「◯◯……具合はどう?」

「はい。お陰様でだいぶ楽になりました」


 寝台に仰臥し、◯◯はほんわりとした微笑みで頭を下げる。

 関羽はそれに眦を下げて◯◯の額に己の手を当てた。己の額も触る。渋面になった。


「まだ熱いわね……もう暫くは安静にしていて。◯◯は体力が無いから、悪化でもしたら大変だわ」


 ◯◯は神妙に頷く。
 今まで風邪になったことは数えきれない。実際死にかけて叔母夫婦が仕方なく医者に見せたことだって何度もある。
 運動が出来ない◯◯は病魔と戦い続けられる程の体力は無かったから、悪化もしやすい。

 今回は関羽が付きっきりで看病してくれて、薬湯も飲ませてくれた為に酷くはならなかったが、やはり随分と長引いてしまっている。
 家を失い身内とも離ればなれになったところを、快く猫族の中に迎え入れてもらった手前、迷惑をかけてしまうのは本当に申し訳ない。謝ると気にするなと逆に気を遣われてしまうから、口に出せないのが少し悔しかった。


「消化に良い物を作ってくるから、少し待ってて」

「ありがとうございます、関羽さん」


 物知らずで何かと抜けている◯◯を、関羽は放っておけないらしい。いつも◯◯のことを気にかけてくれている。

 猫族での暮らしは、洛陽のそれとは真逆の、賑やかで新鮮なものだった。

 関羽のように、◯◯を案じて家を訪れてくれる者もいれば、寝台の真横の窓から子供達が花をくれることもある。
 天気の良い日には、世平が背負って釣りに同行させてくれるし、張飛が背負って劉備や関羽達の花畑に連れていってくれる。
 雨の日には皆で家に遊びに来て、泊まったりもする。そんな日はこっそりと張飛の恋愛相談を受けて、占いをしてあげるのだ。

 まだ見るもの触るもの全てが新鮮で、◯◯も毎日朝を迎えるのが楽しみだった。夜になると次の日が待ち遠しかった。

 外との接触を禁じられていた◯◯にとって、これ以上恵まれた日常は無い。
 毎日毎日、猫族に心から感謝する。それでも全然足りないくらいだ。

 状態を起こし、側の机に載せられた書簡に手を伸ばす。
 昨日までは怠い身体で何も出来なかったけれど、治りかけなのか調子は良い。書簡を読むくらいは出来た。

 関羽が料理を作ってくれている間だけなら、読んだって怒られはしない筈。
 それにこの書簡は借り物だ。すぐに返さなければならない。

 猫族が暮らすこの地、蒼野。
 蒼野を彼らに与えたのは幽州を収める公孫賛。
 寛如(かんじょ)な彼は、◯◯にも情けをかけてくれた。満足に外を楽しめないのならせめてもの慰めにと、自身の書簡を貸し与えたのだ。
 幽州の歴史を記したものがほとんどだが、◯◯にはそれでも十分嬉しいものだった。だって、新鮮だから。

 ◯◯は昔から感受性が高かった。
 誰の話にも感情移入して、時には本人以上に悲しくなって泣いてしまうこともある。
 それ故か、感情を伴う記憶は絶対に忘れなかった。
 ◯◯のこの性格から、世平は彼女は本来賢(さか)しいのではないかと見た。

 物事に心を動かし人よりも強く感じることによってしっかりと記憶し、乾いた大地に雨水が染み渡るように素直に知識を吸収していく。
 世平も、なるべく彼女の心が動くように留意しつつ、色んなことを教えた。
 とは言え、今の彼女にとってはそこまで考えずとも《新鮮》という要素だけで大袈裟なくらいに感動するので、それ程頭を捻らせるものではない。

 みるみる知識を自分のものにする◯◯に、関羽達も惜しいと感じていた。
 もし叔母夫婦が◯◯のこの才能に気付いていれば、粗末な小屋でぞんざいな扱いを受けることも無かっただろうに、と。

