参
※名前変換ありません。
遠くで、姉様が小さなやや子を抱いて笑っている。
側には尚香様や孫権様がいる。
周瑜様は仕事中なのだろう。何処にもいない。
とても幸せそうだ。
良かった。
本当に。
劉備軍と同盟を結んだ呉は曹操に勝った。
この乱世、曹操に対する為に結んだ同盟も今後どうなるかは分からない。楽観視出来る程私も頭は悪くない。だけど、姉様にはずっと安心して孫策様の妻として、子供を育てて行って欲しい。
やや子の性別はどちらだろう。
ここからは見えない。
近付こうか。いや、止めておこう。
私は、ここにいるべきではないもの。
‡‡‡
ここは何処だろう。
見慣れない、やや傾いた廃屋の中、私は目覚めた。
少しだけ、身体が怠い。
頭を怪我しているようで、何かの布を細く裂いた物が、包帯のようにぐるぐる頭に巻かれてあった。後頭部を押さえると、鈍い痛みがある。
それでも起き上がって外に出た。
森の中だ。
密集した木々の隙間から辛うじて見えるのは、大きな河、みたい。
背後――――廃屋の向こうは日が届かず、奥に行けば行く程、闇が深まっている。
「……どうして、私はここに?」
誰にともなく問うて、はたと気付いた。
私は、ここに来る前に何をしていたの。
思い出せない。
何も。何もかも。
ちょっと、待って。
自分の名前すら、分からない――――。
すうと全身が冷えた。
嘘よ、そんな訳がない。
ただ忘れているだけだわ。きっとそう。
自分で頭を殴り、思い出せと促した。
でも、駄目。
名前も、故郷も、思い出せない。
それは頭を打った所為、なのだろうか。
不安でどくどくと心臓が早鐘を打つ。
どうしよう。
思い出さなければ、帰れない。
「どう、すれば……」
良いの。
その場に座り込んで自分の身体を抱き締めた。
その時だ。
右手から、枝の折れる乾いた音がした。
すぐに反応して顔を上げると、そこにはざるを抱えた女の子が一人。
歳は、十歳にも達していないだろう。
ぼさぼさの頭には垂れ気味の獣の耳があり、窶れていることもあって金色の丸い目が今にも零れ落ちそうに浮き上がっている。
人間……じゃない。
「あなた、その、耳……本物?」
女の子は怪訝そうに顔をしかめた。
「そっちも似たようなの持ってるじゃん」
「え?」
そんな筈ないわ。
だって私は人間――――。
「包帯で押さえつけてるから隠れてるだけ。丁度薬を塗らなきゃいけなかったし、すぐに分かるよ」
女の子は何かの植物が載ったざるを私に見せ、廃屋に戻るように言う。
この子は、私が誰なのか知っているかもしれない。
些細な希望を抱いて、廃屋に入る女の子を追った。
彼女の言う通りだった。
包帯が取れた私の頭には、彼女とは違いぴんと天を向いた獣の耳が生えていた。
桶の水を鏡にして己の頭を確かめ、顎を落とした。
「本当……私、人間じゃないのね……」
「何言ってるのさ。今まで、普通に見たり触ったりしてきた筈じゃんか」
「……そうね。そうよね」
そう。
記憶を失う前は当たり前だったんだわ。
自分の、この姿が。
私の様子に、女の子は何かを察したらしい。
「どうしたの。何か、様子が変……」
「……ごめんなさい。何も思い出せないの。名前も、生まれも、何もかも」
訳を話すと、彼女は目を丸くした。
「記憶喪失?」
「ええと……そういう、ことになるのかしら」
記憶喪失の意味も理解するのが少し遅れた。
女の子は私の顔をじっと見つめて、目を細めた。
そして、責めるように言うのだ。
「……酷いよ、お母さん」
あたしの名前も思い出せないの?
