壱―2
怪訝そうに私の動きを追う周瑜様を無視して枕を退かす。服を半分程丸めて厚みが均一になるよう寄せた塊を、一着を残し、残りで包んだ。下に枕、更にその下に最後の一着を敷いてなるべく上半身を持ち上げる柔らかい枕に仕上げた。
横に洗った桶を置いて、唖然とする周瑜様を振り返った。
「周瑜様。横になっていただいてよろしいですよ。身体は仰向けに、顔は桶の方に向けて寝て下さい。……あ、その前にお召し物を着替えねばなりませんね」
「ちょっと待て。アンタ、それ自分の服だろ?」
「私が実家から持ち込んだ服ですので、汚れても構いません」
「いや、逆だろう!」
「服ならまだありますから気にしないで下さい。では、くれぐれも無理はなさらないで下さいましね」
「おい待てって――――」
黙殺し、足早に部屋を出て扉を閉めた。
明日はここの掃除をしよう。
今日のうちに掃除しないと血が取れなくなってしまうかもしれないが、彼の側で埃を立てる訳にはいかない。
ああ、あとお医者様に相談して、薬も処方していただかなければ。
晴れたら屋敷中をもっと念入りに綺麗にしよう。出来る限り埃を無くさないと。
夜にまた様子を見に行かなければ。その時には桶も変えたい。
確か評判のお医者様が柴桑の南西の隅にいるという話があった筈。
その辺りに行ってから人に訊ねれば分かるだろうが、掃除の時間も確保したいからあまり時間はかけられない。
だとすると朝餉はいつもより早めにして――――。
「――――ああ、食材も買い足しておかなくては」
明日、晴れてくれると有り難いのだけど。
‡‡‡
翌日、快晴。
周瑜様が起きていないうちに念の為野菜を噛まなくても良いくらいに柔らかく煮込んだ朝餉を部屋に運んで、残しても構わないとの書き置きを添えて屋敷を出た。
医者ではない私の中途半端な知識での判断だから、間違っている部分は周瑜様ご自身で対処してもらうようにしよう。
頭巾で耳を隠し、街中を走って柴桑の南西へ至る。
朝から迷惑をかけて嫌がられることを覚悟して人に訊きながらお医者様の家を見つけ出す。
お医者様はかなりのご高齢で、私を快く迎えてくれた。
周瑜様――――とは一応伏せて症状だけを話し有効な薬は無いか相談すると、患者を直接診られないかと問われた。
昨日の周瑜様の態度を思うと、多分難しい。猫族でありながら都督という立場にいることもあって周りに弱みを見せられないのかも。
本人と相談してみるとだけ伝えて、取り敢えず薬を、種類を幾つか頂いた。
想定よりも高めになった代金を払い、今度は市場へ。
活気づき始めた市場の雑踏に紛れて食材の買い出しに移る。
周瑜様が屋敷で食事を摂る可能性も考えて、いつもより多めだ。
顔見知りになった野菜売りのお婆さんにちょっとだけまけてもらって、両腕一杯に抱えて人並みを縫うようにして進んだ――――。
「小喬!」
「?」
足を止めて周囲を見渡す。
不意に、私を呼ぶ男性の声が、女性のはしゃいだ声に重なって聞こえた気がする。
周瑜様の声に似ていたような……でもあの人は屋敷で休んでいるんだからいる筈がないわよね。
気の所為、気の所為と前に視線を戻す。
両手を荷物に塞がれ、逆方向に歩く人と身体を擦り合わせながら何とか前へ進み帰宅を急いでいると、
「小喬、待てって言ってるだろ!」
後ろから肩を掴まれて引き止められた。
驚いた。
周瑜様だった。
愛らしい女の子を三人も引き連れて。
病み上がりなのに、もう女の子との逢瀬ですか。そうですか。
私だって、許せないことはあります。
周瑜様の腕に細腕を絡ませ襟から除く谷間をわざと私に見せつけてくる女の子に、きょとんとした顔で明らかに私を値踏みしてくる女の子、それから三人の中で一番分かりやすく私を見下している女の子達を見、周瑜様を見上げる。
「申し訳ありませんが……どちら様でしょう?」
「は?」
「では、私、先を急いでおりますので」
関わらない方が身の為だと思った。
なので困惑する周瑜様に頭を下げ、小走りに雑踏に混ざった。
昨日の今日であんな埃っぽい市場を女の子達と彷徨けるとは、私が思うより深刻な病ではないのだろうか。
いや、でも咳に血が混ざってたし……素人目には深刻だとしか思えない。
薬、部屋に置いておこう。
注意書もお医者様が一つ一つに書き添えてくれている。それを読めば大丈夫。
屋敷に帰ればやっと、頭巾を外せる。
てきぱきと食材を片付け、急いで掃除に取りかかる。まずは周瑜様の部屋だ。
周瑜様の生活空間は徹底的に掃除して、埃も舞わないようにしないと――――と思うものの、昨日に比べるとやる気がちょっと下がってしまっている。
当の本人が市場で女の子を数人侍らせて歩いているのを見たら、誰でもそうなると思う。
昨日の私は、余計な世話を焼いた感が否めない。
古着に着替えて周瑜様の部屋に入った私は、中が昨日よりも綺麗にされているのに衝撃を受けた。
血の跡も多少床に染み込んでしまっているものの、ぼんやりと見える程度に消えていたし、部屋全体を見渡した時自然に見えるよう敷物で上手く隠されていた。
その為に調度品も動かされている。
昨日様子を見に来た時は部屋は周瑜様が倒れた状態のままだった。
今朝私が出かけた後に一人で掃除したのだろう。
私の服も全て周瑜様に処分されたみたいだった。
「本当に、一日休んだだけで元の通りに元気になってるのね……」
正直、少し腹立たしい。
