弐―1
目の前に綺麗な、とても冷たい美貌の男が座っている。
彼が、奸雄曹操……。
思っていたよりも若い。
そして、何処か寂しい人だ。
不安に怯える自身を必死に奮い立たせ、私は平静を装って曹操を真っ直ぐ見据えた。
大丈夫……大丈夫。
脳裏に、腹の膨らみを愛おしげに撫でる姉の姿を思い浮かべる。
私がここにいるのは、姉様と、姉様の家族の為。
出来る限り、私が時間を稼がなければ――――。
腹に、力を込める。
‡‡‡
猫族との同盟を、曹操と戦うことを呉は決めた。
そこには多分、姉様を守るという孫権様の優しさもあるだろう。
それでも、曹操の軍勢は遥かに多く、かつ精強。水上戦ではこちらに利があろうと、勝てる見込みは僅か。
加えて斥候の話では曹操軍の歩みは異様に速く、こちらが陸口を押さえる前に河を渡ってくるだろうとのこと。
河を渡って陸戦に持ち込まれては圧倒的に不利。
周瑜様も、猫族の軍師諸葛亮様も、曹操軍の行軍の速さには戸惑っているようだった。
たまたま通りかかった廊下の曲がり角で、お二人が話しているのを立ち聞きしてしまった。
「時間が足りない。今から先発隊に押さえさせても、準備が不十分だ」
「しかし、陸上の戦いとなれば我らが勝つ見込みは無いぞ。今用意出来る限りを駆使して当たらねばなるまい。ここまでの速度で行軍させているのならば、当然将兵も疲弊している。更に南の気候に対応出来ずに体調を崩す者も少なくないだろう。じきに兵士の中で疫病が流行るやもしれん」
「それに賭けるのも手だが、不確かだな。もっと確実な策を講じなければ、うちの反対派は納得してはくれないぜ」
二人は暫く、沈黙した。
周瑜様が、舌打ちした。
「しかし、何だって急に速度を上げたんだ……」
「斥候の報告では、行軍が速まったのは曹操の耳に二喬のことが入ってからだったな。本当に、曹操と面識は無いのか?」
「喬公にも確認を取った。大喬も小喬も、オレ達に嫁ぐまで故郷の村を出たことが無い。勿論喬公自身にも曹操との交流は無かった。そんな存在の為に、将兵を疲弊させてまで急ぐような男じゃないだろ」
「では、理由は他にあると?」
「評判通りの奸雄なら、そうだろうとオレは考えている。……とはいえ、一応二喬には里帰りさせると孫権に話してはある。体調が思わしくない状態で、今のこの城に置いておくと、腹の中の子供にも悪影響が出るだろうからな」
時間が、無い……。
不意に頭の中に一つの案が浮かんだ。
私だけでも曹操のもとに行けば、曹操を説き伏せることは無理でも、多少の時間稼ぎくらいにはなるのでは?
曹操の強行軍により、連合軍は準備が万全ではない。万全なら、勝てる可能性は高まる。
曹操を負かすことが出来れば、姉様も姉様の子供も助かる……。
私は静かにその場を離れた。
姉様の部屋に戻って、薬を飲んで眠る姉様の側で思案に耽(ふけ)る。
けど、その日のうちに周瑜様から戦が終わるまで安全な実家に戻っているように言われ、日の出と共に出立しろと指示され慌ただしく準備をさせられた。
曹操から逃れる為だと分かっていたけれど知らないフリをして、ただただ戸惑って見せた。実際、すぐに発てと言われるとは思っていなかったし。
そういうことは前もって言って欲しい、まだ体調が回復していない姉様の身体を考えて欲しいと頼み込んだけれど、周瑜様は謝罪してはくれるけど延期しては下さらなかった。
その強固な態度から、姉様が不穏なモノを察してしまって、急な帰省を姉様からは一切何も訊かずに受け入れてしまった。
そうなると、私にはもう何も言えなくて。
周瑜様の謝罪を無視することで最後まで抗議し、数人の護衛に守られて柴桑を発った。
姉様の乗る馬車をなるべく揺らさないように、馬の歩みはゆっくりだ。
馬車の中には私と姉様のみ。侍女も連れて行くとお父様達に迷惑になってしまうだろうから、姉妹二人だけ。
嫁ぐ時も、同じ馬車に、今みたいに向かい合わせに座って揺られていた。ああ、でも、揺れはこんなにも落ち着いてなかったかしら。
「姉様。本当に、大丈夫なの?」
「大丈夫よ。たまたまだろうけど、今日は体調が良かったの。明日からは分からないし、柴桑を離れるなら今が良いと思って」
首を傾けて、姉様は微笑む。
「それに、周瑜様の中でわたし達は懸念材料みたいだから」
姉様の言葉にちょっとだけどきっとした。
「……懸念? 懸念って、何」
「分からないわ。わたし達みたいな何の才も無い女が知る必要は無いのよ」
「……でも、訳も知らないまま帰されるって、私は納得出来ない」
「女が政治を知っても無駄なこと。国の大事は男の領分。わたし達が口出しすべきことではないわ」
姉様の言葉は、諭すように優しい。
その微笑を見て、曹操が私達を欲していると言っても言わなくても、彼女は変わらなかっただろうと知った。
国が自分達を差し出そうとも、姉様はきっと黙って従う。
でも、子供を殺されるとなったら?
姉様が愛しているのは孫策様ただ一人。孫策の忘れ形見を殺されて、姉様は耐えられる? 耐え続けて、曹操の妻として尽くしていけるの?