‡‡‡
私の名前は希春憲、女の子の名前は希心杏と言うらしい。
き家のしゅんけん、しんあん……何度も声に出して繰り返すけれど、記憶に掠った感じはしなかった。
心杏は少し落胆していたけれど、頭に怪我をして河を流れてきた私が無事だっただけで十分だと言ってくれた。
彼女が言うには、私は後頭部に怪我をしていただけでなくどうやら病も罹患(りかん)していたようだ。
意識のない大人の女の看病なんて、子供一人では大変だったでしょうに……申し訳なくなって謝ると、生きていてくれてるから良いと落ち着いた声で彼女は言った。
心杏のお父さん、つまり私の夫は普通の人間で、心杏が幼い頃に亡くなっているらしい。
この世では、猫の耳を持つ者は猫族、蔑称で十三支と呼ばれている。
だから猫族の私と人間の夫の間に生まれた心杏は混血と言うことになる。
猫族は人間から忌み嫌われているから、私達はずっと親子で各地を転々としていた。
父親が死んでからは母と子二人で何とか生きていたのだけれど、少し前に賊に襲われたのを私が囮となって心杏を逃がした。
その後、私を捜していた心杏に発見され、今に至ると、そういうことらしい。
自分の種族すらも分からなかった私に、心杏はゆっくりと、細かく説明してくれた。
心杏は九歳という年齢の割に、随分と大人びていた。
私よりも人目を避けて生き抜く為の知識を沢山持っていて、私が彼女に助けられることの方が多かった。
記憶喪失になる以前は私の方がもっと詳しかったと言ってくれるけど、記憶喪失とは言え幼い我が子に助けられ続けるなんて、母親なのに情けなかった。
私の病が治って動けるようになってすぐ、私達は廃屋を発った。怪我はまだ完治していなかったけれど、近くに人間が彷徨いていたから移動せざるを得なくなったのだ。
あての無い旅の中で、心杏を見て少しずつでも失った知識を取り戻そうとした。
心杏は焦らなくて良いのにと気遣ってくれるが、それがまた申し訳なくて、必死になった。
何もかもが分からないと言って良い状態で、なかなか身につくものではなかった。
一年近く経っても、生きる為の知恵はついても、私の記憶は戻る気配を全く見せなかった。
その頃には心杏も、無理に思い出そうとしなくて良いと言うようになり、娘を裏切ってしまった罪悪感で押し潰されそうだった。
そんな情けない私が母親として心杏にしてあげられることは、心杏が甘えたがった時に目一杯甘えさせることと、街に寄って買い出しをしなければいけない時に私が耳を隠して買いに行くこと。
その日も安全な場所で心杏を待機させて、私が柴桑に出かけた。
「ええと……買わなければいけないのは……」
記憶を手繰りつつ、殷賑(いんしん)な雑踏を歩く。
と、不意に、
「小喬さんじゃねえか!」
「え?」
とある店の前で、呼び止められた――――ような気がしたけど、
「『小喬』……?」
首を傾げると、身体の凄く大きな店主も不思議そうな顔をする。
「え……あれ、小喬さんじゃねえのかい? 都督の周瑜様の奥方の……」
「あの……私、小喬ではなくて春憲と申しまして、旅の途中でこの街に……」
辿々しくも答えると、店主は一瞬呆けたようになって、肩を落とした。
「あー……はは、そう。そうだった……。小喬さんは死んじまってたんだった……悪いな。あんまりにそっくりだったんで、実は生きてたんだと思っちまった」
乾いた笑声を漏らして、店主は私に頭を下げた。
きっと、その小喬と言う人は、とても良い人だったのだろう。
小喬さんの死を心から惜しんでいるの姿から、そう思った。
安易に励ます言葉はかけられない。代わりに予定には無かったけどその店で買い物をして離れた。
でも……どうしてか、小喬という名前にも、都督の周瑜様という方にも、どうしてか引っかかった。
初めて聞く名前の筈なのに、何故か、聞き覚えがあるような不思議な感覚を覚えた。
私は、小喬さんによっぽどそっくりらしい。行く先々の店で小喬さんと間違えられた。
別人であることを説明するにつれ、私の中で引っかかりは痼(しこ)りのように大きくなっていく。
今の私は記憶喪失で、心杏に助けられる以前のことを全く覚えていない。
小喬さんや周瑜様のことが引っかかるのは、もしかして私の記憶に関係しているからでは?
