参―2



 河の方から聞こえてくる。

 やっぱりあの船、呉軍の船なのね。

 船を見て、私は驚いた。
 縁から身を乗り出すのは、心杏と良く似た形状の猫の耳を持った若い男性だった。

 私を何度も小喬と呼ぶ。

 あの人が、周瑜様なのだろうか――――。
 ちく、と胸が痛んだ。理由は分からない。

 私は小喬さんではありませんよと教えてあげようとした私の手を心杏が握った。


「行こう!」

「え? でも、きっとあの人が周瑜様ではないかしら」

「人間が一杯いるから行こうってば!」


 心杏は泣きそうな顔で私を引っ張る。


「待てって! おい、聞こえないのか!? 小喬!!」

「振り返っちゃ駄目!!」

「し、心杏……? どうしたの?」


 どうなっているの?
 心杏がここまで人間に怯えている姿は見たことが無い。
 もしかして、呉軍に属する人間に何か嫌なことをされた……?

 でも、それなら呉軍の船なんて眺めるかしら。
 それに、柴桑に行く前のこの子は普段通りの態度だった。
 こんなにも怯えるのなら、どんなに隠しても片鱗くらいは覗く筈。
 心杏は大人びて感情を押し殺したがるけれど、完全に隠しきれないこともある。感情が剰(あま)りに強い場合は、特に。

 だから私も普段から心杏の様子は気を付けて見ているつもりだ。
 なのに気付かないなんて……見逃したとは、私には考えにくいのだけど。

 心杏の態度に戸惑いながらも問い質(ただ)すことは後にして、彼女をもう止めずに従った。

 森に入り、深い場所まで進んで彼女はやっと足を止めた。
 お互い体力の限界ぎりぎりで止まったものだから側の大木の幹に寄りかかって座り込む。
 息が整うのを待って、心杏は私に抱きついた。


「お母さんはお母さんだよね」

「そうよ。どうしたの? あなた、何に怯えていたの?」

「別に……呉軍に良い記憶が無いだけ」

「そうだったの……」


 心杏の様子から、嘘だとは分かった。
 ぎゅっと、いつもよりも強い力の心杏に何も言わずに、抱き締め返して頭を撫でた。

 そうするうちに、彼女は眠ってしまった。

 夕食は、心杏が起きてからにしましょう。
 私は心杏を、私の膝を枕にして寝かせた。

 買った物、幾つか落としてしまったかもしれない。確認も心杏が起きてからになるわね。

 心杏の様子に違和感を覚えながら、私は彼女の頭を撫で続けた。

 けれど、心杏が起きる前に、


「やっと見つけた……!」

「あ……」


 周瑜様……らしき方が、汗だくで肩で息をしながらこちらに大股に歩いて来ていた。
 心杏が寝ていることに気付くと、足を止め、静かに歩み寄ってくる。

 前にしゃがみ込み、私の頭から頭巾を取り去った。
 私の顔をじっと見つめてほっとした様子で笑う。
 そして心杏を気遣って小声で、


「小喬……生きていたなら何故柴桑に戻ってこなかった」

「あの……」

「大喬達にどれだけ心配かけたと思っているんだ」


 この人も私のことを小喬さんと間違えている。
 私は苦笑して、


「申し訳ありません。私、その小喬と言う方ではありません」

「は?」


 彼は目を丸くした。


「小喬じゃない……? 何言ってる、アンタは何処からどう見ても小喬だろ。オレの妻で、呉の孫策の妻大喬の妹の――――」


 ああ、ではこの人は本当に周瑜様なのね。
 動揺する周瑜様に、私は首を横に振ってみせた。


「柴桑でも、色んな方々に間違えられましたけど、私は希春憲と言う旅の者で、この子の母親です」

「この子供の母親だって……?」


 周瑜様は心杏を見下ろし、眉間に皺を寄せた。
 「有り得ない」と呟いた。


「アンタ……今何歳だ」

「確か……三十九歳だったかと」

「その顔で三十九? 若作りにも程がある。どう見たって二十歳にも届いていない顔じゃないか。それに、その子供とも全く似ていない」

「え?」


 自分の顔に触れ、首を傾げた。


「自分の顔を見たことが無いのか?」

「私は、鏡を持っていません」

「水面に写るだろ」

「心杏が、私を水辺に寄らせたがらなくて……」


 その理由は、私が囮となって心杏を逃した後河に落ちて流されてしまったからだ。
 頭を怪我して、病にもかかっていて、記憶も失っていて……心杏はかなりの衝撃を受けたと思う。
 さっきも、河の畔と言っても心杏は水際からだいぶ離れていた。私が何をしても絶対に河に落ちない距離を取っていた。

