「そいつに触るな!!」


 背後で誰かが怒鳴った。

 振り返るよりも早く、私は腕を掴まれ後ろに引かれてしまった。

 誰かも分からぬまま抱き締められ、目の前に刃が見えてぎょっとした。
 けれどそれが見覚えがある物だと気付き、安堵から身体から力が抜けた。


「周瑜様……」


 身をよじって見上げると、周瑜様は目を細めて、


「大丈夫か?」

「はい。よろめいたところを、こちらの方に助けていただいて……」


 だから危険な方ではないと武器を納めてもらおうとした私は、先程見えた光景に口を噤んだ。

 血を流して倒れた兵士。
 その前に立っていたのは彼だ。
 多分この人が兵士を斬りつけたのだと……思う。

 じゃあ、あのままあの人に身を寄せていたら私もあの兵士みたいに――――ぞっとした。

 思わず周瑜様の服にしがみつくと、腕の力が少しだけ強まった。


「張遼。また小喬を攫(さら)いに来たのか?」

「いいえ。曹操殿に命じられて呉の様子を見に来ました。これで三度目になります」


 張遼と呼ばれたその人は、まるで親しい人と世間話をしているみたいに、朗笑を浮かべてあっさりと答えた。

 周瑜様が舌打ちする。

 私は、張遼さんの口から出た名前に、突然心臓を刃物で突かれるような感覚に襲われた。


「そうそう……」


 曹操。

 それは柴桑で聞いた、大軍で呉を攻めたという男の名前だった。
 柴桑では何も思わなかったけど、どうして……張遼さんがその名前を口にした途端、とても怖くなった。
 会ってはいけない、関わってはいけない人だって、分からないのに強く強く警戒している。

 私の様子に気付いた周瑜様が、「小喬?」私を呼ぶ。

 けれど、私は言葉を返せなかった。
 声を出せなかった。
 曹操という名前が怖くて、身体が震えている所為で、咽が上手く機能してくれない。

 どうして、こんな、いきなり……。


「小喬。アンタ、まさか……」


 周瑜様が僅かに声を震わせる。
 彼の腕が私を放そうとした瞬間、私は縋るように身体にしがみついた。

 放されたら、張遼さんに曹操という人物のもとへ連れて行かれるのではないか、記憶も根拠も無いのに強い危機感を抱いたからだ。

 私のこの行動は周瑜様の邪魔になるだろう。
 そのことに気付いた時には周瑜様の腕に再び力がこもり、慰めるように頭を撫でられていた。


「張遼。こっちも取り込み中でな。今回は見逃してやるが、今後簡単に呉の領地を歩けると思うな」


 本当なら、周瑜様にとって張遼さんはここで捕らえるべき相手なのだろう。
 私が邪魔をしているから、追い払うだけに留めている。
 敵愾心(てきがいしん)に堅く張り詰めた低い声で脅す周瑜様に、申し訳なくなった。だけど、身体の震えは未だ止まず、心臓もざわざわと不安がって早鐘を打つ。

 張遼さんの反応は、やはり酷くあっさりとしたものだった。


「……そうですね。あなたに見つかってしまった以上は、内情を探るのは難しいでしょう。致し方ありませんね」


 振り返ると、張遼さんは私に微笑みかけて一礼し、きびすを返した。慌てた様子もなく街道を歩いていく彼の姿は呉の要人に見つかった間諜と思うにはあまりにゆったりと優雅で、少し不気味に思えた。

 でも、それでも曹操という人の方が恐ろしいと思うのは、どうしてなのだろう。
 私は失った記憶の中で、彼に一体何をされたの?

