陸―1





 虫食いだらけの地図が、目の前にある。
 それは私の中に在るもの。
 開いた穴には、私にとって大事な物が在った。

 その地図はどうしてこんなにも虫食いになってしまったのだろう。
 どんな虫が、地図を食らってしまったのだろう。

 この穴を埋めたい。
 埋めて、失った物を取り戻さなければ。

 地図が元通りになれば、きっと私は私として《彼女》のことを考えられる気がする――――。

 ……。

 ……。

 ……はて、《彼女》とは、誰だったか。

 私にとって大事な《子》。
 でも私が産んだ子ではない。

 名前は何だったかしら。
 思い出せない。
 思い出さなければ。
 あの子は、ずっと寂しい思いをしてきた子だから。

 早く、私に戻って、ちゃんと、話をしなければ――――。


『……◯◯』


 誰だろう。
 私を呼ぶ声がする。

 地図が震えた。


『◯◯……◯◯……◯◯……』


 その声は、女性だ。
 私に一番近い人。
 小さな頃からずっと一緒にいた人。

 戻らなければ。

 でもまだ取り戻していない。

 ……いいえ。

 いいえ。
 きっと大丈夫。
 目覚めればきっと、私は取り戻せる。

 大丈夫。

 大丈夫――――。



 目覚めよう。



『◯◯。心杏ちゃんのことは、私に任せてちょうだいね』



‡‡‡




 部屋には、私以外誰もいなかった。
 寝台の感触も、部屋に差し込む光も、調度品の影も、匂いも――――全てが懐かしい。

 心なし軽くなったように感じる身を起こし、


「私は、◯◯……」


 呟いて、確かめた。

 私は◯◯。
 喬玄の次女。

 寝台から降りて、寝衣のまま部屋を出る。
 心杏を捜しながら屋敷の中をゆっくりと歩いて回った。

 ここは、私が嫁いでから暮らしていた屋敷。
 客室を一つ一つ確認してみても、心杏はいない。
 姉様もいない。
 ひやりとしたけれど、周瑜様なら彼女を逃がさないでいてくれていると思ったから、彼の部屋も確認してきた。周瑜様も、いなかった。

 もう暫く屋敷の中を探し回って、しかし、やはり私以外、誰もいない。

 屋敷の中が駄目なら外――――庭にいるのかもしれない。
 中から見えた庭には誰もいなかったのだけれど、無理矢理に期待して、庭に出た。

 そうだ。二人を捜すついでに畑の様子も見ておこう。

 庭の畑は、きっと誰も手入れをしていないだろうから荒れていると思う。

 庭に出ると、冴えるように冷たい風に薄着を弄ばれ、鳥肌が立った。
 思わず自分の身体を抱き締めて腕をさする。

 遠く、麓の白んだ山の尾根から僅かに顔を出す朝日に目を細め、庭を見渡した。

 畑を見て、あっと声を漏らした。


「荒れてない……」


 私以外手入れをする人間がいる筈のない畑が、綺麗に整えられているのだ。
 ただ、育てていた野菜は枯れてしまったようだ。同じ野菜を同じ場所に植えてあるようだけれど、微妙にズレがある。


「周瑜様が? ……まさかね」


 でもこの屋敷は周瑜様と私以外の人の出入りはほぼ無かった。

 心杏と戻ってきた時にも、そんな話をしていた。
 もしかしてお城の女官に屋敷のことを頼んでいたのかしら。その女官が、この畑に気付いて、整えてくれた?

 まあ、何にせよ畑が荒れていないのはとても有り難いこと。

 庭にも二人の姿は無かった。
 もしかして周瑜様か姉様が心杏を外へ連れ出したのだろうか。
 まさか。心杏は倒れたばかりだ。外を出歩いて良い身体じゃない。

 じゃあ、皆は今何処に?