 それによって出会いが幾つも無くなってしまうが、◯◯の為を思うならそうなっていた方がずっと良かったのではないか。

 ◯◯の才が、彼女を引き取った親戚に潰されていたことが、やる瀬無かった。

 ◯◯は歴史を読みながら、涙する。書簡を濡らしてしまわないように袖で拭い続けながら、歴史の中で散っていた人々、そして彼らと共に今までを作り上げてきた人々に感謝と敬意を抱く。
 きっと私の両親の、また更に両親の両親も、ずっと過去から繋がっている。そして私がいる。
 それを思えば、今まで以上に自分が今生きていられることに感謝出来る。面倒を見てくれた叔母夫婦への感謝の念ももっともっと強くなる。

 猫族は表立って叔母夫婦を悪く言わない。
 ◯◯がこんな調子で、彼らに感謝と負い目以外何も感じていないからだ。
 それが◯◯の一番の美点と言えばそうなのだが、あっさり悪者に言いくるめられてしまいそうで心配がる者も少なくない。
 ◯◯が無垢なまま育ったことは悪かったとは言わないが、良かったとも言えなかった。

 ぐすっ。
 鼻を啜って涙をじっとりと濡れた袖でまた拭った。

 その時だ。

 こちらに向かってくる足音が聞こえた。関羽にしては力強いし大股のようだ。もしかしたら世平が張飛が来たのだろうか。
 書簡から顔を上げ開けっ放しの扉へと視線をやれば、どんどん近付いてくる足音は不意に止む。

 扉の影から中の様子を窺うように身を乗り出したのは、長身痩躯の青年だった。


「趙雲様」


 少しだけ驚いた。
 彼は◯◯の顔に一瞬眉を顰めたが、書簡に気付けばすぐに納得した。


「書簡に感動していたのか」

「はい。世界というのは、私の思うよりもとっても深いのですね。その一欠片だけでも垣間見えるのが、とても楽しいです」

「それは良かった」


 趙雲は破顔し寝台に腰かける。完全には拭えていなかった涙を指で取り去った。


「関羽から風邪を引いたと聞いたが、書簡を読んでいて良いのか?」

「ええ。関羽さんによくしていただいて、お陰様で随分と楽になりました」

「そうか。……けれど治りかけならばまだ無理をしてはいけない」


 趙雲はそっと◯◯から書簡を取り上げる。
 「あ……」名残惜しさに声を上げると苦笑しながら頭を撫でられた。


「安心して良い。まだ新しい書簡は持ってきていないんだ」

「そうなのですか?」

「残念そうな顔だな」


 ありありと感情が浮かぶ◯◯に趙雲は目元を和ませた。

 ◯◯は恥ずかしくなって顔を少しだけ俯かせる。
 最近になって、◯◯は趙雲に対して強い恥じらいを見せるようになった。
 それは唐突で、顕著で、本人以外なら張飛にだって見てとれた。

 ◯◯が気付かないのは、そう言った感情を今まで知らなかったからだ。馴染みのない感情であるから、何がどう恥ずかしいのか、この感情の名前が何なのか、良く分かっていない。

 それに趙雲が喜んでいるのも、然(しか)りだ。

 とどのつまり、◯◯は趙雲に恋慕しているのである。
 彼女が気付くまで長い時間がかかるだろう。


「◯◯殿」

「……あの、ごめんなさい。暫く顔を見ないで下さいまし」


 頬を押さえ、首を傾げる。
 どうしてこんなに恥ずかしいのでしょう。
 理解していないのは、本人だけだ。


「分かった。暫く背を向けていよう」

「はい。ありがとうございます」


 俯いたまま謝辞を言うと、頭を撫でられる。
 そのがっしりとした手の感触に体温が上昇して、◯◯はきゅっと目を瞑って肩を縮めた。

 その様を、嘘をついて背を向けずに、楽しげに、愛おしげに趙雲が眺めていたとは、◯◯は知る由(よし)も無い。

 もどかしいと言うよりは剰(あま)りに和やかでとても微笑ましい光景に、たまたま部屋に入ろうとしていた関羽も、相好を崩していた。



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