目が覚めた時、焦げ臭さに柳眉を顰めた。
 寝る前はひんやりとしていた部屋の中もムッと暑い。
 どうしたのだろうと◯◯は目を擦りながら扉を開けた。

 慄然とした。

――――燃えている。
 全てが。

 生き物のような、無数の炎の触手が家屋を、木を、舐めるように覆い尽くす。
 生を吸い付くされ炭と成り果てた大木が目の前に倒れた。あれは……嗚呼、この家で一番大きな桃の木ではなかったか。プスプスと音を立て黒い煙を放つそれに、◯◯は手で口を覆った。

 叔母は――――叔母夫婦は無事だろうか。
 彼らを案じた◯◯は粗末な家から這い出し家屋の方を見やった。


「た、大変……っ!」


 もう、骨組みしか見えない。
 元の外観を失った叔母夫婦の住まいを、尚も炎は燃やす。生活の後を余さず消し去るかのように。
 その中に叔母夫婦はいるのだろうか。
 どくりと跳ねた心臓に彼女は胸を押さえた。
 ……そんなことは無いと思いたい。逃げ出せていると良い。
 彼らが無事であることを願い、◯◯は周囲の様子を窺った。

 幸い、元は物置だった◯◯の住まいは、母屋からは離れている。火はまだ届いていないようだった。が、あのまま中にいれば、燃えてしまうのも時間の問題だ。今の内に外に這い出て正解だった。

 広めの庭は雑草もあまり生えていないからだろう、燃える様子が無い。ここにいれば火に巻かれることは無いだろう。
 そして何処にも、死体も生き物も見当たらない。

 肌を焦がすような熱風に汗を掻きながらも、◯◯はその場に残った。ただただじっと燃え盛る炎の勢いを見つめ続けた。

 彼女は足が悪い。悔しいが、家を出たとてこの身体では何処へも行けないだろう。
 逸る気持ちのまま、この場を離れようとしても無駄なことだと、◯◯は分かっていた。死ぬならば死ぬ。生きるのなら生きる。自分には成り行きに身を任せることしか出来ないのだった。

 きっと、叔母夫婦は無事に何処かへ逃げおおせているのだ。きっと、きっとそう。
 私は邪魔になるから、連れていかなかっただけなのだ。

 ◯◯は空を仰ぎ、徐(おもむろ)に手を組んだ。



‡‡‡




 夜明けには家屋は鎮火した。
 余韻の熱に包まれながら、明るい周囲をゆっくりと見渡す。

 暗闇の中では分からなかった近所の惨状も、はっきりと見てとれた。
 近所を元気に走り回っていた子供達は無事だろうか。

 確かめたくとも自分の身体では満足に動けない。こんな足でこれからどうするべきなのかも分からない。
 だが、動かなければこのまま野垂れ死にするだけだろう。
 どうしよう……。
 吐息を漏らして焼け落ちた家屋を見つめる◯◯は、頬に手を添えて思案した。

 取り敢えず、人を探した方が良いのかも。
 でもその為には這いずらなければならないし……。
 そもそも、洛陽の街を歩いた経験の無い◯◯には、生き残った人々が何処に集まるのか検討もつかなかった。
 この家が、洛陽のどの辺りに位置しているかもしれないのに、無闇に這い回って良いものだろうか。
 朝日に照らされながら悩み続けて――――◯◯は結局一旦は敷地内からだけでも出ることを決めた。ここでじっとしているよりはましだと判断した為である。

 それに、近所に住んでいた人に会えば叔母夫婦が何処に行ったか分かるかもしれない。
 体力的に遠くまで行けないので、まずは周辺の様子を確認しよう。

 そう思って腕に力を込めると、


「◯◯殿!」

「え? あ――――」


 隣家と隔てる焼け朽ちた垣根に開いた穴から、見慣れた姿が飛び込んできた。
 高く結い上げられた長い髪に、青を基調とした身形。
 スッキリとした面立ちに凛々しさを写し出したその青年は◯◯の前に片膝を付くと双肩を掴んだ。


