肆―1


※名前変換ありません。



 心杏が倒れて、私は何も出来なかった。
 私は心杏の母親なのに、心杏を抱き上げて柴桑のご自宅へ運ぶ周瑜様に必死についていくしか無かった。

 ずっと不安で一杯だった。
 このまま心杏が死んでしまったらどうしよう。
 私、心杏の母親なのに、なんて無力なの。
 不甲斐なさも重なり、泣きそうだった私を、周瑜様は泣いている場合ではないと一喝した。

 心杏に刺された傷は浅くはないだろうに、時折呻いたりよろめいたりしながらも、周瑜様はご自身の部屋の寝台に心杏を寝かせ、処置をした。
 私は、心杏に口をすすがせる為の水や、枕を高くする為に幾つか平坦に並べた竹簡を布で巻いたりしたりなど、周瑜様の指示て動くしか出来なかった。

 本当に、情けない――――。

 ようやっと落ち着き、青い顔で眠る娘の横で、私の意識は自己嫌悪の沼に埋没していく。何度も何度も溜息が漏れた。

 周瑜様は傷の手当てをしてくると言って、今は小喬さんが使っていた部屋にいる。
 心杏が刺したのだからお詫びとして私も手当てを手伝うと申し出たのだけれど、心杏から片時も目を離すなと断られてしまった。

 時折掠れた声を漏らす心杏を注意深く看病しながら、私はふと心杏の頬に手を当てた。


「ごめんね……心杏」


 駄目な母親で、ごめんね。
 起こさぬよう小さな声で謝る。

 けれど、頭の片隅で周瑜様の言葉が蘇る。



『純血の猫族は皆金の瞳を持つ。黒い瞳の猫族は――――混血なんだ』



「私は、混血……でも、心杏は純血――――」


 それが本当なら、確かに私と心杏は親子では有り得ない。
 私の年齢のように、うっかり間違えてしまった、なんて通用しない証拠だ。


『心に空いた穴を埋めようとして、たまたま見つけた記憶喪失の他人に自分の親だと吹き込むのも有り得ないことじゃない』


 本当に、そうなの?
 心杏は私の娘ではない?
 希春憲でないのなら、私は、一体誰なの?

 周瑜様の言う通り、小喬さんが私なの?
 周瑜様や小喬さんの名前に引っ掛かったのも、周瑜様の姿を見た瞬間胸が痛んだのも、目の色を個人差と言ったことに違和感を覚えたのも……私が、小喬、さん……だから?

