弐
――――◯◯にしては、珍しい失態だった。
戦にて、目元を斬りつけられたのだ。血の出やすい場所であった為、止めど無い血がまるで涙のように頬を伝い落ちた。
それに加え、側頭部も殴打されたようだ。茶色の髪がべったりと赤黒く染まっていた。
それでも単身敵の真っ只中で獣のように蹂躙し、統率を乱し勝利を引き寄せた。
血で汚した顔に笑みを浮かべて戻ってきた時は、心臓が止まるかと思った。
夏侯淵と共に駆け寄ると、片手を挙げる。
「◯◯! 何なんだその怪我は!?」
「いやー、悪ぃ悪ぃ。俺としたことがちょっとしくじっちまってさー」
死ぬ程度のもんじゃねぇから大丈夫だって。
歯を剥いて快活に笑う彼女に、夏侯淵の眉間にぐっと皺が寄る。
「全然大丈夫そうに見えないぞ」
「そりゃあ、目の回りは血がかなり出るからな。んじゃ、俺は怪我した部下見てくるから」
◯◯はひらひらと手を振って二人の側を離れようとする。
それを呼び止めようと夏侯淵は口を開いたが、言を発するよりも早く夏侯惇が◯◯の腕を掴んだ。ぐいと強めに引っ張れば、彼女の身体は容易く夏侯惇の方へ傾いた。
それを抱き留め、肩に担ぎ上げる。
「うぉお!?」
◯◯は野太い声を上げて目をしばたかせた。
「ちょ、何……!? 惇!」
◯◯は戸惑って足をばたつかせる。
しかし夏侯惇は彼女を離そうとはしない。素知らぬ顔で歩き出す。
「夏侯淵、◯◯の代わりに奇襲部隊の様子を見てきてはくれないか」
「分かった。兄者、ちゃんと◯◯を抑えていてくれよ」
「ああ」
「いやだから大丈夫なんだってば!」
「良いから大人しくしていろ」
キツく言うが、◯◯は暴れる。大丈夫と繰り返し、手当を受けるのを堅く拒んでいた。少し、妙だ。
夏侯惇は◯◯のじたばたする足を押さえ込みながら、ぐっと眉根を寄せる。
彼女は最後まで拒絶を続けた。
‡‡‡
「だーかーらー! 大丈夫だっつってんだろうが!」
軍医が手当をしようとするのに、◯◯は頑な態度で拒絶した。なかなか諦めない。特に側頭部を触られるのを嫌がっている。
困り果てた軍医が夏侯惇を見上げる。どうすれば良いか、指示を求めた。
天幕の隅で腕組みして眺めていた夏侯惇は溜息をついた。腕を解いて近付き軍医に退くように言う。
「このままでは埒があかん。こいつの手当は俺がやる。お前は他の兵士を看てきてくれ」
「し、しかし……」
戸惑う軍医を促す。
仕方なく、軍医は腰を上げ、二人に頭を下げて天幕を出て行った。
残された夏侯惇と◯◯。沈黙が横たわる。
◯◯は憮然として夏侯惇から離れようとし、それを肩を掴まれて阻まれた。
「手当をしろ」
「……っ良いから! 本っ当に俺は大丈夫なんだって! お前大概しつけーぞ!」
「どうしてお前はそんな風に拒むのだ! 良いから手当しろ!」
怪我をしていない方の頭を掴んで引き寄せようとした瞬間である。
◯◯はがばりとこちらを振り返り、夏侯惇の首を掴んで押し倒した!
地面に押し倒されて身体を強か打ち付ける。息が詰まり、咳き込む。
◯◯を怒鳴ろうとしたが、彼女の目に映る色に瞠目した。
強い光だ。
まるで、刃。殺意の刃だ。
今まで見たことの無い鋭利な眼光が、夏侯惇を射抜く。視線だけで殺されかねない。
「◯◯……?」
「俺に触るな!」
怒号。
ぐっと首を絞められる。
何がどうなったのか分からなかった。自分は何か、気に障ることをしてしまったのだろうか。
「ぐ……ぁ……っ」
「触るな、触るな、触るな、触るな、触るな、触るな、触るな、触るな触るな触るな触るな触るな触るな触るな触るな触るな……!!」
狂ったように繰り返し、◯◯はぎりぎりと夏侯惇の首を絞める。
触るな、とは彼女の頭に触るな、ということか?
どうして彼女は頭に触るのが嫌なのだろうか……?
と、不意に首の圧迫感が無くなった。空気が一気に肺に流れ込み、咳き込む。
「げほっ、ごほ……っう、ごほっ」
「触るな、さわるな、さ、わ、るな……み、見るな、見るな……!」
よろりと◯◯は立ち上がってまろびながら歩き出す。
横にふらつき、「触るな」「見るな」と譫言(うわごと)のように繰り返した。
先程までとは、打って変わって憔悴しきっていた。
夏侯惇はその姿に何か危うさを感じて咄嗟に立ち上がって◯◯を抱き寄せた。頭に当たらないように、腰を抱いて。
◯◯はびくんと大きく震えた。身を捩って逃げようとする。
「あっ、おい、落ち着け◯◯!」
「……っ、い、嫌ぁっ!」
女のような悲鳴に驚く。手を離してしまった。
すると◯◯は懐から短刀を取り出して自分の手を刺す。貫いた。
「ぐあぁ……っ!」
「◯◯!」
刃を抜けば血が溢れ出す。
「っ、何をしている!」
「……ふ、ふふ、はは、ははは……!」
突如として◯◯は笑い出す。短刀を落とし、貫かれた手を押さえる。
おかしい。
頭を触ろうとしただけでどうしてこんなにも取り乱す?
◯◯は一頻(ひとしき)り笑うと、夏侯惇を振り返った。苦笑を浮かべ、「悪ぃ」と。
「ちぃと取り乱しちまった。いやー、お恥ずかしい!」
にっかりと歯を剥く。
……それは、いつもの彼女で。
困惑した。
「◯◯、お前は……」
「んじゃ、俺はこれにて失礼するぜ。手当なら自分で出来るからよ」
血で汚れた手を振って、◯◯は天幕を飛び出す。
夏侯惇は彼女の血が染みた地面を見下ろし、茫然とした。
あれは一体何だったんだ。
あんな彼女、見たことが無かった。
あの不安定さ……とても危険な気がする。
十三支と関わってから、◯◯は何処かおかしくなっているように思えた。
何か脆く、狂いやすいモノを感じる。
このままにしておいても良いのだろうか?
――――そう思うも、彼にはどうすれ良いのか分からなかった。
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