 湾曲した街道に向かった張遼さんの姿が見えなくなって、安堵すると同時に足から力が抜ける。
 崩れた身体を周瑜様が支えながらゆっくりと座らせてくれた。
 抱き締められ、頭を撫でられた。


「大丈夫か?」

「は、い……」


 胸を押さえて深呼吸を繰り返す。
 落ち着いたところで、


「あの……曹操という方は、どのような方なのでしょう」


 周瑜様に、訊ねた。


「……思い出したのか?」


 周瑜様の眉間に皺が入り、声も先程のように低くなる。

 私は張遼さんと会った時に見たもの、曹操という名前に感じたことを話した。


「でも、私……柴桑でその名前を聞いた時は、何も思わなかったんです。なのにさっき張遼さんの口にした瞬間、凄く……凄く怖くなって……」

「……張遼を見て思い出した記憶の所為じゃないか?」


 周瑜様曰く、私は……小喬さんは、姉と故郷へ避難する道途で張遼さんに襲われ、曹操のもとへ連れて行かれたのだそうだ。
 もしかしてそれって――――小喬さんが曹操を籠絡して進軍速度を遅めたという……?

 ぞっとした。


「私……それじゃあ、私が小喬さんだとするなら、私は……その人に身体を……」


 捧げたということ?
 どくり、心臓が跳ね上がった。

 震え出した身体を抱き締めて周瑜様を見上げると、彼は真顔になって首を左右に振った。


「それは違う。捕虜の話では、曹操はアンタに手を出していない」

「え……」

「曹操は相当手厚くもてなしたらしいが、小喬は靡(なび)かなかったらしい。小喬のもとで一夜を明かすことは一度も無かったと聞いている。それは、ただの民衆の想像だ」


 周瑜様は力強く、はっきりと断じる。

 でも、どうしても不安は拭えなかった。
 そもそも自分では本当に小喬という女性なのかさえ定かではない……。
 俯くと、また頭を撫でられた。


「そのうち、思い出すさ。それよりも今は心杏をどうするかだ」


 周瑜様の言葉に、私ははっとして立ち上がろうとして、痛んだ足にまた崩れてしまった。


「無理するな。心杏はオレが捜しに行くから、アンタは屋敷で休んでな」

「いいえ。休んでなんかいられません。あの子は私が見つけなければ……」


 支えられて立ち上がる。
 抱き上げようとするのを拒み、すでに何処に行ってしまったのか分からなくなった心杏を追いかけようと足を踏み出す。

 けれども、


「駄目だ。心杏を見つけてもその足じゃまた逃げられて、足を悪くするのがオチに決まってる」


 周瑜様は、頑なに許してくれなかった。
 それでも強引に進もうとすると、


「じゃあ、馬に乗って捜す。それなら良いだろ?」


 仕方なさそうに言われて、少しだけ考えた。

 馬なら……遠くまで捜しに行ける。見つけたら逃げられても追いつけそうだ。


「それなら……」


 頷くと、彼はほっとした。


「それなら、急いで戻るぞ」

「はい。――――ひゃっ!?」


 不意に抱き上げられ、頓狂な声を上げた。
 突然の浮遊感に思わず首に抱きついてしまい、謝罪して離れた。

 周瑜様は苦笑いを浮かべて、そのまま抱きついていろ、と。


「ど、どうしてですか?」

「走るから」

「走る?」


 周瑜様は再び私に抱きつくように言って、首に腕を回したのを確認すると本当に走り出してしまった。

 大きく揺さぶられて、恐怖心から自分から周瑜様にしがみつく。



‡‡‡




 私の足を手当てした周瑜様は、急かす私に怒りもせず、本当に急いで城から馬を借りて来てくれた。
 周瑜様に抱き込まれるように馬に相乗りして、再び柴桑を出た。

 私に、心杏の走り去った方向だけを確認して、周瑜様は馬を走らせる。

 馬に乗るのは、記憶を失ってからは初めてだ。
 周瑜様に抱き上げて走られた時以上に、上下に揺さぶられる。口を開けると舌を噛んでしまいそうで怖い。

 どれくらい歯を食い縛っていただろうか。
 ふと周瑜様が馬を止めた。
 「いた」囁く。

 鬣(たてがみ)を握り締めて横に身を乗り出し、前方を見ると、竹林の奥に彼女らしい姿が確かに見えた。
 思わず心杏の名を叫ぼうとして、後ろから周瑜様に口を塞がれてしまう。


