壱
◯◯は昔から外の世界を知らなかった。
生まれ付き足が悪いのだ。
両親は幼い頃に他界して引き取られた叔母夫婦とは折り合いが悪い。
倉庫を空かしただけの粗末な建物に住まわされ、食事以外に顔を合わせることはほとんど無い。誰も手伝ってくれないから、建物の隣に作られた用を足す場所に行くのも一苦労だ。
唯一の楽しみと言えば、母から学んだ簡単な占いだけ。
誰を占うとも無く、ただ天気がどうだとか他愛ないものばかり。
自分を占おうとは思わない。
どんな結果が出ても当たるとは思えないから。
占いの結果なんかに期待して、落ち込みたくないのだ。
その日は酷い雨だった。
最近は雨漏りが大変だ。桶で何とか持ちこたえているけれども、雨漏りする場所からは黴(かび)が生じているし……このまま放置したまま生活していくと肺を患ってしまうかもしれない。
そんな危惧をしたところでどうにもなることではないが、どうしても気になってしまう。
「……あら、あそこの桶、雨水が溜まってしまったわね」
部屋の一番西側が、一番酷い。
◯◯は桶を押しながら移動し、扉を少しだけ開けた。
そこから水を流し、すぐに再びそこに置く。
扉を閉めようとして、ふと誰かに見られているかのような気がして視線を上げた。
瞠目。
「あ……」
そこには青年がいた。
雨でかすんでいるが、髪を結い上げた青年だ。
雨宿りする場所を探していたらしい彼はずぶ濡れだった。あのままでは風邪を引いてしまうだろう。
そう思いながら、不意に青年と目が合ったような気がした。◯◯は慌てて扉を閉めた。叔母夫婦は、対面を気にする。◯◯が他人と接触するのを極端に厭っていた。
これはマズいともたつきながら内側から鍵をかけようとすると、その前に扉が開かれてしまう。
「きゃっ」
「すまない。雨宿りをさせてくれないだろうか」
「え、あ、あの……」
◯◯の返答も待たずに扉を閉めて彼女の前に屈むと、彼は頭を下げた。
「ここからだと、宿が遠くてな。雨が弱まるまでで良いんだが……」
見目の良い顔からぽたぽたと雨の滴が落ちる。
◯◯は逡巡した後、粗末な櫃(ひつ)から己の服を取り出すとそれで青年の長い髪を包んだ。ぽんぽんと叩くように拭くと、彼は驚いた。
「これは……服、か?」
「あ……申し訳ありません。布と言えば、これくらいしかありませんので」
そこで、青年は周囲を見渡す。
正直、あまり見ないで欲しい。お世辞にも良い生活空間とは言えないから。
「……まさか、この家に住んでいるのか?」
眉根を寄せた青年に、◯◯は慌てふためいた。
「え、ええ。あ、あの、でも慣れれば心地良いですし……」
「しかしこれはあまりに粗末だ。人の暮らすような場所ではないだろう」
天井を仰ぐ彼の視線の先には黴がある。
◯◯は彼の注意をそこから逸らそうと声をかけた。
「あの、ところでそちらは、この洛陽の方なのですか?」
そこで青年は◯◯に視線を戻す。
◯◯は髪を離した。手拭い代わりの服を彼の手に持たせる。
「……いや、俺は幽州の人間だ。ここには用があって来ている」
「まあ、そうでしたの……。身分の高い方ですのに、申し訳ございません。私、おもてなしも出来なくて……」
「俺が勝手に邪魔したのだから気を遣わないでくれ。こちらこそ、突然すまなかった」
「いいえ、風邪を引いてしまったら大変ですから」
そこで、◯◯は桶を確認する。
ああ、また溜まっている。
身体を引きずって桶のところまで行くと、青年が低い声で問いを投げた。
「足が悪いのか?」
「はい。生まれつき歩けなくて。ですから高いところに物は置かないようにしているんです」
先程と同様桶をこぼさないように押しつつ扉まで向かう。
と、見かねたらしい青年が桶を持ち上げてくれたのだ。
「これは、外に捨てれば良いのか?」
「あ、はい。申し訳ありません……雨宿りしにきただけですのに」
「これぐらい構わないさ」
彼は桶を置くところまでしてくれた。
ありがたく思いつつも、申し訳なくて眦(まなじり)が下がる。
すると彼は「気にするな」と◯◯に笑いかけた。
その人好きのする笑みを見つめ――――そう言えば、と。
叔母以外の人間と接することが無くなってどのくらいの月日が経っているのだろうか。
同年代の近所の子供と遊んでいたのがバレて以来だから、もう十年は経っているだろうか。
あの時は楽しかった。
「……どうかしたか?」
「いえ。足が不自由なものですから、人と接する機会はほとんど無くって。ですから、今が少しだけ新鮮なように思えたのです」
◯◯が口角を弛めると青年は軽く目を瞠った。
「ああ、そうです。雨が上がるまで、よろしければ幽州のことをお話願えませんか?」
「それは、構わないが……しかし外には出ないのか? 家族に運んでもらって、椅子に座れば良いだろうに」
「いいえ、うちはさほど裕福ではございませんから。それに両親はもう他界しておりますし、叔父は腰が弱いのです」
嘘だ。
叔母夫婦はどちらも健康で、叔父は道場の師範だ。小柄な◯◯など容易く持ち上げられるだろう。
しかし足の不自由な◯◯は恥にしかならないから出したがらないのだとはとても言えずに、曖昧に笑ってその場をやり過ごした。
‡‡‡
青年は趙雲と言った。
幽州を治める公孫賛という人物に仕えていているのだそうだ。
趙雲の話は何もかもが新鮮で、想像も出来なくて――――胸が踊った。
だが、夢中になればなる程時間は早く過ぎていった。
雨の音が止んだのに気が付いてしまった時には、気付かないフリをしようかと思った。
「雨が止んでしまいましたね」
「そうだな。突然すまなかった」
「いいえ、私も楽しかったですから」
◯◯はにっこりと笑って頭を下げる。
趙雲は扉を開けて沈黙すると、肩越しに◯◯を振り返った。
「……すまないんだが、」
「あ、はい」
「また雨に降られたら、なんだが……またここで雨宿りしても良いだろうか?」
優しく微笑まれて、◯◯は目を丸くした。そして、嬉しそうに、まるで花が咲いたみたいに笑うのだ。
嬉々とした返事は、◯◯が思うよりも大きく、弾んでいた。
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