 それを話すと、周瑜様の目がすっと細まった。


「記憶が無いのに、その子供の母親だって何故分かった?」

「心杏――――この子が、そう言っていましたから。子供が母親を間違えるなんて有り得ません」


 周瑜様は、溜息をついた。
 目にかかった心杏の横髪をそっと指で退けて、じっと見下ろした。


「確かに子供は、自分の親を間違えないだろうな。よっぽどのことが無い限り」

「ですから、」

「けど、わざと間違えることもあるんじゃないか?」

「え?」


 周瑜様の目は、まだ心杏を見つめている。


「親を喪った衝撃は子供には耐え難い。遅れてやってくる喪失感や孤独感に追い打ちをかけられて、その後もずっとついて回る。心に空いた穴を埋めようとして、たまたま見つけた記憶喪失の他人に自分の親だと吹き込むのも有り得ないことじゃない」

「それって……」


 そこで、彼は視線を上げて私を見据える。
 懐から取り出したのは、細身の短剣。
 鞘から抜く仕種に思わず心杏に覆い被さる私に、周瑜様は苦笑いを浮かべた。


「安心しろ。アンタもその子供も、傷付けはしない。この刃に写った自分の顔を良く見てみろ」

「……」


 恐る恐る、私の目の高さに掲げた刀身に顔を近付けると、


「危ないからあまり近付けすぎるなよ」


 刀身を少し引かれた。
 私は頷き、刀身に写り込んだ自分の顔を見つめた。
 良く手入れされている細い刀身には一部しか写り込まず、周瑜様がゆっくり動かしてくれなければ全ての部分を確認することは出来なかった。

 私が顔を引けば、周瑜様は武器を収めて、


「三十九の女の顔に見えたか?」

「……いえ……」

「心杏に似ていたか?」

「……」


 心杏を見下ろす。
 私の感覚で言っても周瑜様の言う通りだった。
 それだけならば、父親と似ているだけかもしれない。

 だけど、記憶を失って初めて見た自分の顔は、主観的に見ても客観的に見ても、とても三十九歳の女の顔とは思えなかった。もしかしたら、周瑜様よりも年下かもしれない。
 若作りなんてその日暮らしの私達にそんな余裕は無いし、生まれながらに童顔……と言うには無理があるくらい大きな差があった。

 でもそれだけではないか。
 年齢は心杏が間違って覚えていたのかもしれない。父親の年齢をはき違えた可能性だってある。
 本当はもっと若くて、でも九歳の子供がいたって全くおかしくない範囲かもしれない。

 この人はどうあっても私を小喬さんにしたいのだと、反発心から周瑜様を睨んだ。

 すると、


「心杏の瞳は何色だ?」

「え?」

「いつも一緒にいるなら、瞳の色くらい分かるだろ」

「……き、金色です」


 答えると、今度は周瑜様はご自分を指差す。


「オレの瞳は何色に見える」

「金色です」

「じゃあ、アンタは?」

「黒でした。でもそれは個人差なのでは――――」


 その時だ。
 一瞬だけ、自分の言葉に違和感を覚えた。
 どうしてだろう……何となく、それは違うんじゃないかって、思った。

 言い止(さ)した私に、周瑜様は言った。


「純血の猫族は皆金の瞳を持つ。黒い瞳の猫族は――――混血なんだ」


 少しだけ、理解するのが遅れた。


「こん、けつ……って、それって、まさか、」

「アンタは人間と猫族の混血なんだ。そして、心杏は純血の、恐らくはオレと同じ荊州猫族――――」

「――――違う」


 不意に、低い声。
 寝ていた筈の心杏が弾かれたみたいに勢い良く起き上がり、周瑜様にぶつかる。

 ただぶつかっただけではなかった。
 周瑜様が目を剥き、心杏を突き飛ばす。

 私は息を呑んだ。


「し、心杏……!!」


 彼女の小さな手には、短剣が握られていた。刀身に赤い筋が網のように走った、短剣が。
 それは父親が、護身用にと心杏に持たせた物だと、心杏本人に聞いたことがある。

 周瑜様は立ち上がり脇腹を押さえてよろめいた。


「オマエ……!」

「違う! 違う! あたしは混血だ! お母さんは猫族で、この人なんだ!! 小喬なんて人じゃない!!」


 短剣を握る手はがたがた震えている。


「今すぐ消えろ……あたしからお母さんを奪うならお前を殺す……!!」

「心杏! 落ち着きなさい! 周瑜様、大丈夫ですか!?」

「ああ。咄嗟に身を引いたからそこまで深くは……」


 言い止し、心杏を見つめる周瑜様は顔を強ばらせた。

 それと同時に、心杏がその場に膝をつく。
 短剣が落ちた。


「心杏っ? どうし――――」


 ごぽ。


「え?」


 苔むした地面にこぼれた赤い液体。
 何、これ……。

 血?

 私は愕然として固まってしまった。

 心杏は苦しげに、激しく咳き込み始める。


「し、心、杏……?」

「っごほ……う……ぐっ、げほ、げほっ」

「退け!」


 周瑜様が私を押し退けて心杏の身体を起こす。
 背中をさすりながら私を睨み、


「小喬! アンタ何ぼうっとしてるんだ!」


 怒鳴った。



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