そう思って、それとなく二人のことを聞き出した。
小喬さんは、とても美しい女性だったそうだ。その美貌故か外を歩く時は私みたいに頭巾を被っていた。
対して周瑜様は、純血の猫族にしてこの呉の総都督。女性に脇が甘いきらいがあり、いつも違う女性と街を歩いていたらしい。小喬さんがそれを目撃することも少なくなかったとか。
それが、およそ一年前に小喬さんが亡くなってからは周瑜様はぱったりと女遊びをしなくなったという。
当時、呉は北の曹操の脅威に晒され、北から逃れてきた十三支と同盟を結び、不利ながら対決の姿勢をとっていた。
だが曹操軍は異様な速度を以て烏林に迫っており、これでは大戦に向けての準備が整わず、負けてしまう。
それを、曹操軍へ単身赴いた小喬さんが何をしてか、行軍を著しく遅らせることで連合軍を勝利へ導いたのだ。
火計によって燃え盛る敵船団を抜けて周瑜様が救出したものの、小喬さんは帰還する船から身を投げ、行方不明となった。
何故小喬さんが入水したのか明確な理由は明らかにされていない。街の人々は、その美貌で曹操を籠絡し身を捧げることで進軍速度を遅らせたから、彼女は自ら命を絶って周瑜に詫びたのだと思っているようだ。だから、周瑜様は小喬さんの自己犠牲に報いる為に女遊びを止めたのだと。
話を聞いている間、私はずっと胸がむずむずして止まなかった。
やはり、私はこの二人を知っているのかもしれない。
小喬さんは亡くなっている。でも周瑜様に会えたら――――と思ったけれど、残念なことに周瑜様は今、水賊の討伐でこの柴桑にいない。
そもそもいたとしても、同族とは言え気安く会えるような立場の方ではない。
心杏にこのことを話してから、また考えましょう。
ようやっと得られた手がかりが嬉しくて、大急ぎで買い物を済ませ、駆け足に心杏のもとへ戻った。
心杏は河の畔にいた。
私の気配を察知して振り返り、「お帰り」と笑う。
「ただいま。心杏。何をしていたの?」
「船を見てたんだ」
目の前には、確かに孫家の旗をはためかせる船が何隻も列をなしている。
彼らの行く先は恐らく柴桑だろう。
水族の討伐から戻っているのかも。
「心杏。あの船のどれかに猫族の男の人、いないかしら」
「何で?」
不思議そうに首を傾ける心杏に、記憶の手がかりが見つかったことを話した。
「周瑜という方に話が聞けたら、何か思い出せるかもしれないと思うの」
「そう……なんだ……」
心杏の顔が暗くなる。
どうしたのと問いかける前に川に背を向け――――。
その時だ。
「小喬!!」
怒鳴るような声が聞こえた。
ああ、また誰かが私を小喬さんと間違えているのだわ。
河の方から聞こえてくる。
やっぱりあの船、呉軍の船なのね。
船を見て、私は驚いた。
縁から身を乗り出すのは、心杏と良く似た形状の猫の耳を持った若い男性だった。
私を何度も小喬と呼ぶ。
あの人が、周瑜様なのだろうか――――。
ちく、と胸が痛んだ。理由は分からない。
私は小喬さんではありませんよと教えてあげようとした私の手を心杏が握った。
「行こう!」
「え? でも、きっとあの人が周瑜様ではないかしら」
「人間が一杯いるから行こうってば!」
心杏は泣きそうな顔で私を引っ張る。
「待てって! おい、聞こえないのか!? 小喬!!」
「振り返っちゃ駄目!!」
「し、心杏……? どうしたの?」
どうなっているの?
心杏がここまで人間に怯えている姿は見たことが無い。
もしかして、呉軍に属する人間に何か嫌なことをされた……?
