壱―1





 呉の小覇王と称される孫策様は、奇特なお方だった。

 姉様を見初めて妻にと乞い、私にも周瑜様の妻になるよう強く勧めてきたのだ。
 周瑜様は、猫族。人間社会で暮らしている猫族だ。女性にはとてもだらしないけれど、締めるべき場所ではそれが嘘のようにとても真摯に対応する。

 孫策様が私を周瑜様の妻にと勧めるのは、まあ理解出来る。
 けれども孫策様自身が姉様に惚れ込んで熱烈に求婚しているのが、そのついでに私が周瑜様の嫁にならないかと言われているのが、私には信じられなかった。

 私達姉妹は猫族と人間の混血。
 父が人間、母が幽州から逃れてきた猫族で、金色の目の母と違い、私達は黒目。でも耳は母と同じぴんと立った猫のそれだ。
 父が喬玄と言う名前だからか、周りからは姉妹で大喬、小喬なんてあだ名――――皆は愛称だと言うけれど――――をつけられて、本名で呼ばれることはほぼ無い。
 姉様はお父様の娘だと周りの皆が認めてくれているようで良いじゃない、なんて喜んでいるけれど、それならお父様が名付けて下さった名前◯◯で呼んでもらった方が良いと、私は思う。

 猫族は大昔に漢王朝を脅かした大妖金眼の子孫として、十二支に入らなかった猫――――『十三支』と呼ばれ蔑まれている種族だ。
 お母様も厳しい差別に耐えきれなくなって南へ逃げ、お父様に助けられた。

 お母様や私達が皆に受け入れられたのは、偏(ひとえ)にお父様の人徳故。
 住み慣れた土地を離れれば、たちまち偏見の的になるのは私達も分かっていた。

 だから姉様も私も孫策様に何度乞われても猫族の世の扱いを理由に断り続けた。

 けれど孫策様は諦めることが全く無くて。
 何日も何日も通い続け、とうとう姉様を折れさせた。種族を気にして心を抑えるような器用なことは自分には出来ないと、必ず自分が二人に不便な思いはさせないからと、懸命に求婚してくる孫策様に、いつの間にか姉様も惚れてしまっていたらしい。

 私はと言えば、孫策様に無理矢理に連れてこられた周瑜様と二人きりで話す機会は何度かあったが、女性に対して歯の浮く科白を軽々しく言える彼がどうにも苦手で、正直この人に嫁ぐのは……とあまり良い感情は持っていなかった。

 だが姉様が受け入れたことで私も周瑜様に嫁がなければならない流れに周りがなってしまって、周瑜様も私の気持ちには気付いているだろうに嫌がる素振りを見せないものだから、結局二人揃って嫁いでしまった。

 強く拒んでいれば私だけは嫁がずに済んだのかもしれない。
 でも、自分が母親であるばかりに娘が二人共一生幸せになれないのではないか不安があったお母様が泣いて喜ぶのを見てしまったら、とても嫌だと言えなかった。

 私は、さすがに親不孝になってまで自分の気持ちは優先出来ない。



‡‡‡




「ああ、今日も雨……」


 部屋の中からしとしとと雨が降る庭を眺め、私は溜息をついた。

 雨が降ってもう三日。
 昨日までは土砂降りだったのが今朝は小雨になっていて、今少し雨足が強まった。
 明日も雨なのだろうか。
 溜息が出てしまう。

 これじゃあいつまで経っても洗濯物が乾かない。
 周瑜様の召し物が無いのがせめてもの救いか……。

 姉妹で嫁いで五ヶ月になる。

 孫策様と姉様は、とても上手くいっている。
 猫族に対して偏見のある家臣や女官も少なくなかったけれど、孫策様のご家族にも懐かれていたのが幸いして直接嫌がらせをするような人間はいないようだ。
 順調に、第一子を妊娠している。

