目の前に綺麗な、とても冷たい美貌の男が座っている。
 彼が、奸雄曹操……。
 思っていたよりも若い。

 そして、何処か寂しい人だ。

 不安に怯える自身を必死に奮い立たせ、私は平静を装って曹操を真っ直ぐ見据えた。

 大丈夫……大丈夫。
 脳裏に、腹の膨らみを愛おしげに撫でる姉の姿を思い浮かべる。

 私がここにいるのは、姉様と、姉様の家族の為。

 出来る限り、私が時間を稼がなければ――――。

 腹に、力を込める。



‡‡‡




 猫族との同盟を、曹操と戦うことを呉は決めた。
 そこには多分、姉様を守るという孫権様の優しさもあるだろう。

 それでも、曹操の軍勢は遥かに多く、かつ精強。水上戦ではこちらに利があろうと、勝てる見込みは僅か。

 加えて斥候の話では曹操軍の歩みは異様に速く、こちらが陸口を押さえる前に河を渡ってくるだろうとのこと。

 河を渡って陸戦に持ち込まれては圧倒的に不利。
 周瑜様も、猫族の軍師諸葛亮様も、曹操軍の行軍の速さには戸惑っているようだった。

 たまたま通りかかった廊下の曲がり角で、お二人が話しているのを立ち聞きしてしまった。


「時間が足りない。今から先発隊に押さえさせても、準備が不十分だ」

「しかし、陸上の戦いとなれば我らが勝つ見込みは無いぞ。今用意出来る限りを駆使して当たらねばなるまい。ここまでの速度で行軍させているのならば、当然将兵も疲弊している。更に南の気候に対応出来ずに体調を崩す者も少なくないだろう。じきに兵士の中で疫病が流行るやもしれん」

「それに賭けるのも手だが、不確かだな。もっと確実な策を講じなければ、うちの反対派は納得してはくれないぜ」


 二人は暫く、沈黙した。

 周瑜様が、舌打ちした。


「しかし、何だって急に速度を上げたんだ……」

「斥候の報告では、行軍が速まったのは曹操の耳に二喬のことが入ってからだったな。本当に、曹操と面識は無いのか?」

「喬公にも確認を取った。大喬も小喬も、オレ達に嫁ぐまで故郷の村を出たことが無い。勿論喬公自身にも曹操との交流は無かった。そんな存在の為に、将兵を疲弊させてまで急ぐような男じゃないだろ」

「では、理由は他にあると?」

「評判通りの奸雄なら、そうだろうとオレは考えている。……とはいえ、一応二喬には里帰りさせると孫権に話してはある。体調が思わしくない状態で、今のこの城に置いておくと、腹の中の子供にも悪影響が出るだろうからな」


 時間が、無い……。
 不意に頭の中に一つの案が浮かんだ。
 私だけでも曹操のもとに行けば、曹操を説き伏せることは無理でも、多少の時間稼ぎくらいにはなるのでは?
 曹操の強行軍により、連合軍は準備が万全ではない。万全なら、勝てる可能性は高まる。

 曹操を負かすことが出来れば、姉様も姉様の子供も助かる……。

 私は静かにその場を離れた。

 姉様の部屋に戻って、薬を飲んで眠る姉様の側で思案に耽(ふけ)る。

 けど、その日のうちに周瑜様から戦が終わるまで安全な実家に戻っているように言われ、日の出と共に出立しろと指示され慌ただしく準備をさせられた。

 曹操から逃れる為だと分かっていたけれど知らないフリをして、ただただ戸惑って見せた。実際、すぐに発てと言われるとは思っていなかったし。
 そういうことは前もって言って欲しい、まだ体調が回復していない姉様の身体を考えて欲しいと頼み込んだけれど、周瑜様は謝罪してはくれるけど延期しては下さらなかった。

 その強固な態度から、姉様が不穏なモノを察してしまって、急な帰省を姉様からは一切何も訊かずに受け入れてしまった。
 そうなると、私にはもう何も言えなくて。
 周瑜様の謝罪を無視することで最後まで抗議し、数人の護衛に守られて柴桑を発った。