 周瑜様の部屋を見渡す。とても綺麗に整頓されている。
 なのに、何だか――――胸の奥が、焦れったくてむず痒くなる。

 これって、一体何なの――――。
 考えても考えても、記憶は戻らない。
 私が誰なのか分からない。

 胸が、ざわつく。

 その時だ。


「……か、さん……」

「! 心杏?」


 目が覚めたのかと顔を覗き込む。
 薄目を開けている。焦点の定まらない金の瞳が、揺れているのが辛うじて見える。

 どうやら、覚醒しきれていない、夢うつつの状態らしかった。


「おかあさん……」

「なあに?」


 舌足らずに呼ばれ、私は額から頭をそうっと撫でる。


「おかあさん……いかないで……」


 あたしをおいて、おとうさんのところにいかないで。
 掠れた声で、懇願する。

 お父さんのところに――――《逝》かないで。

 心杏の父親は、亡くなっている。そう、心杏本人が教えてくれた。
 それは多分、本当のこと。

 彼女の『いかないで』は、そういう意味なのだと、私は察してしまった。


「嗚呼……」


 私は心杏から手を離した。

 本当の春憲さんは、亡くなっているのね。
 いかないで、いかないで、と繰り返していた心杏は、目を閉じ、再び眠り込む。


「ずっと、独りで寂しかったのね……甘えられなくて辛かったのね……」


 独りぼっちに耐えきれなくて、私をお母さんにしたかったのね。
 周瑜様の言う通り、私はあなたのお母さんではなかったのね。

 なら、私は、誰なのだろう。
 希春憲ではなくなった。
 名前が、無くなった。

 私と言う存在が、分からなくなった。


「私は、誰……」


 呟いた途端、まるで心臓を大きな手でゆっくりと握られるように、胸が苦しくなった。
 周瑜様の言葉が本当なら、私の感覚が確かなら、私は、小喬さんなのかもしれない。

 でも――――私には記憶が無い。
 記憶が戻っていない状態で、私が小喬さんだったのだと、言えない。自信が持てない。

 昔の記憶が欲しい。
 希春憲じゃない、小喬さんかも分からない――――暗闇に放り込まれたような状況に差し込む光が欲しい。

 両手で顔を覆い、息を吸う。
 いつの間にか、心臓の鼓動は早く、耳元に移動したみたいに大きい。
 目頭が熱く、痛む。

 ややあって、掌に熱い水が触れた。

 手を離す。
 見下ろした掌へ一つ二つ、水滴が落ちた。


「……泣いてる」


 私、泣いている。

 馬鹿ね。
 泣いたって記憶は戻らないのに。

 袖で涙を拭い、深呼吸を繰り返して落ち着かせる。

 明日、心杏の容態が悪くなければ、小喬さんの部屋に行ってみよう。
 私なりに、思い出す努力をしようと、思った。

 そうして――――。

 その上で、心杏とのことも考えなければ。
 彼女を見つめ、一人拳を握った。

 まだ、胸は苦しい。



‡‡‡




「心杏の容態はどうだ」


 周瑜様が部屋に入ってくる。新しい服に着替えていた。

 心杏をじっと見つめる周瑜様に今のところ苦しむ素振りも無いことを伝えれば、彼はほっとして私を見、軽く目を瞠った。

 私の前にしゃがみ込み、目元を親指で撫でた。


「……泣いていたのか?」

「……」


 視線を逸らしてしまう。


「大した理由ではないのです。ただ……私が誰なのか、分からなくなってしまって……」

「アンタは小喬だ。間違い無く」


 私の肩を掴んで、言い聞かせるように彼は言う。
 周瑜様は、私が小喬さんだと疑っていない。

 でも――――。


「……記憶が無い今は、そう言われても自信が持てないんです。私自身に、そうだと思える証拠が無いから」

「心杏との旅の中で、何一つ思い出せていないのか?」


 首を左右に振ってみせる。

 「そうか……」周瑜様は私の頭を撫でた。


「ごめんなさい……」

「いや、良いんだ。無理に思い出させてアンタに負担をかけたくないし、倒れたばかりの心杏をあまり追い詰めたくもない」

「心杏に刺されたこと、怒っておられないのですか」


 刺された脇腹を見下ろせば、「気にしてないさ」周瑜様はそこを押さえて笑う。


「アイツの気持ちも、分からないでもないからな」

「え?」


 周瑜様は私を見上げ、私の頬を撫でた。


「荊州猫族の宿命なんだよ」

「宿命……」

「荊州猫族には特有の疾患がある。疾患の所為で、オレ達は長くは生きられない。短命種なんだ」


 私は目を剥いた。

 短命種。
 荊州猫族特有の疾患。

 長くは、生きられない――――。


「そんな」


 私は、心杏を見る。


「じゃあ、あの子も?」

「発育が良くないのもあってか、オレの時よりも発症が早いらしい……このままでは、」


 周瑜様は躊躇い、言葉を止める。
 それが、結論を言っているようなものだ。


「どうにか治せないのですかっ? 心杏はまだ子供なのに!」


 それはあまりに惨い。
 私は傷のことを忘れて周瑜様の上腕を掴んで揺さぶった。呻くのにはっとして、止める。


「あ……ごめんなさ、」

「どうにか治せるなら、オレ自身すでに治してるさ」


 その声の重さが、荊州猫族の宿命の重みのように私には思えた。
 私は手を離し、視線を落とした。


「……ごめんなさい」


 周瑜様は、私をそっと抱き締めた。


「ごめんな」


 荊州猫族の宿命に苦しんでいるのは、周瑜様も同じ。きっと心杏のように、短命種であるが為に親とも早くに死に別れてしまったのかもしれない。『気持ちも分からないではない』――――だから、そう言ったのかも。
 私では推し量れない、どうしようもない苦悩を抱えている彼に謝らせたことを、凄く、申し訳なく思った。後悔した。

 私は、彼らの苦しみを分かってあげられないし、役にも立てない。
 私にお医者様程でなくとも、医学の知識があれば、症状を軽くすることくらいは出来たかもしれないのに――――。
 そう考えた瞬間。

 私の頭を、何かが貫いた。
 のめり倒れたのを周瑜様が慌てて支えてくれる。


「小喬!? 大丈夫かっ?」

「あ……」


 視界がぐらぐらしている。
 頭を押さえ、瞼を閉じて視界を塞いだ。

 すると、頭の中に浮かんでくる、光景。

 細い道を歩いている。
 迷う様子も無く、すれ違う人々に会釈しながら、私は何処かを目指している。
 到着したのは小さな民家。
 中に入ると、穏やかそうな老人がいる。

 老人と私は、何かを話をしている。私が老人へ相談をしているようだ。

 歩いている時からずっと、音が無い。匂いも無い。感触も無い。温度が無い。
 まるで誰かの視界だけを覗いているように、視覚以外の実感が無かった。

 老人は、お医者様のようだ。
 難しい顔をして私に何かを言いながら、薬を手渡している。

 私はお医者様に深々と頭を下げて、外に出た。

――――そこで、光景は止まった。
 ゆっくり目を開けると、逼迫(ひっぱく)した面持ちの周瑜様が私の顔を覗き込んでいる。


「あ……」

「大丈夫か?」

「……ごめんなさい。今、何か思い出せたような気がして」

「何を思い出した」

「正確なことは分かりません……ただ、お医者様に相談をしに行って、何か、薬を処方していただいたみたいで……」


 あれは、何の薬だったのだろう。私、体調を崩してた?
 それだけでも分かれば、記憶を取り戻す糸口になりそうなものだけど……。
 周瑜様は先程見た光景を思い出し、何とか情報を得ようと私を抱き上げ、心杏の横に下ろした。


「アンタも寝てろ」

「でも今……」

「オレに、少し心当たりがある。明日、案内してやるから」

「でもお怪我を」


 身を起こすと、苦笑混じりに肩を押された。


「良いから、寝てろって」


 子供をあやすようにぽんぽんと頭を撫でられた。



‡‡‡




 一人丸まって過ごす夜はとても寒かった。
 でも、一人ではないのに今はもっともっと寒い。

 心杏は上体を起こし、すぐ横を見下ろした。

 そこには、混血の女性が横たわっている。
 目元を赤くして、不安そうに眠っている彼女は、自分とは似ても似つかない。


 お母さんよりも、とても綺麗で若くて、健康な人――――。


 心杏の母親は、若くして病を罹患した。
 病を理由に猫族の祖劉光について行かず荊州に残った猫族が、子孫を残していく課程で血が濃くなるにつれ著しくなっていった病――――。



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