「ち、趙雲様……?」

「怪我は無いか?」

「え? ええ……ずっとここにいましたから。あの、それよりも何故趙雲様が、こちらに? 確か、幽州に戻られた筈では……」


 以前、土砂降りの日に◯◯の住まいで雨宿りをしていったこの青年――――趙雲は、あれから数度雨の日になると雨宿りをしに訪れた。
けども、幽州に戻らねばならぬからと別れてから、随分と経過している。

また何か用事があってこっちに来たのだろうか。
問いかければ、彼はきょとんとした。


「聞いていないのか」

「何をです?」

「……いや、それは後で話そう。今はともかく安全な場所へ」


 言うや否や、彼は◯◯を抱き上げた。
 驚いて首に抱き着けば、彼は行き先も告げずに走り出す。

 何処へ行くのかと問おうとするも、走る振動で舌を噛みそうだった。

 いやに焦っているような趙雲に連れられ、◯◯はほぼ初めての洛陽の町並みを眺めた。
 が、全てが黒ずみ、面影は皆無に等しい。

 死の気配しかせぬ光景に、◯◯は目を伏せた。
 どうせ見るならば、燃える前の美しい姿を見たかった。
 酷く口惜しく感じた。

 趙雲は迷う素振りも無く、真っ直ぐに走った。

 やがて、堅そうな衣服に全身を包んだ人が徐々に増える。それが何なのか、外のことにとんと疎い◯◯には分からなかった。

 彼の言う安全な場所に到着したのか、手頃な段差に下ろされた。
 足の感覚が無いから怪我に気付いていないのかもしれないと、◯◯に断って裾を割る趙雲に、◯◯はその人々を示して問いかけた。


「趙雲様、あの方々はどのような方なのでしょう」

「あれは、兵士だ。知らないのか?」

「兵士、と言う職業については存じております。ですが、今、初めて拝見しました。あの方々が、私達や、帝をお守り下さっているのですね。趙雲様みたいに、とても、頼りになりそうな方々です」

「……ああ、そうだ」


 そこで、何故か彼は表情を翳(かげ)らせた。苦々しい面持ちで俯いてしまう。

 ◯◯は彼の様子に何か失言してしまったのではないかと不安になった。


「趙雲様、何か気に障るようなことを申しましたでしょうか。それでしたら――――」

「趙雲!」


 謝罪しようとした◯◯の言葉を遮ったのは、◯◯よりも若い娘の声だった。
 自分の他に助けられた人物だろうかと視線を上げると、頭に二つの、三角形の飾りを付けた愛くるしい少女が駆け寄ってきた。
 ◯◯の足を確認していた趙雲も立ち上がって少女に向かい合った。どうやら、知り合いらしい。


「洛陽に着いた途端に走り出すんだもの……驚いたわ。公孫賛様も呼び止めていたの、気付かなかった?」

「公孫賛様が? ……すまない、頭が一杯で全く気が付かなかった」

「知り合いがいたの? ――――あ、もしかして……」


 少女がこちらに気付き、目が合う。

 ◯◯はにこやかに頭を下げた。


「こんにちは。あなたも、洛陽の方なのかしら」

「え? あ、いえ、わたしは幽州で暮らしてて……」

「では、その頭のお飾りは、幽州のお洒落なのですね。猫さんみたいで、とても可愛いわ」


 少女が目を丸くした。


「あ、あの……あなたは猫族のことを知らないんですか?」

「猫族? あら、だから猫さんの耳を付けてらっしゃるのね。私ったらてっきり流行のお洒落なのかと……」

「いえ、違うんです! あの、これは本物で……」

「まあ、本物?」


 趙雲を見上げると、本当だと首肯する。
 ◯◯は頬に手を当て、首を傾けた。


「……猫族、は聞いたことがございません。世の中って、本当に色んなことがありますのね。また一つ、知識を得られました」


 ◯◯は世間を知らない。
 それ故に、少女の種族を全く知らなかった。

 それに、少女は困惑するように瞳を揺らした。

 ◯◯は全く気付かない。
 それよりも、ふとあることに思い至った。


「あ……そう言えば」

「え?」

「私、これからどうすれば良いのでしょうか」


 叔母夫婦以外に身寄りが無いのでした。
 鷹揚に呟く◯◯に、調子を崩された少女は助けを求めるように趙雲を見上げた。

 が、趙雲は少しだけおかしそうに笑って◯◯を見下ろしていた。



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