私は、俯いた。
膝の上に載せた拳は白く、無意識に力を込めていたらしい。開いた掌には爪の跡がくっきりと残っている。
「周瑜様達なら、大丈夫よ」
信じましょう。
姉様は穏やかに言う。
私は、頷くしか無かった。
――――その時だ。
『何者だ!?』
護衛の一人が怒声を上げた。
直後。
『ぎゃああっ!!』
悲鳴。
私は姉様に中にいるように言って馬車から飛び出した。
「待ちなさい、◯◯!」
「どうしたのです!?」
扉をすぐに閉めて、護衛達を見る。
言葉を失った。
私達に付けられた護衛は周瑜様の麾下(きか)五人。
うち一人が地面に伏していた。
真っ赤な血溜まりの真ん中に――――。
手で口を覆い一歩退がった。私の前に残りの護衛が剣を構えて盾になる。
その向こうに、一人の男性が立っていた。
中性的な美貌を持った、金の髪のたおやかな男性だ。穏やかな微笑みに、一瞬だけ見とれてしまう。
けど、その手には、見たことも無い特殊な形状の剣が握られている。紐で繋がれた複数の刃には、真っ赤な血が。
彼が、護衛を殺したの?
こんな優しげな風貌で?
「おのれ……! 貴様、曹操の手の者か!?」
「はい。二喬を連れてくるように、申しつけられました。そちらは、大喬さんでしょうか、それとも小喬さんでしょうか」
「わ、私は……」
「お二人共、お逃げ下さい! ここは私共が――――うわあぁっ」
「あ……っ」
斬りかかった護衛が、たった一撃で倒れた。
深く斬られた首筋から脈に合わせて血を噴き出し、私に逃げろと言う。
護衛達の誰も、彼らに敵うまい。
そんな男性から、私が姉様を連れて逃げられるとは思えなかった。
護衛達はそれでも私達に逃げろと言う。身を挺(てい)して私達を守ろうとしてくれる。
私は地面に倒れ伏す二人の護衛を見下ろし、残った三人を見た。
そして馬車を見上げ――――頷いた。
「そこを退きなさい」
「な……っ何をなさるおつもりですか奥様!」
護衛達の間を割って前に出る。
「剣を下ろしなさい」
「何故!」
彼らを睨んで黙らせ、言う通りにさせる。
私は男性に対峙して頭を下げた。
深呼吸をして、口を開く。
「私は小喬。あなたの仰る二喬の妹の方です。私と姉にご用のようですね。お聞きしましょう」
「私は張遼と申します。曹操殿が、是非お二人を妻にお迎えしたいと」
「おかしなことを仰るのですね。姉は亡き孫策様の妻として操を守り続ける覚悟ですし、私は呉の都督周瑜様の妻ですよ。その上で、私達を娶ると?」
「曹操殿は、そのように仰っております」
その曹操を、誰も諫めなかったのだろうか。
それが気にならない程、曹操が主として優れた男なのだろうか。
私は絶命した護衛二人を見下ろした。
また、深呼吸をする。
目を伏せて腹に力を込めた。
「……分かりました。この小喬が、参りましょう」
「奥様!」
「何を仰るのです!」
護衛達を振り返り、小声で「大丈夫です」無理矢理に微笑んで見せた。
「姉はお腹に子がいて現在体調も思わしくありません。加えてあなたは我が夫の麾下の方を二人も殺めました。このような酷い仕打ちを目の当たりにして、そちらの要求を全て呑む程魯鈍なつもりはありません。あなたが二人を殺めた代償として、曹操殿のもとへ行くのは私のみ。それでよろしいですね?」
怖くてたまらない。
恐怖を必死に圧し殺して毅然として張遼の答えを待つ。
張遼は自分が殺めた兵士を見、
「分かりました。参りましょう」
微笑み、手を差し出してくる。
私は護衛達に近寄り姉のことを頼むついでに、小声で伝えた。
「私が向こうで出来るだけ時間を稼ぎます。必ずこの戦に勝って姉様と姉様の子を守り抜いて下さい」
彼らは一様に顎を落として私を凝視する。何故それを、と言いたげな彼らに、
「隠して下さっていたのに申し訳ございません。偶然、聞いてしまいました」
と囁いて、張遼の手を取らずに早足に横を通過した。
姉様に挨拶をしておくべきだと思ったけれど、そうすると逃げ出したくなるから姉様には何も言わずに、馬車を急いで離れた。
大丈夫。
大丈夫。
時間を稼ぐくらいなら出来る筈。
私は、そこまで頭は悪くはない。
拳を強く握り締め、私は呉を離れた。
‡‡‡
私が曹操のもとに到着した時には、烏林まで僅か一日二日程というところ。
曹操はすぐに野営を命じ、急ぎ設けた幕舎に家臣を集め、私に面会した。
周りの目は酷く冷たい。
この中で表面上私に対して態度が柔らかいのは、曹操と、張遼だけ。
故郷を出る前に分かっていたこと。
猫族に対して友好的な人間の方が珍しい。
わざわざ用意された座椅子に腰掛け私は背筋を伸ばして曹操をじっと見据える。
曹操は、微笑む。
その眼差しの優しさに、戸惑った。
「小喬殿。手荒い招待で申し訳なかった」
「……そのように思われるのでしたら、私達のことなど捨て置いていただきとうございました。混血の女など汚らしい存在でしょうに。それを妻になどと、ご自身の名に泥がつくのでは?」
突っ慳貪に言って、不安と恐怖を押し隠す。
曹操は鼻で一笑する。
「今となっては、我が名に多少の汚れが付こうとどうでも良い」
「さようでございますか。その程度の傷などものともしない立派なお名前ですのね。では、私如き妻としては分不相応でしょう。私を娶るなどはお止しになった方がよろしいかと存じます」
弱い女と、容易くどうにでも出来る程度の存在だと思われてはならない。
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