「静かに……心杏だけじゃない」


 温かい息が首筋にかかって総毛立つ。
 周瑜様の言葉に身を堅くし、目を凝らした。

 すると確かに、座り込んでいる心杏から少し離れた藪の中に、数人の男が藪隠れている。

 彼女を示し、何か相談し合っているようだった。
 彼らのいやらしい笑みに、嫌悪感に身体がざわついた。

 凄く嫌な――――危険な人達。


「あの人達……」

「大方、心杏を捕まえて、売り飛ばすつもりなんだろうな」


 周瑜様は一旦馬を後退させて、大きな岩の側に私をおろした。


「アンタはここにいろ。まずオレが心杏を捕まえたらアンタに預ける。あいつらはオレが片付けるから、その間アンタは心杏とここに隠れてろ。良いな」

「わ、分かりました……お気を付けて」

「気を付けるのは、アンタ達だ」


 私の頭を軽く小突いて、周瑜様は身体を反転させた。
 後ろ姿だけれど、彼の周りの空気が変わったのが分かった。ぴんと堅く張り詰めて、話しかけるのも躊躇われるくらい。

 私は口を引き結んで、小走りに心杏に近付く周瑜様を岩影から見送った。
 ここからでも、辛うじて心杏や不審者達の動向が見える。

 心杏は、近付いていく周瑜様に気付く様子が無い。

 いえ……もしかしてあの子、眠っている?

 目を凝らせば彼女の頭がかくん、かくん、と船を漕いでいるのが辛うじて分かる。

 あんな状態で、もし見つけるのがもう少し遅かったら――――。
 心臓が締め付けられるような感覚に、身体が強ばった。

 周瑜様が側に立って、肩を叩いてようやっと起きた。
 跳ね上がった身体が慌てて周瑜様から逃げようとしたのを、周瑜様にすぐに捕まって強引に私のもとへ引きずられるように連れてこられた。


「は、放せ! 放せったら!」


 もがく心杏を私に押しつけ、拳骨を落とす。鈍い音がした。
 相当痛かったのだろう。心杏は頭を抱えて丸くなる。

 私は小さくなった心杏を抱き締めて、厳しい顔の周瑜様を見上げた。


「そ、そんな乱暴な……」

「小喬。心杏をしっかり捕まえて、岩影から絶対に出るなよ」

「あ、周瑜様……」


 周瑜様は足早に竹林へ戻っていく。

 痛みに半泣きになって呻く心杏を抱き締めて背中を撫でてやりながら、私は竹林の様子を窺った。


「くそ……何なんだよぉ……っ!」

「心杏。あなた、怪しい人達に狙われていたのよ」

「は? 何言って――――」


 その時だ。


「ぐあぁぁっ!」


 濁った悲鳴が聞こえた。

 私は驚いて、心杏をより強く抱き締めて身を震わせた。
 まさか、殺しているのでは?
 不穏な考えが頭をよぎる。
 音も臭い温度も無い、過去の記憶で倒れていた兵士を思い出し、ぞっとした。

 動揺する私と違い、心杏はとても冷静だった。


「殺してないよ、あの人」

「え?」


 腕の中の心杏を見下ろすと、呆れた顔をしていた。


「あれ、死ぬ人間の声じゃない」

「そ、そうなの……?」

「死ぬ人間の悲鳴は、散々聞いてきたし」


 言って、私から離れようとするのをすぐに腕に力を込めて阻止する。
 不機嫌そうな顔で私を見上げてくる。


「私から離れないで。危ないわ」

「何で。あたしはあんたを利用したんだよ。あんたと親子じゃないんだ」


 そこで心杏は一旦口を閉じ、視線を下に向けた。


「それに……怪我させたし」

「手当てはもうしてもらっているから大丈夫。上手く受け身が取れなかったこともあるし、気にしなくて良いのよ」


 心杏は私を見上げて、すぐに顔を逸らした。


「……何で追いかけて来たんだよ。他人なのに」


 ぼそっと言うのに、私はすぐに言葉を返した。


「私はあなたのお母さんではないけれど、病み上がりの身体で突然何処かに走って行ってしまったら心配になるのは当然じゃない。あんなに走って大丈夫だった? 何処か痛いところとか、息が苦しいとか無い?」

