伍―2
そこで心杏は一旦口を閉じ、視線を下に向けた。
「それに……怪我させたし」
「手当てはもうしてもらっているから大丈夫。上手く受け身が取れなかったこともあるし、気にしなくて良いのよ」
心杏は私を見上げて、すぐに顔を逸らした。
「……何で追いかけて来たんだよ。他人なのに」
ぼそっと言うのに、私はすぐに言葉を返した。
「私はあなたのお母さんではないけれど、病み上がりの身体で突然何処かに走って行ってしまったら心配になるのは当然じゃない。あんなに走って大丈夫だった? 何処か痛いところとか、息が苦しいとか無い?」
「平気」
けんもほろろに答えて、心杏はまた暴れ出す。
何とか逃がすまいと腕に力を込めて捕まえていると、不意に拳骨が心杏の頭頂に落ちた。
「痛ぅ……っ!」
「暴れるな。小喬にまた怪我をさせるつもりか?」
子供を叱りつけるように言うのは、周瑜様だ。
少しだけ疲れたような顔をした彼の身体を咄嗟に上から下まで確認した。
衣服に乱れは無く、目に見える場所に怪我も無い。
返り血も浴びていないことにほっとした。
「お疲れ様でした」
「ああ。全員身ぐるみ剥いで木に縛り付けておいたから、後でうちの兵士に回収させるよ」
「殺せば良いのに」
「お前達が側にいるところで血生臭いこと出来るか」
心杏は鼻で笑う。
周瑜様は心杏の頭を撫でるだけに留めてそれ以上の反応を返さず、「帰ろう」とまず心杏を馬の上に、その後ろへ私を乗せた。
手綱を持ち、周瑜様が馬を引いて元の道を戻る。
その間も心杏が逃げようとした為私は後ろから彼女をしっかりと抱き締めて放さなかった。
遅い歩みで、柴桑に着いたのは日が暮れた後。
心杏と手を繋いで屋敷に近付くと、何故か明かりが点いている。
私と周瑜様は顔を見合わせた。
「周瑜様。他に住まれている方がいらっしゃったのですか?」
「いや。小喬とオレの二人暮らしで……」
「さっきの女の人達なんじゃないの?」
「それはない」
軽蔑しきった心杏を振り返って、真顔の周瑜様。
心杏は「どうだか」と鼻を鳴らして顔を逸らした。
周瑜様と親しい女の人達がいらっしゃるのなら、私達は邪魔になる。
心杏を見下ろして、周瑜様を呼んだ。
「私達、外で野宿をしましょうか?」
「だから違うって言ってるだろ! 小喬が嫁いでくる時に用意されたこの屋敷は、オレと小喬以外出入りしない」
では、今屋敷には一体誰が……。
周瑜様はひとまず自分が先にと、私達と馬を残して屋敷の中へ。
私達を屋敷に送ってから城へ馬を返し、心杏を狙っていた男達を回収するよう兵士を派遣する筈だったのだけど……。
馬を見上げ、
「厩に帰るのはもう少し先になりそうね」
馬は、ぶるると首を振った。
馬の鼻を撫でていると、屋敷の中が俄(にわか)に騒がしくなる。
どうやら、周瑜様が中にいる方と口論しているようだ。
「大丈夫かしら……」
中に入ってみようと玄関に近付くと、
『大喬! 良いからここはオレに任せてろって! 小喬は今――――』
周瑜様の大声のさなかに、扉が開かれる。
飛び出してきた女性に、私達は驚き、数歩後退した。
「小喬さんにそっくり」
心杏が、言う。
私は茫然とした。
目の前の、頭に猫の耳を持つ黒い瞳の女性が、似ているのかいないのか――――そんなことよりも。
私、この人を知っている気がする。
ずっとずっと前から、子供の頃から――――。
「あ、の……」
絞り出した声は上ずっていた。
その人は顔を歪めた。
唇を引き結んで私を、心杏ごと抱き締めた。強く、強く。息苦しいくらいに強く。
そして、震える声で、
「◯◯……!」
《私の》名前を呼んだ。
「◯◯……◯◯……」
そう。それは私の名前だ。間違い無いと、確信があった。
記憶も無いのにどうして?
繰り返して確かめる私の頭の中が、突如弾けた。
全身から力が抜けていく――――。
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