 考えながら、収穫出来る物を厨に運び入れ、食材の確認をする。同時に朝餉に必要な物を買おうと思い――――自分があまり大事に捉えていないことに気付いた。
 どうにかなる――――そんな考えが、頭の中を捜せば隅に隠れていた。
 どうしてそんな風に考えているんだろう。
 何かを忘れているような気がするけれど、思い出せない。

 忘れているものを思い出そうとしていると、厨に誰かが入ってきた。
 顔を上げて、あ、と声を漏らした。


「周瑜様」


 彼であった。

 入ってきた周瑜様は、私を見てほっと息を吐いた。


「……ここにいたのか」

「お帰りなさいませ。あの、心杏は何処に? 屋敷中捜しても見当たらないのです。姉様の姿も……」


 周瑜様は何か言いたそうに顔を歪めるも、何も言わずに溜息をついた。
 後頭部を掻きながら私の横に移動して、私の頭を小突いた。反射的に首をすくめた。


「心杏なら、大喬が妹の命の恩人だって城に連れて行ったよ。アンタがあいつの母親代わりをやってたって言ったら姪が出来たって喜んでいたから、城からは絶対に逃げ出せないだろうな」

「そうですか。姉様のもとにいるのでしたら安心ですね」

「今からアンタも城に行ってもらう。朝餉も、向こうでな」

「分かりました。では着替えて参ります」


 周瑜様に頭を下げて、脇を通過する。

 すると、


「◯◯」


 周瑜様に呼ばれた。
 足を止めて振り返ると、周瑜様は不愉快そうに顔を歪めた。


「どうかなさいましたか」

「◯◯って名前……曹操に呼ばせてたな。大喬も」

「◯◯は私の本名です。大喬小喬は、周りの方々が付けたあだ名のようなものです」


 周瑜様はまた更に不機嫌になった。


「まさか、自分から曹操に教えたのか?」


 私は頷いた。
 曹操の意図が分からなかった為、もう少し懐に入ってみたら見えてくるかと思って教えたのだ。結局、喜ばせるだけで、何の意味も無かったけれど。
 曹操の真意を探る為だったのだと話しても、周瑜様の不機嫌は直らなかった。


「曹操に教えて、オレには教えないのかよ」


 私は首を傾げた。


「……初めてお会いした時に、本名で名乗った筈ですけど」


 周瑜様は固まった。

 仮にも夫となる殿方に本名を教えないのは無礼だし、小喬を本名だと思われたくない私が本名を名乗らない訳がない。
 私は、ちゃんと周瑜様にも孫策様にも、本名で名乗った。姉もだ。

 この人は、それをすっかり忘れておられるようだ。

 ややあって気まずそうに顔を逸らし、小さく謝罪した。

 私は溜息一つ意趣返しに残し、足早に私室へ着替えに行った。



‡‡‡




 心杏は、姉様の手によって可愛く変身していた。
 慣れない化粧や丁寧に編み込まれた髪、高価な衣の感触に居心地が悪そうにもぞもぞと落ち着きがなかった彼女は、私が部屋に入って腰を下ろすなり飛び込むように私の隣へ移動した。