「平気」


 けんもほろろに答えて、心杏はまた暴れ出す。
 何とか逃がすまいと腕に力を込めて捕まえていると、不意に拳骨が心杏の頭頂に落ちた。


「痛ぅ……っ!」

「暴れるな。小喬にまた怪我をさせるつもりか?」


 子供を叱りつけるように言うのは、周瑜様だ。
 少しだけ疲れたような顔をした彼の身体を咄嗟に上から下まで確認した。
 衣服に乱れは無く、目に見える場所に怪我も無い。
 返り血も浴びていないことにほっとした。


「お疲れ様でした」

「ああ。全員身ぐるみ剥いで木に縛り付けておいたから、後でうちの兵士に回収させるよ」

「殺せば良いのに」

「お前達が側にいるところで血生臭いこと出来るか」


 心杏は鼻で笑う。

 周瑜様は心杏の頭を撫でるだけに留めてそれ以上の反応を返さず、「帰ろう」とまず心杏を馬の上に、その後ろへ私を乗せた。
 手綱を持ち、周瑜様が馬を引いて元の道を戻る。

 その間も心杏が逃げようとした為私は後ろから彼女をしっかりと抱き締めて放さなかった。

 遅い歩みで、柴桑に着いたのは日が暮れた後。

 心杏と手を繋いで屋敷に近付くと、何故か明かりが点いている。
 私と周瑜様は顔を見合わせた。


「周瑜様。他に住まれている方がいらっしゃったのですか?」

「いや。小喬とオレの二人暮らしで……」

「さっきの女の人達なんじゃないの?」

「それはない」


 軽蔑しきった心杏を振り返って、真顔の周瑜様。

 心杏は「どうだか」と鼻を鳴らして顔を逸らした。
 周瑜様と親しい女の人達がいらっしゃるのなら、私達は邪魔になる。

 心杏を見下ろして、周瑜様を呼んだ。


「私達、外で野宿をしましょうか?」

「だから違うって言ってるだろ! 小喬が嫁いでくる時に用意されたこの屋敷は、オレと小喬以外出入りしない」


 では、今屋敷には一体誰が……。
 周瑜様はひとまず自分が先にと、私達と馬を残して屋敷の中へ。

 私達を屋敷に送ってから城へ馬を返し、心杏を狙っていた男達を回収するよう兵士を派遣する筈だったのだけど……。
 馬を見上げ、


「厩に帰るのはもう少し先になりそうね」


 馬は、ぶるると首を振った。

 馬の鼻を撫でていると、屋敷の中が俄(にわか)に騒がしくなる。
 どうやら、周瑜様が中にいる方と口論しているようだ。


「大丈夫かしら……」


 中に入ってみようと玄関に近付くと、


『大喬! 良いからここはオレに任せてろって! 小喬は今――――』


 周瑜様の大声のさなかに、扉が開かれる。
 飛び出してきた女性に、私達は驚き、数歩後退した。


「小喬さんにそっくり」


 心杏が、言う。

 私は茫然とした。
 目の前の、頭に猫の耳を持つ黒い瞳の女性が、似ているのかいないのか――――そんなことよりも。


 私、この人を知っている気がする。


 ずっとずっと前から、子供の頃から――――。


「あ、の……」


 絞り出した声は上ずっていた。

 その人は顔を歪めた。
 唇を引き結んで私を、心杏ごと抱き締めた。強く、強く。息苦しいくらいに強く。

 そして、震える声で、


「◯◯……!」


 《私の》名前を呼んだ。


「◯◯……◯◯……」


 そう。それは私の名前だ。間違い無いと、確信があった。
 記憶も無いのにどうして?

 繰り返して確かめる私の頭の中が、突如弾けた。

 全身から力が抜けていく――――。



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