弐―2
曹操にとって私の価値が本当に混血にあるのか分からない。いや、そもそも二喬を欲しているという話も、何かの策に利用する為の嘘なのかもしれない。
私にはそんなもの看破出来ない。看破する必要が無い。
ここでやると決めたのは時間稼ぎだけ。
出来ないことをしようとして姉様達まで危険に曝してはいけない。
そもそも運良く看破出来たとしても、周瑜様達に伝える術が無いから無理だ。
曹操は私の言葉に気分を害した様子も無い。
……いいえ、ちゃんと私の言葉を聞いているのか怪しいところだわ。
彼は私を優しい眼差しで見つめているのだ。
家臣は私の発言に明らかに殺意が増しているのに……。
何なの、この人。
まさか本当に混血の娘が好みだとか、そんなことは無いわよね。
曹操を睨めつけると、家臣の一人が剣の柄を握る。「夏侯淵」と隣の、面立ちが少し似た別の家臣に咎められた。
彼に視線を移し、
「殺したければ殺しなさい。私は元より死も如何なる辱めも覚悟した上でここにいるのですから。ただし……」
目を細めると、男は鼻白んで剣から手を離した。
私は畳みかけるように言葉を続ける。
「私が死した後は、悪鬼となりて曹操殿もあなた方も一族郎党その血が耐えるまで子々孫々祟り続けましょう。その覚悟があるのでしたら、さあ、どうぞ斬り捨てて下さいませ」
両腕を広げて見せる。
男は舌打ちの後、顔を逸らした。
曹操はと言えば、自分の家臣へ酷く冷たい視線を向けている。
私には優しい眼差し。私に敵意を向けた家臣には冷たい眼差し。
……本当に、何なの?
「家臣の無礼、どうか許していただきたい」
曹操は私に頭を下げたかと思うとおもむろに腰を上げ、私の方へ近付いてくる。
私は数歩後退した。
「小喬殿。あなたの為に用意した天幕へ案内しよう」
「……っ」
手を握られ、咄嗟に振り解き距離を取る。
それでも曹操は私に穏やかな眼差しを向け続けるのだ。
曹操は手を下ろし、歩き出した。幕舎を出た。
私は周りを警戒し、距離を開けて続いた。
幕舎へ行く時にも思ったけれど、擦れ違う兵士の顔色が悪い。中には足取りも危うい者がいた。
諸葛亮様の仰っていたように、この強行軍で疲弊し、疫病を罹患(りかん)しているのかもしれない。
私も長くいると、きっと……怖くなって身震いした。
曹操の足が止まる。
他の天幕よりも二倍程大きい。
こんな立派な天幕を、私の為に用意したと言うの?
曹操に促されて中へ入ると、天幕内とは思えない豪奢な内装に固まった。
下には高そうな毛皮が敷き詰められ、高そうな真新しい調度品が配置され、二台の寝台も天蓋や紗幕も付いていて――――多分私と姉様を迎えるつもりで用意しているのだろう。
私は愕然とした。
まさか急がせておいてこんな物も兵士に運ばせていたの?
そんな、嘘でしょう!
満足げな曹操を振り返り、しかし何も言わずにおく。
「他に何か要望があれば、兵士に申しつけてもらえれば対応しよう」
「……お心遣い、感謝します」
呆れるより、軽蔑するより、曹操という男の意図が全く分からなくてただただ混乱した。
曹操が去って、もしやと思って部屋中を確認すれば。
上等な生地の服に、珠玉をふんだんに使った煌びやかな装飾品。どちらも数え切れないくらいあった。
ただただ唖然とするしか無い。
「何なの……」
あの人、一体何のつもりなの?
私は寝台に腰掛け、深呼吸を繰り返した。
ここまで徹底的にもてなされたら、段々と本気なのではないかと思えてくる。
いえ、でも……嘘でしょう?
有り得ないわ。
姉様の器量に惹かれた孫策様とはまるで逆。混血と言うだけで、妻に娶ろうとするなんて。
あの人は何を考えているの。
独り、震え出す身体を抱き締めた。
「大丈夫……大丈夫……」
時間稼ぎをすると、命を落とす覚悟でここに来たのだ。
この世に死ぬよりも辛いことなどあろうか。
あるとすれば、姉様が不幸になること。
私が上手くやれば、呉が曹操に勝てば、姉様は守られる。
自分に言い聞かせ、奮い立たせた。
――――なのに。
思わぬことに、私が何をしなくても曹操はいつまで経っても進軍を再開しようとしなかったのだ。
毎日毎日私の天幕に入り浸り、私の反応が薄いことに構わず様々な話をして、時間を無駄に過ごしていく。
時折武将が何事か相談しに来るけれど、けんもほろろに追い返す。私が大事な話なのでしょうと私が説得してやっと、自らの役目に戻る。
私が言うのも凄くおかしな話だけれど、女に溺れる男を間近で見ているかのような気分だ。
どうしてここまで混血に固執するのか、全く分からない。
訊ねてみても、
『いつか自ずと分かろう。私と共に在ることが、あなたに約束された至上の幸福であると』
なんて、訳の分からないことを返す。
曹操が何を考えているのか、何日と話しても一向に分からなかった。
少し踏み込めば吐露するかと思って、私の本名を教えた。
以来、彼は私を小喬ではなく◯◯と呼ぶようになった。あまり嬉しくはない。
でも、やはり私の知りたい情報は出てこなかった。
ただ曹操を喜ばせただけだった。
一日一日、日を追うごとに軍の中の空気は重たくなっていく。