 抱きついてきた彼女の頭を撫でてやりながら、何か言いたげな姉様を遮って心杏に話しかけた。


「お早う、心杏。とても可愛くなったわね」

「……それ、何の嫌み」

「嫌みじゃないわよ。本当に、何処かのお姫様みたいだわ」


 心杏は恥ずかしがって、私の脇に顔を押し受けた。
 その様子が可愛らしくてつい笑ってしまった。

 そんな私を咎めるように、


「◯◯」


 姉様が、少し堅い声で私を呼んだ。

 彼女へ顔を向けると、悲しそうな、それでいて腹立たしそうに私を睨んでいる。

 私の後ろに立った周瑜様が、


「言うべきことがあるだろ?」


 私は頷き、姉様に深く頭を下げた。


「ごめんなさい。心配をかけてしまって」


 心杏が「違う」慌てて口を挟んだ。


「悪いのは◯◯さんじゃなくて……」


 姉様は首を横に振った。心杏に微笑みかけた。


「心杏ちゃんが◯◯を母親にしたことを怒っているのではないの。私が怒っているのは、独断で曹操のもとへ行って、連れ戻される際突然河に身を投げて死のうとしたことよ」


 そこで、姉様はまた私を呼ぶ。


「あなたの死を、皆が何と言っているか知っている?」

「曹操を籠絡して行軍を遅らせ、その償いとして身を投げたと聞いたわ」

「本当はどうなの?」

「疫病を罹患(りかん)したの。あのまま戻ったら呉軍に広めてしまうから、その前にと思って」


 姉様が目を細めた。ぴくりと右の目元が痙攣した。

 後ろで「そのくらいで……」周瑜様が溜息をつく。
 見上げると、頭に手を置かれた。


「疫病にかかったなら隔離して治療すれば良いだけの話だ」

「船の上で周瑜様や兵士に伝染ってしまったらそこから広がってしまうではありませんか」

「アンタが船の上で言ってくれていれば対処出来た」

「◯◯さんのあれは疫病じゃないよ」


 ただの風邪だった。
 心杏が申し訳なさそうに再び口を挟むのに、私はえっとなった。


「風邪だったの?」


 心杏は頷いた。

 風邪。
 疫病ではなかった。
 安心したようで、全くの無駄骨に思えて力が抜けるような心地だった。
 軽くふらついた身体を呆れ果てた周瑜様が屈んで支えてくれた。


「アンタは馬鹿なことをして、周りを悲しませただけだ」

「……ごめんなさい」


 ただの風邪を疫病と間違えたなんて情けないとは、思う。

 でも……あそこで身を投げたから心杏と出会ったのよね。

 心杏を見ると一瞬だけ視線が交差した。
 すぐに顔を逸らしてしまった心杏の頭を撫でる。

 彼女のことをどうするか、ちゃんと考えないと……。
 勿論、彼女を独りぼっちに戻すつもりはない。
 こんなにも小さいうちに死なせてしまいたくない。若すぎる死を、宿命だから仕方ないなんて、私には受け入れられない。

 私は姉様に視線を戻し、「相談があるのだけど」

 姉様は一瞬眉間に皺を寄せたけど、溜息をついて、


「何?」

「心杏をお医者様に診てもらいたいの。肺を患っていて、このままじゃ命の危険があるかもしれないって、周瑜様が……」


 周瑜様は知られたくないことだろうから、荊州猫族の宿命だとは伏せて、それだけを言う。

 姉様が軽く目を瞠った。周瑜様に視線で事実か問う。

 周瑜様は少し迷ったあと、頷いた。


「このまま放置すれば遅かれ早かれ……な」

「遅かれ早かれ……」


 姉様は息を呑み、心杏を凝視する。

 心杏は姉様の視線から逃げるように私の後ろに移動した。


「別に……それならそれで構わないし……」

「そんなことを言わないで。私は、あなたにもっと生きていて欲しいわ」


 頭を撫でると、迷った顔で私を見上げてくる。
 その金色の瞳に、縋るような、期待する色が揺れていた。
 心杏だって独りぼっちは嫌な筈。
 でなければ記憶を失った私を母親にしようなんて思わないでしょう。周瑜様に刃を向けたりもしなかったでしょう。


「姉様。こちらに常駐されているお医者様に相談だけでも出来ないかしら」

「分かったわ。この後すぐにでも尚香達に会って謝って欲しかったけれど、心杏ちゃんを診てもらうことが先決ね。侍女に言ってお医者様を呼んでもらうから、少し待っていて」

「ありがとう」


 荊州猫族が脈々と受け継いできた病、お医者様には治療することは難しいのだろうけれど、病状を軽くすることは出来るかもしれない。
 それが成功すれば周瑜様にも効果が望める。
 周瑜様を見上げると、呆れ顔がまだ諦めてないのかと言っている。

 私は大きく頷いて心杏を見下ろし、片手に拳を握った。

 周瑜様だけだったなら、彼の問題だからと深く干渉することは止めていただろう。
 だけど心杏は、死んでしまうにはあまりに若すぎる。この子にはもっと生きていて欲しい。



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