 反対に私は、最初から夫婦としての形を為していない。
 周瑜様は基本的に城に入り浸ったり街中で女の子達と愛を語らったりしているので、屋敷にはいないことの方が多い。
 周瑜様にとって私の存在はとても煩わしいだろう。
 それでも一応気を遣っているみたいで、屋敷に帰ってくると私へお菓子を持ってきたり、街で最近あった出来事や姉様の様子をちょっとの時間に話してくれたりする。

 夫婦になってから歯の浮く科白は無くなった。
 私との会話では言葉を選んで話しているように感じられる。
 私の存在は煩わしいが私と険悪になって孫策様と姉様の関係に迷惑がかからないようにそうしているんだと思う。

 何もそこまで……と思うものの、恥ずかしくて不快な甘ったるい言葉を聞かなくなって有り難いと感じているのもまた事実。
 お陰で前よりは楽に周瑜様と話が出来るようになった。

 すると、意外に見えてくるものもあるもので。
 孫策様の弟の孫権様や妹の尚香様の話題になると、顔も声もとても柔らかくなるのだ。

 まるで自分の家族みたいに話す周瑜様を、何となく可愛らしいと最近は思えるようになっている。

 だからといって、この殺伐とした関係が前向きに変わることは無いけれども。

 ここ旬日、周瑜様は帰ってきていない。
 五日前買い物に出た時に、新しい女の子の肩を抱いて街中を歩いているのを見かけたきりだ。折角の逢瀬の途中に目が合ったのは、ちょっと申し訳なかったな。

 その時のことを思い出しながら、私は部屋を出る。
 掃除は昨日一昨日と時間をたっぷり使って隅々まで徹底的にしたし、洗濯物は乾かず溜まっていく一方。
 自分しか食べない料理を下準備から凝っても仕方がない。
 裁縫もこの間修繕すべき物は全て繕ってしまったから今のところ必要無い。

 やることと言えば……。


「……畑、大丈夫かしら」


 周瑜様にちゃんと許可を取って、建物で死角になっている敷地の隅に畑を作っていた。
 酷い土砂降りだった二日間外に出られずに放置していた畑を確かめるくらい。

 雨の中外に出て身体を冷やすのは駄目なのは分かっている。
 でも一度気になってしまうと確かめたくなる。
 この程度の雨なのだし、ちょっと確認してすぐに戻れば問題は無いだろうと、汚れても構わない古着に着替えて中庭に飛び出――――そうとした。

 出来なかった。

 周瑜様がずぶ濡れで帰ってきてしまったから。
 玄関でかち合ってしまい、反射的に数歩後退した。


「小喬」

「お帰りなさいませ、周瑜様」

「ああ。今から掃除か?」


 別に畑を見に行くくらい何の問題も無いのに、何故か私は頷いてしまった。


「こんな天気じゃ洗濯物は乾かないし、掃除以外に時間が潰せなくて」


 ふうん、と私をじっと見てくる。
 ……古着なのが、バレてるみたいだ。


「見苦しい姿で申し訳ありません。着替え――――る前にお召し物をご用意致しますね」

「いや、自分でやる」

「分かりました」


 周瑜様に一礼して自分の部屋へ退がる。

 しかし、驚いた。
 周瑜様の帰りはいつも私が食事を終えて片付けを終えた後だ。
 外で食事を済ませて帰ってくるから、そのまま他愛ない話を少しして各々自室で就寝するのが、周瑜様が帰ってきた時のお決まりの流れ。
 それが今日、雨雲で見えないけど多分日が天頂に昇りきっていない時間に帰ってきた。

 一体、どういう風の吹き回しだろう。
 雨なのだから無理に帰ってくる必要も理由も無いと思うのだけど……。


「……これから出かけるつもりなのかしら」


 だから、一旦帰ってきたとか?
 着替えを済ませ、取り敢えず今後の予定を確認しようと周瑜様の部屋へ向かった。

 周瑜様の部屋は私とは正反対の場所にある。
 ついでに白湯でもと厨に寄って、冷めぬよう足早に薄暗い廊下を歩いた。火を灯しておけば良かったと、歩きながら少し後悔した。

