肆―2



 父親は母親よりは遅かったものの、心杏が生まれる前にはすでに発症してかなりの時が経っており、心杏が物心つく前に命を落とした。

 母親は心杏が九つになるまでは気力で何とか命を繋いでいたが、賊に襲われ囮になって心杏を逃がした時、命を落とした。
 酷い喀血を起こし、その激しさに疫病と勘違いした賊が逃げた後、戻ってきた心杏の腕の中で謝罪しながら絶命した。

 心杏も、この時にはすでに軽いながら症状が現れており、母親から出来うる限り進行を遅らせる方法を教わっていた。
 が、それを実行することは無く。

 悪化するならさっさと悪化して、死なせてくれと母親と歩いた道を遡りながら数年を過ごした。両親と同じ病で死ねば、母親に、顔も知らぬ父親に会えると思った。

 心杏は、今年で十五歳になる。
 小さな頃から食べる物にも着る物にも困る生活を余儀なくされた彼女の身体は、年齢の割に小さく、細い。
 九つと嘘を言っても、母親の年齢に死んだ時の年齢に自分が過ごした年月を足した数字をあてがっても、名も知らぬ、偶然川縁で拾っただけのこの女性は何一つ不審がらなかった。

 記憶が無い年上の女性。
 最初から、彼女を母親にしようと思った訳ではなかった。


『……酷いよ、お母さん』


 あれは、勝手に口が動いたのであった。
 自分が思う以上に、孤独に疲れ果てていたのだろうか。

 両親と同じ宿命に死に、両親に会いに逝きたいと願っていたのに、気付けば心杏はこの女性と一緒に旅をしていた。

 今までが、夢だったんだ。
 ひとときの幸せな夢。
 周瑜とか言う、同じ荊州の猫族に遭遇したことで、覚めてしまった。

 その瞬間から、この人はあたしのお母さんでなくなった。


「あーあ……」


 もう少しだけ、覚めないで欲しかったなあ……。
 心杏は溜息をついた。
 うっそりと笑う。

 夢から覚めたなら現実に戻るのは必定。
 両親のいない、独りぼっちの寒い旅に戻る。

 明日になれば身体は安定するだろう。
 隙を見て、この人から離れないとな。

 胸を押さえ、心杏は目を伏せた。



 本当、幸せな夢だったなあ。



‡‡‡




 翌朝、心杏は周瑜様が外で買ってきた食事も完食してくれた。
 顔色も随分良くなったものの少し息苦しさがあるようだったので、予定を変えて夕暮れまで経過を見て、翌日に三人で外を歩いて回ることにした。

 心杏は、私をお母さんと呼ばなくなった。かと言って小喬さんとも呼ばず、気を引く時は軽く袖を引いた。
 態度も余所余所しく、それがとても寂しかった。

 だけど私も本物の春憲さんへの罪悪感があって、それまで通りに接することが出来なくなってしまっていた。

 周瑜様だけは、私にも心杏にも優しく、気を利かせてくれた。

 出掛ける前には前日のうちに買った可愛らしい服を着せて、髪も女の子らしいお団子にしてくれた。
 けど、私にも服飾品を押し付けられたのには凄く困ってしまった。勿論お断りして、小喬さんの服から一番地味な物をお借りした。周瑜様は物凄く不満そうだった。

 まず寄った市場で、心杏がちょっとでも興味を持った店があると、周瑜様は絶対にその店へ寄ってくれた。
 同じ荊州の猫族だからだろうか、私よりもずっと心杏の様子を気にかけてくれていた。

 私には、何か気になることがあれば、どんなに微かなものでも隠さず話すように言われた。
 だけどまだ、小喬さんや周瑜様の名前以上のものは勿論微かな引っかかりすら、無い。


