陸―2



 その為に、私に出来ることは何でもあまさずしてあげたい――――。

 心杏は、お医者様が来るまで何かに怯えて私にぴったりと張り付いていた。
 お医者様に診てもらう時には、泣きそうに顔を歪めていた。


「心杏、大丈夫?」


 肩に手を置いて顔を覗き込む。

 心杏は唇を引き結んで答えてはくれなかった。
 診察が怖い……とは違うようだ。
 でも確かに何かに怯えている。
 その何かが分からない私は、心杏の表情をつぶさに観察し続けた。それでも結局は、分からなかったけれど。

 診察が終わっても心杏の表情は変わらなかった。

 お医者様が診察の道具を片付ける間に、もう一度問いかけた。


「心杏。どうしたの?」

「……何でもない」


 一瞬何か言いたげな顔をしたけれど、口を噤んで首を横に振った。

 私には言いたくないのだろうか。
 やっぱり、彼女の母親じゃなくなったから、深い部分へ干渉するのを拒まれているのかもしれない。
 とても寂しく思った。


「処置が出来ずにいた所為ですな。だいぶ、進行している」


 お医者様が木箱の蓋を閉めて、溜息をついた。


「あの、治すことは出来るでしょうか? 完全でなくとも、せめて病状を軽くするくらいは……?」


 お医者様は心杏をじっと見つめ、


「この街のように土や埃、灰などが舞う場所は避け、空気の澄んだ場所で、肺の病に有効な薬を試して経過を見ましょう」


 心杏はお医者様に向かって口を開き、しかし何も言わずに閉じた。

 それを見て、私は姉様を呼んだ。
 心杏を示しつつ、身振り手振りで意思を伝える。

 理解した姉様が頷いたのに頭を下げて、心杏を呼んだ。


「少し、外の空気を吸いに出ましょうか」

「……ん」


 心杏の手を引いて、部屋を出る。
 周瑜様がついてこようとしたのを、姉様が止めた。

 心杏と二人で、廊下を歩く。
 周瑜様と一緒に登城した時には、私の生存を喜ぶ兵士や女官達に笑顔で『お帰りなさい』と言われ続けたけれど、今は各々役目に従事しており、しんと静まり返っている。

 とある空き部屋に入って、窓際に座らせる。
 空き部屋と言えど、城の女官達が掃除を欠かさないから、埃一つ無い。

 窓際に心杏を座らせ、前に腰を下ろす。


「心杏。今、あなたが何を思っているのか、私に聞かせてくれない?」


 心杏は顔を強ばらせた。
 俯き、


「……別に何も思ってない」


 堅い声で嘘を言う。
 私は彼女の両手を握って、もう一度呼んだ。


「あなたは、一体何に怯えているの? お願い。教えてちょうだい」


 心杏は唇を引き結んだ。
 私は、彼女が口を開くまでじっと見つめて待った。

 どのくらいの時間、無言でいただろう。
 心杏が諦めたように首を横に振り、溜息をついた。


「……この先のことが怖くなっただけ」

「この先のこと?」


 心杏は短く頷いた。


「だって皆、あたしを生かそうとしてるから……」


 未来のことなんて考えたこと無いのに。
 私の手をやんわりと剥がし、膝を抱えて、顔を埋める。


「当然よ。あなたは、死ぬにはまだ若すぎる。私はあなたのお母さんではないけれど、あなたにもっと生きて欲しい」

「◯◯さん、あたしのつまらない現実逃避に付き合わされてたのに」

「そうね。でも、付き合わされたとは思っていないわ。今でもそう。心杏は迷惑でしょうけど、私にとってはまだ、あなたは娘のままなの」


 私が頭を撫でると、心杏は少しだけ顔を上げて目を細める。


「ごめんなさいね」


 心杏は首を横に振った。また、膝に顔を埋めた。
 躊躇いがちに、私の裾を摘んで。

 生きながらえたその先のことを不安に思っているのは、また独りに戻ると思っているからかもしれない。
 親に先立たれて、ずっも独りぼっちだった心杏。
 やっぱり、私は彼女を放っておけない。独りにしたくない。


「ねえ、心杏。私、あなたのお母さん代わりのつもりでいても良い?」


 心杏の小さな肩が震える。
 ゆっくりと上げられた顔。金色の瞳は滲み、右の目尻から頬を伝い落ちる一筋の涙が、窓から射し込む光を反射した。

 悲しげな一瞬の光に目を貫かれたような感覚に襲われ、私は心杏を抱き寄せた。


「大丈夫。あなたはもう独りぼっちではないから。春憲さんの願いを叶えてあげて」


 もっと長く、生きて。
 頭を撫でると、背中に腕が回る。
 私の腕よりも強い力が込められた。
 啜り泣く声が聞こえ始め、身体が震える。

 心杏が泣き止むまで、私はずっと頭を撫で続けた。



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