必要無いのではないか思ったけれど、買ってきた薬を机上に置いて部屋を出た。
もしかしてと思って廚に行けば、食器も片付けられている。私が朝餉を作らなくても良かったのではないかとやる気の目減りが加速して脱力した。
「もう良いわ……畑に行きましょう」
今日は掃除なんてせずに、畑に付きっきりでいよう。
どうせ、あの女の子達と過ごして遅く帰ってくるのだろうし。
今日からいつも通りの日常に戻るならば、きっと掃除をしても何をしても無駄に終わるだけ。
結局無駄にならなかったのは、彼の姿勢を保つ為に集めた私の服と、願わくは薬。
溜息が漏れた。
周瑜様が帰ってきたのは丁度私が夕餉の支度に取りかかった時だった。
少々気まずそうな顔で、彼は廚に入ってきた。
「小喬」
「お帰りなさいませ。夕餉は食べていらしたのですか?」
「いや……まだだ」
「左様でございますか。分かりました。出来次第私が自室にお運び致しますので、それまでおくつろぎ下さい」
そう言えば周瑜様も、私のこと『小喬』って呼ぶのね。
今更そんなことを思う。このままじゃ自分で自分の名前を忘れてしまいそうだわ。
調理に戻ると、周瑜様は立ち去る気配が無い。
そのうちいなくなるだろうと思って気にせずにいると、
「……誰かに話したか?」
「朝のうちにお医者様に相談させていただきました。周瑜様と特定されないように話しましたが、お医者様は本人に診断を受けて欲しいと仰っておいででした。お受けになるのでしたら、屋敷にお招きすることも出来ますが、どうされますか」
「いや、要らない。オレのは医者にはどうにも出来ないんだ」
「分かりました。ですが薬をいただいて来ましたから、一応お試し下さい」
「薬ね……分かったよ」
淡々と返しながら、手は忙しなく食材を切る。
やはり、彼は病のことを誰にも知られたくはないようだ。
医者には治せないというのは少し気になったが、私が突っ込んで良い話ではなさそうだ。
「周瑜様の病について他言無用のこと、承知致しました。お休みになられたら如何ですか」
「……そうする」
ようやっと、周瑜様は部屋に戻っていった。
まだ何か言いたげのご様子だったけれど、結局言わなかったのだから大したことではなかったのだろう。
「昨日の今日なのだし、念の為、朝と同じような料理にしておくべきかしら……」
呟き、私は切ってしまった食材を見下ろし、献立を考え直した。
‡‡‡
これは、一体どういうことなのだろう。
屋敷で倒れたあの一件から、周瑜様は頻繁に、しかも外食せず寄り道せず早い時間に屋敷に帰ってくるようになった。
加えて、やたらと私に構ってくる。前よりも会話を長く続けようとする。
最初は私が他言しないか疑念があるからかと思ったのだけど、どうも、そんな風には見えない。
かと言って私を妻として扱おうとしている風でもない。
周瑜様の意図が掴めないまま、私はただただ戸惑った。
そして、それから一ヶ月も経たないうちに、私は姉様の侍女として城に勤めることに。
理由は、孫策様の戦死だ。
孫策様の死を知った姉様は酷く落ち込み精神的に不安定になってしまった。
このままではお腹の子にも悪い影響が出てしまいかねないと言うことで、私が姉様の側にいることになったのだった。
結婚してから二・三度しか会えていない姉様は、見違えて窶(やつ)れ、すぐにでも孫策様の後を追いかけていってしまいそうだった。
私と久し振りに顔を合わせても、口では嬉しいと言っていても、顔も目も、悲しみで暗く陰ってしまっていた。
そんな痛々しい姉様が哀れで、何としても子供と姉様は孫策様の分まで生かさなくてはと、私は姉様と色んな話をした。
孫策様の話になると情緒が不安定になるけれど、私は楽しい思い出なのだから忘れてはいけないと、孫策様との思い出も姉様に話させた。勿論、彼女の様子に細心過ぎる程の注意を払いながらだ。
周瑜様も、孫策様の跡を継いだ孫権様の補佐として忙しく、私達はほぼ顔を合わせなくなった。
代わりに姉様の様子を見に部屋にやってくる尚香様と仲良くなった。周瑜様の話にかなりの頻度で出てくる所為か、初対面という感じはしなかった。
天気が良い日には尚香様と私とで、姉様を外に連れ出しもした。
姉様の悲しみは、私の想像を遙かに超えて深かった。
だけど時間はかかっても、ちょっとずつ、ちょっとずつ、姉は顔に感情が出てくるようになったし、自分から孫策様の話をするようにもなっていった。
亀よりも遅いけど、それでも確かに姉様の傷は癒されている。
その間に、呉も厄介な問題に直面していた。
河北を手中に収めた曹操が、いよいよ南下してきたのだ。
周瑜様と孫権様が身分を偽り幽州の猫族、劉備軍と接触して同盟を結ぶかどうかを考えているらしい。
二人が城を留守にしていたと、帰還の報せを受けて初めて知った。
曹操の軍は精強だ。
陸の上での戦いではまず勝てない。
水上戦なら有利でも、圧倒的な数の軍勢で到来するという話だから圧し負ける可能性もある。
曹操から事実上の降伏勧告を受け、呉は抗戦か降伏かで対立していると尚香様が教えてくれた。
ただ、これは彼女が知らなかったことで、曹操からの書状には、何故か私達のことも書かれていたらしい。
それを、今目の前に座る文官に知らされた。
「喬玄の娘、大喬、小喬を差し出せ……と」
「そうです」
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