 部屋まであと数歩となって、部屋の中から咳き込むような音が聞こえてきた。痰が絡んだような、湿った咳だ。

 まさか体調を崩されてお帰りに?
 私は扉の前に立って中へそっと声を掛けた。


「周瑜様。如何なさいました」

『っ……何、でもない。何か用か?』


 何か詰まらせたような、苦しげな声だ。
 私は不穏なものを感じて、一言謝って中へ入った。

 そして、白湯を盆ごと床に落としてしまった。

 周瑜様は私から見て右向きにうずくまっていた。口を押さえて、金色の目を真ん丸に見開いて私を凝視している。
 その手は、真っ赤に濡れていた。

 ぞっとした。
 喀血(かっけつ)――――。
 私はすぐに周瑜様の身体を起こした。
 が、腕に払い退けられて尻餅をつく。


「周瑜さ、」

「オレことは良いから出て行け!!」


 怒鳴った直後、周瑜様はまた激しく咳き込んだ。

 これで放っておける程、私は非情な女のつもりはない。
 私は部屋を飛び出し厨から桶と水を注いだ盃を持ち急いで戻った。

 周瑜様はまだうずくまっている。咳は収まったようだが、依然苦しそうだ。

 こういう時は確か、頭を高くして寝かせて――――ああその前に口の中の血を全部吐き出させないといけないのだったわ!
 周瑜様の横に座り、顎の下に桶を差し出した。


「周瑜様、この中に口の中に残ってる血を全部吐き出して下さい」


 しかし周瑜様は腕で押し退けて私を拒む。

 気持ちは分かる。
 疎ましいだけの女に助けられるのは嫌だろう。

 でもだからといって、仮にも夫となった男性がこんな状態になっていて、無視出来ると思う? 出来ないに決まっている。

 私は努めて穏やかに言う通りにするよう周瑜様を説得した。

 だけどやっぱり駄目。周瑜様は頑なだ。
 私も焦りと思い通りにならないもどかしさで苛立ちが募り、乱暴に払い退けられた桶が私の右の目尻を掠った瞬間、頭の中で何かがぷつんと切れた。


「……ああ、もう!!」


 声を荒げて水を少しだけ含む。
 両手で周瑜様の顔をがっしと挟んだ。左右の顎関節を手首すぐ上の小指球で強めに押さえつけて、薄く開いた口に自分のそれを押しつけた。
 水を流し込み、すぐに吸い上げる。
 濃い鉄の臭いに咳込みかけたけれど、桶を引き寄せ吐き出した。

 もう一回と盃に手を伸ばすと、周瑜様が慌てて桶を掴んで自分から血を吐き出した。

 かと思えば私を睨んで盃を取り強引に口へと寄せてきた。


「何やってんだアンタは!!」


 飲んで血を吐き出せと怒鳴られるが、それにもかちんと来て周瑜様の口に指を突っ込んだ。


「血を吐き出すのは私じゃなくてあなたの口!! 早く吐きなさい! 窒息して死にたいの!? また年下に口移しで水ぶち込まれたいの!?」


 裏返った声で叱りつけ、非力ながらに指で口をこじ開けて桶を寄せる。
 周瑜様が私の反撃にたじろいだ隙に手から盃を奪い返し口に押しつけた。

 後で冷静になった時に、弱っている周瑜様にこの乱暴極まるやり方は、最悪また咳き込んで病状を悪化させかねなかったと気付き、ひたすら猛省した。この時、自分が思っていた以上に私は動揺していたらしい。


「もう吐き出した! 口の中の血は全部吐き出したから離れろって……!」


 口の中を開けて見せるのを確認して、私は周瑜様から離れた。

 周瑜様は露骨に安堵する。


「咳は?」

「もう出ない。けど、今日はこのまま休ませてくれ。そうすれば、明日には戻ってる」

「……分かりました」


 私は腰を上げ、周瑜様の寝台へ。
 枕の高さを確認し、周瑜様にまだ横にならないように強めに言って厨で桶を洗った後、自分の部屋へ急いだ。実家から持ってきた私の服を何着か適当に持ち出してまた戻る。




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