「どうだ? この辺は、小喬が良く彷徨いてた辺りなんだが」

「……ごめんなさい。何も……」

「そうか」


 心杏は、周瑜様に買ってもらった蒸したての饅頭に夢中で、周瑜様のお屋敷を出る時は不機嫌そうだった彼女も、今は少しうきうきしているように見える。


「じゃあ、そろそろアンタが歩いてたってとこに行くか。心杏も、今のうちに食いたい物があるなら言えよ」

「ん……これで良い」


 これまで、その身体からは予想出来ない程の食べ物を、彼女は胃に収めている。お腹を壊してしまうのでは? と不安に思ったのも杞憂で、全くその素振りを見せない。

 周瑜様は心杏の頭を軽く叩くように撫で、彼女が食べ終わるのを待って、市場を移動した。

 私が思い出した光景に関して、周瑜様の心当たりというのは柴桑の南西に住んでいるお医者様なのだそう。

 細い道を進んでいくと、不意に後ろから若い女の子の声が周瑜様を呼んだ。


「やっぱり周瑜だったー!」


 振り返ると、笑顔の女の子達が周瑜様へ向けて駆け寄ってくる。

 周瑜様が一瞬しまった、と顔を歪めた。苦笑混じりに私達を背に庇って、女の子達から隠す。

 心杏が「うわ……」蔑視の目を周瑜様の背中へ向けた。

 女の子達は一瞬私達に気付いて眉根を寄せたあと、無邪気に周瑜様に飛びついた。


「奥さんが亡くなってからつれなくなって、寂しかったんだからねぇ!」

「何で構ってくれなくなっちゃったの? 奥さんいる時も逢瀬を重ねてくれたのに、独り身になったら駄目っておかしくない?」

「独身になっちゃったんなら、私達の誰か決められるでしょ? 何でいつまで経ってもあたしのところに来てくれなかったの? ねえ、聞いてる?」


 私達は、いないものとされていた。

 脇腹を庇いつつ、女の子達を帰そうとする周瑜様。
 けど、女の子達はよほど周瑜様のことが好きなのだろう。ぴったりとくっついめ離れない。

 事態についていけないで茫然とするしかない私の横で、心杏が溜息をついた。


「何となく思ってたけど、やっぱり浮気男だったんだ……でも、」


 丁度良いや。
 そう言って、何故か心杏は私に体当たりをした。
 地面に倒れた私を見ることも無く駆け出した。


「あ……心杏!」

「待て心杏! オマエ何処へ――――」

「わ、私、心杏を連れ戻してきます……!」

「待てオレも……っ」

「周瑜! やっと捕まえたんだから、逃がさないわよ!」

「だから今はそんな場合じゃ――――」


 周瑜様は、女の子達に絡まれて動けない。

 私は彼を待たず、倒れた拍子に痛めてしまった足を引きずって心杏を追いかけた。

 心杏は足が速かった。
 私は元々運動が苦手だし、足を痛めている。

 街の外に出る時には、もう心杏の姿は小さかった。


「どうしていきなり……」


 駆け出したのか、街の外で出たのか。
 分からない。

 周瑜様に嫌気が差した風でもなかった。
 『丁度良いや』と、まるで機会を窺っていたような……。

 まさか、私が心杏の嘘を知ったから?
 私を母親に出来ないと思ったから?
 だから、私達から離れようと?


 あんな身体なのに?


 私は街道を走る心杏を呼び、追いかける。
 見えなくなっても構わない。
 街道を進んでいればそのうち彼女が止まってくれるのではないか、そんなことを期待してひたすらに追いかけた。

 だけど、体力の限界が来てしまいその場に座り込んでしまう。


「心杏……待って……」


 呼吸を落ち着かせていると、背後から、


「大丈夫ですか?」

「っ!」


 声が降ってきた。

 驚いて振り返ると、若い、金髪の男性が。

 綺麗な顔だと思ったのも一瞬のこと。


「おや……小喬さんではありませんか?」

「え?」


 男性も、小喬さんを知っているようだ。


「一年前の戦いで亡くなられたと聞いておりましたが、生きておられたんですね。良かったです」

「あの……私は、」


 小喬さんではないのですと言おうとして、言葉に詰まってしまった。
 私が小喬さんである可能性が高いからではない。

 その男性に、見覚えがあるような気がしたからだ。


「ええ、と……何処かで、お会いしましたか?」

「はい。一年前、あなたを曹操殿のもとへお連れ致しました。丁度、この辺りだったでしょうか」

「この辺りで……」


 周囲を見渡す男性につられて私も周りを見渡した。
 と、


 ほんの一瞬のこと。


 目の前の地面に、赤い染みが見えた。
 瞬きすると消えてしまったそれは、多分、誰かの血――――。


「――――あっ」


 また見えた。
 でも今度は少し引いた場所からの視界だ。
 音が無い。臭いが無い。感触が無い。

 赤い血の上に誰かが倒れている。
 周りには数人の兵士。
 彼らに対峙する形で、奇妙な形の武器を持った金髪の男性が立っている。

 側には馬車が止まっている。
 あまり目立たない質素な馬車だ。
 私、この馬車に乗っていたのだろうか?

 これは一体、どういう状況なのだろう。

 考えているうちに視界が元に戻り、視覚以外の感覚も戻ってくる。

 私は男性に抱き留められていた。


「大丈夫ですか?」

「あ、はい。……ごめんなさい」


 男性から離れ、頭を下げる。


「気分が優れないのでしたら、ご自宅で休んだ方がよろしいですよ。私がお送り致しましょう」

「あ……ごめんなさい。今はそれどころではなくて――――」


 その時だ。


「そいつに触るな!!」


 背後から怒声がかかった。



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