝台に腰を下ろした。


「周瑜様が部屋を出ていくのが見えたけれど……」


 不思議そうに扉を見やる姉様に、離縁を申し出てからの会話を話した。

 すると姉様も不機嫌になって、


「馬鹿ね、◯◯」


 突き放すように言われた。


「……どういうこと?」

「周瑜様が都督を辞したいと仰ったのは、戦が終わった直後、戦の後始末に着手したばかりの時だったわ。その後すぐにわたしや、お父様達にも謝罪して……曹操の手の者に殺された兵士の家にも行って謝罪したの」


 どうしてそうしたのか分かるか静かに問われた私は、隣に移動してきた心杏と顔を見合わせ、首を捻った。


「分からない」

「周瑜様はね、あなたが長江に身を投げたのは自分に責任があるとお思いなのよ」

「え……」


 驚いた。

 周瑜様は姉様に謝る際、もっと早くに私達を避難させていれば襲撃されることは無かった、誰にも諸葛亮との会話を聞かれないよう周りに注意しておけば小喬が曹操のもとへ行こうと考えなかったかもしれない――――そう言ったそうだ。


「自分達の部下は、甲冑に身を包んだ瞬間からいつ訪れるか分からない死を覚悟しているけれど、◯◯は戦とは無縁の守られるべき立場の存在で、突然、敵だらけの世界に飛び込んで心が耐えられる筈がない。そんな◯◯に、曹操のもとへ行くという考えを持たせてしまったのは自分の所為だと、あなたがいなくなってからずっと責任を感じておられるのよ」

「そんな……責任なんて、」


 周瑜様に責任は無い。

 私は彼らの話を気よりも前に、曹操が私達を欲していたことを知っていた。
 すでに曹操のもとへ行くことを考えていたのだ。
 私の行動に周瑜様は何ら関与していない。だから彼を責任を感じることは無いのだ。

 今更隠しておく必要も無いからと、それを姉様に話した。

 姉様は驚いていたようだけど、私達に良くしてくれた文官が案じて内へも警戒を促す為に私に話してくれたのだと言えば、申し訳なさそうに「そうだったの……」吐息を漏らした。


「……ごめんなさい。わたしも、色んな人に気を遣わせていたのね。あなたがあの場で曹操のもとへ行ってしまったのは、わたしのこともあったからなんて考えもしなかったわ。本当にごめんなさい」


 頭を下げる姉様の肩に手を置いて顔を上げさせた私は首を横に振って笑って見せた。


「姉様はあの時、母親として何よりも自分と子供のことだけを考えるべきだったの。私は私で、自分に出来るあの場での最善をしただけ。だから姉様と周瑜様が私にそうさせたんじゃないの。誰も責任を感じることなんて無い」


 これを、周瑜様にも伝えなければならない。

 だからと言って周瑜様が都督を辞めて引き継ぎも終了してしまった現状はもう変えられないし、彼が一度決めたことを覆すとも思えない。
 そもそも、言ってすぐにはいそうですかってならないだろうし……。

 でも、それでも、私が自分で決めた行動で周瑜様が責任を感じることは無い。
 私は心杏をもう一度見て、唇を引き結んだ。

 周瑜様と話すなら、早い方が良いと思った私は、思い立つのとほぼ同時に立ち上がった。


「姉様。私ちょっと、周瑜様と会ってきます。その間、心杏のことをお願いね」

「え? ◯◯? ちょっと、待ちなさい、◯◯!」

「心杏、私が戻るまで良い子にしててね」

「え、あ、う、うん……って、これから偉い人がお母さんに会いに来るんじゃ――――」


 不思議そうな顔の心杏の頭を撫でて、姉様の厳しい制止の言葉を聞かずに急いで部屋を出た。

 周瑜様が何処にいるか早足に進みながら考えて、多分お医者様の所ではないかと当たりをつけて走り出した。



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