でも、それなら呉軍の船なんて眺めるかしら。
それに、柴桑に行く前のこの子は普段通りの態度だった。
こんなにも怯えるのなら、どんなに隠しても片鱗くらいは覗く筈。
心杏は大人びて感情を押し殺したがるけれど、完全に隠しきれないこともある。感情が剰(あま)りに強い場合は、特に。
だから私も普段から心杏の様子は気を付けて見ているつもりだ。
なのに気付かないなんて……見逃したとは、私には考えにくいのだけど。
心杏の態度に戸惑いながらも問い質(ただ)すことは後にして、彼女をもう止めずに従った。
森に入り、深い場所まで進んで彼女はやっと足を止めた。
お互い体力の限界ぎりぎりで止まったものだから側の大木の幹に寄りかかって座り込む。
息が整うのを待って、心杏は私に抱きついた。
「お母さんはお母さんだよね」
「そうよ。どうしたの? あなた、何に怯えていたの?」
「別に……呉軍に良い記憶が無いだけ」
「そうだったの……」
心杏の様子から、嘘だとは分かった。
ぎゅっと、いつもよりも強い力の心杏に何も言わずに、抱き締め返して頭を撫でた。
そうするうちに、彼女は眠ってしまった。
夕食は、心杏が起きてからにしましょう。
私は心杏を、私の膝を枕にして寝かせた。
買った物、幾つか落としてしまったかもしれない。確認も心杏が起きてからになるわね。
心杏の様子に違和感を覚えながら、私は彼女の頭を撫で続けた。
けれど、心杏が起きる前に、
「やっと見つけた……!」
「あ……」
周瑜様……らしき方が、汗だくで肩で息をしながらこちらに大股に歩いて来ていた。
心杏が寝ていることに気付くと、足を止め、静かに歩み寄ってくる。
前にしゃがみ込み、私の頭から頭巾を取り去った。
私の顔をじっと見つめてほっとした様子で笑う。
そして心杏を気遣って小声で、
「小喬……生きていたなら何故柴桑に戻ってこなかった」
「あの……」
「大喬達にどれだけ心配かけたと思っているんだ」
この人も私のことを小喬さんと間違えている。
私は苦笑して、
「申し訳ありません。私、その小喬と言う方ではありません」
「は?」
彼は目を丸くした。
「小喬じゃない……? 何言ってる、アンタは何処からどう見ても小喬だろ。オレの妻で、呉の孫策の妻大喬の妹の――――」
ああ、ではこの人は本当に周瑜様なのね。
動揺する周瑜様に、私は首を横に振ってみせた。
「柴桑でも、色んな方々に間違えられましたけど、私は希春憲と言う旅の者で、この子の母親です」
「この子供の母親だって……?」
周瑜様は心杏を見下ろし、眉間に皺を寄せた。
「有り得ない」と呟いた。
「アンタ……今何歳だ」
「確か……三十九歳だったかと」
「その顔で三十九? 若作りにも程がある。どう見たって二十歳にも届いていない顔じゃないか。それに、その子供とも全く似ていない」
「え?」
自分の顔に触れ、首を傾げた。
「自分の顔を見たことが無いのか?」
「私は、鏡を持っていません」
「水面に写るだろ」
「心杏が、私を水辺に寄らせたがらなくて……」
その理由は、私が囮となって心杏を逃した後河に落ちて流されてしまったからだ。
頭を怪我して、病にもかかっていて、記憶も失っていて……心杏はかなりの衝撃を受けたと思う。
さっきも、河の畔と言っても心杏は水際からだいぶ離れていた。私が何をしても絶対に河に落ちない距離を取っていた。
それを話すと、周瑜様の目がすっと細まった。
「記憶が無いのに、その子供の母親だって何故分かった?」
「心杏――――この子が、そう言っていましたから。子供が母親を間違えるなんて有り得ません」
周瑜様は、溜息をついた。
目にかかった心杏の横髪をそっと指で退けて、じっと見下ろした。
「確かに子供は、自分の親を間違えないだろうな。よっぽどのことが無い限り」
「ですから、」
「けど、わざと間違えることもあるんじゃないか?」
「え?」
周瑜様の目は、まだ心杏を見つめている。
「親を喪った衝撃は子供には耐え難い。遅れてやってくる喪失感や孤独感に追い打ちをかけられて、その後もずっとついて回る。心に空いた穴を埋めようとして、たまたま見つけた記憶喪失の他人に自分の親だと吹き込むのも有り得ないことじゃない」