勝ち戦に臨むところへ主君の気まぐれで気が削がれたのもあるし、何より食べ物に当たるか熱を出すかして倒れる兵士が増え始めているらしい。
また、主君に愛想を尽かして逃げ出す兵士も現れているという。
更に烏林の対岸にはすでに呉軍が陣を広げている。
こんな状況になって、曹操はようやっと進軍を再開する気になったそうだ。
天幕の端に寄れば、兵士の会話は筒抜けだ。
曹操軍の悲惨な状態がよく分かる。
もう、行軍が再開されてしまう。兵士の状態を思えば、恐らくその歩みは遅い。
呉はすでに対岸に陣を展開している。
準備はすでに整っているのだろう。
私も兵士の話を盗み聞きしたところでは共に烏林に行くことになる。
姉様のもとに戻れれば良いけれど、戦に巻き込まれて命を落とすかもしれない。
曹操軍の誰かにどさくさに紛れて殺される可能性もある。
あまり楽観視が出来る立場ではない。
でもまあ、これも覚悟していたこと。
曹操軍が烏林に落ち着けば、私の役目はそこで終わる。後はただ、成り行きに任せるしかないのだ。
‡‡‡
戦が、始まったらしい。
私は戦場から離れた場所に隔離されて、外に見張りの兵士がいる為に天幕の中で寝台に横たわって遠くの喧騒を聞くことしか許されない。
呉が負ければ、私は曹操の妻になるだろう。
姉様もきっと……。
お願い、負けないで。
やっと立ち直りかけている姉様を壊さないで。
ただただ、一心に祈り続けるしか無かった。
その祈りが通じたのかは分からない。
けど、外に立つ見張りの兵士が突然声を張り上げた。
『おい、見ろよあれ……火だ! 俺達の船が燃えてるぞ!!』
『何故だ、何故風向きが変わってる……!?』
兵士の切羽詰まった会話を聞き、天幕を飛び出した。兵士の横を過ぎて強い眩暈によろめいてその場に座り込む。
風向きがどうとか、私には分からない。
だけど、曹操軍の船の大半が炎に包まれているのは確かだ。
吐息をこぼした。
呉が、勝った。
姉様が助かる。
そう思った。
「船があんなにも、燃えて――――」
「ぐわあぁぁっ!」
「な、何者――――がぁっ!?」
不意に間近で悲鳴。
振り返ると見張りの兵士が二人共血飛沫を上げて地面に倒れた。
「あ……」
敵とは言え、人が殺される光景は恐ろしい。
微動すらしなくなった二人を茫然と見下ろした。
誰が……。
などと、考える時間は必要無かった。
不意に腕を掴まれ無理矢理立たされ、兵士から引き離された。
「小喬!」
周瑜様だった。
周瑜様の後ろには見慣れない猫族の――――劉備軍であろう男性が三人。
彼を見た瞬間、今度は安堵で膝から力が抜けた。また、その場に座り込んでしまった。
周瑜様は私の身体を抱き締め、頭を撫でた。
「もう大丈夫だ。怖い思いをさせてごめんな」
「周瑜様……」
私は死ななかった。
助けてもらえた。
そう思うと、視界が滲んだ。
……いえ、泣いている場合ではない。ここにはいられない。
けど、足に、身体に力が入らない。
仕方なく彼に支えられたまま小さく謝罪した。
「申し訳ありません。私達の所為で部下の方を二人も……」
「気にするな。アンタも大喬も、何も悪くない」
「それよりも」周瑜様は私の身体を上から下まで見て、眉間に皺を寄せた。
「その姿……」
「え、あ……ああ、これは曹操殿にいただいた物で……」
ずっと同じ服を着続けるのも嫌で、比較的地味な物だけ拝借していた。装飾品には一切手をつけていない。
周瑜様は不服そうに私の身体を見下ろし、
「……何もされていないか?」
「はい。話をしていたくらいで――――」
「周瑜! 曹操が来やがった!」
えっ、と劉備軍の男性が指差した方向には、確かに曹操が武将達を連れてこちらへ向かってきている。ただ、負傷していて足を引きずっており、武将もぼろぼろだ。私の目から見ても戦える状態ではなかった。
周瑜様は私を抱き上げてその場を急いで離脱した。
曹操が、私の本名を呼ぶ。
それに周瑜様が気付いて一瞬立ち止まりかけたけれど、劉備軍の男性に言われて、河を渡ってきたらしい船に乗り込んだ。
中に連れ込まれてすぐ、周瑜様に頭を叩かれた。
「何をなさるのです」
「オレ達の不注意が原因だが、アンタも帰ったら説教を覚悟しておくんだな。特に、大喬はきっと長いぜ」
「……っ! 姉様のお身体は?」
「今のところ、母子共に問題は無い」
姉様達は無事……良かった。
本当に良かったと、顔がにやけた。
――――これで、私が気にかけることは無い。
ここから離れなければ。
病んだ身体で彼らの側にはいられない。
曹操軍を蝕(むしば)んだ疫病は、私へも容赦なく牙を剥いた。
症状は兵士にまだ軽いものの、このまま戻れば私から疫病が広がっていく可能性がある。
だから、私が戻る訳にはいかなかった。
外の様子を確認しに行った周瑜様を見送り、私は彼らの目を盗んで船尾に立った。
深呼吸をして、呉の陣に向けて深々と頭を下げた。
そして――――。
飛び込む。
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