「それって……」
そこで、彼は視線を上げて私を見据える。
懐から取り出したのは、細身の短剣。
鞘から抜く仕種に思わず心杏に覆い被さる私に、周瑜様は苦笑いを浮かべた。
「安心しろ。アンタもその子供も、傷付けはしない。この刃に写った自分の顔を良く見てみろ」
「……」
恐る恐る、私の目の高さに掲げた刀身に顔を近付けると、
「危ないからあまり近付けすぎるなよ」
刀身を少し引かれた。
私は頷き、刀身に写り込んだ自分の顔を見つめた。
良く手入れされている細い刀身には一部しか写り込まず、周瑜様がゆっくり動かしてくれなければ全ての部分を確認することは出来なかった。
私が顔を引けば、周瑜様は武器を収めて、
「三十九の女の顔に見えたか?」
「……いえ……」
「心杏に似ていたか?」
「……」
心杏を見下ろす。
私の感覚で言っても周瑜様の言う通りだった。
それだけならば、父親と似ているだけかもしれない。
だけど、記憶を失って初めて見た自分の顔は、主観的に見ても客観的に見ても、とても三十九歳の女の顔とは思えなかった。もしかしたら、周瑜様よりも年下かもしれない。
若作りなんてその日暮らしの私達にそんな余裕は無いし、生まれながらに童顔……と言うには無理があるくらい大きな差があった。
でもそれだけではないか。
年齢は心杏が間違って覚えていたのかもしれない。父親の年齢をはき違えた可能性だってある。
本当はもっと若くて、でも九歳の子供がいたって全くおかしくない範囲かもしれない。
この人はどうあっても私を小喬さんにしたいのだと、反発心から周瑜様を睨んだ。
すると、
「心杏の瞳は何色だ?」
「え?」
「いつも一緒にいるなら、瞳の色くらい分かるだろ」
「……き、金色です」
答えると、今度は周瑜様はご自分を指差す。
「オレの瞳は何色に見える」
「金色です」
「じゃあ、アンタは?」
「黒でした。でもそれは個人差なのでは――――」
その時だ。
一瞬だけ、自分の言葉に違和感を覚えた。
どうしてだろう……何となく、それは違うんじゃないかって、思った。
言い止(さ)した私に、周瑜様は言った。
「純血の猫族は皆金の瞳を持つ。黒い瞳の猫族は――――混血なんだ」
少しだけ、理解するのが遅れた。
「こん、けつ……って、それって、まさか、」
「アンタは人間と猫族の混血なんだ。そして、心杏は純血の、恐らくはオレと同じ荊州猫族――――」
「――――違う」
不意に、低い声。
寝ていた筈の心杏が弾かれたみたいに勢い良く起き上がり、周瑜様にぶつかる。
ただぶつかっただけではなかった。
周瑜様が目を剥き、心杏を突き飛ばす。
私は息を呑んだ。
「し、心杏……!!」
彼女の小さな手には、短剣が握られていた。刀身に赤い筋が網のように走った、短剣が。
それは父親が、護身用にと心杏に持たせた物だと、心杏本人に聞いたことがある。
周瑜様は立ち上がり脇腹を押さえてよろめいた。
「オマエ……!」
「違う! 違う! あたしは混血だ! お母さんは猫族で、この人なんだ!! 小喬なんて人じゃない!!」
短剣を握る手はがたがた震えている。
「今すぐ消えろ……あたしからお母さんを奪うならお前を殺す……!!」
「心杏! 落ち着きなさい! 周瑜様、大丈夫ですか!?」
「ああ。咄嗟に身を引いたからそこまで深くは……」
言い止し、心杏を見つめる周瑜様は顔を強ばらせた。
それと同時に、心杏がその場に膝をつく。
短剣が落ちた。
「心杏っ? どうし――――」
ごぽ。
「え?」
苔むした地面にこぼれた赤い液体。
何、これ……。
血?
私は愕然として固まってしまった。
心杏は苦しげに、激しく咳き込み始める。
「し、心、杏……?」
「っごほ……う……ぐっ、げほ、げほっ」
「退け!」
周瑜様が私を押し退けて心杏の身体を起こす。
背中をさすりながら私を睨み、
「小喬! アンタ何ぼうっとしてるんだ!」
怒鳴った。
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