 姉様の乗る馬車をなるべく揺らさないように、馬の歩みはゆっくりだ。
 馬車の中には私と姉様のみ。侍女も連れて行くとお父様達に迷惑になってしまうだろうから、姉妹二人だけ。

 嫁ぐ時も、同じ馬車に、今みたいに向かい合わせに座って揺られていた。ああ、でも、揺れはこんなにも落ち着いてなかったかしら。


「姉様。本当に、大丈夫なの?」

「大丈夫よ。たまたまだろうけど、今日は体調が良かったの。明日からは分からないし、柴桑を離れるなら今が良いと思って」


 首を傾けて、姉様は微笑む。


「それに、周瑜様の中でわたし達は懸念材料みたいだから」


 姉様の言葉にちょっとだけどきっとした。


「……懸念? 懸念って、何」

「分からないわ。わたし達みたいな何の才も無い女が知る必要は無いのよ」

「……でも、訳も知らないまま帰されるって、私は納得出来ない」

「女が政治を知っても無駄なこと。国の大事は男の領分。わたし達が口出しすべきことではないわ」


 姉様の言葉は、諭すように優しい。
 その微笑を見て、曹操が私達を欲していると言っても言わなくても、彼女は変わらなかっただろうと知った。
 国が自分達を差し出そうとも、姉様はきっと黙って従う。

 でも、子供を殺されるとなったら?
 姉様が愛しているのは孫策様ただ一人。孫策の忘れ形見を殺されて、姉様は耐えられる? 耐え続けて、曹操の妻として尽くしていけるの?

 私は、俯いた。
 膝の上に載せた拳は白く、無意識に力を込めていたらしい。開いた掌には爪の跡がくっきりと残っている。


「周瑜様達なら、大丈夫よ」


 信じましょう。
 姉様は穏やかに言う。

 私は、頷くしか無かった。

――――その時だ。


『何者だ!?』


 護衛の一人が怒声を上げた。
 直後。


『ぎゃああっ!!』


 悲鳴。
 私は姉様に中にいるように言って馬車から飛び出した。


「待ちなさい、◯◯!」

「どうしたのです!?」


 扉をすぐに閉めて、護衛達を見る。
 言葉を失った。

 私達に付けられた護衛は周瑜様の麾下(きか)五人。
 うち一人が地面に伏していた。

 真っ赤な血溜まりの真ん中に――――。

 手で口を覆い一歩退がった。私の前に残りの護衛が剣を構えて盾になる。

 その向こうに、一人の男性が立っていた。
 中性的な美貌を持った、金の髪のたおやかな男性だ。穏やかな微笑みに、一瞬だけ見とれてしまう。
 けど、その手には、見たことも無い特殊な形状の剣が握られている。紐で繋がれた複数の刃には、真っ赤な血が。

 彼が、護衛を殺したの?
 こんな優しげな風貌で?


「おのれ……! 貴様、曹操の手の者か!?」

「はい。二喬を連れてくるように、申しつけられました。そちらは、大喬さんでしょうか、それとも小喬さんでしょうか」

「わ、私は……」

「お二人共、お逃げ下さい! ここは私共が――――うわあぁっ」

「あ……っ」


 斬りかかった護衛が、たった一撃で倒れた。
 深く斬られた首筋から脈に合わせて血を噴き出し、私に逃げろと言う。

 護衛達の誰も、彼らに敵うまい。
 そんな男性から、私が姉様を連れて逃げられるとは思えなかった。

 護衛達はそれでも私達に逃げろと言う。身を挺(てい)して私達を守ろうとしてくれる。

 私は地面に倒れ伏す二人の護衛を見下ろし、残った三人を見た。
 そして馬車を見上げ――――頷いた。


「そこを退きなさい」

「な……っ何をなさるおつもりですか奥様!」


 護衛達の間を割って前に出る。


「剣を下ろしなさい」

「何故!」


 彼らを睨んで黙らせ、言う通りにさせる。

 私は男性に対峙して頭を下げた。
 深呼吸をして、口を開く。


「私は小喬。あなたの仰る二喬の妹の方です。私と姉にご用のようですね。お聞きしましょう」

「私は張遼と申します。曹操殿が、是非お二人を妻にお迎えしたいと」

「おかしなことを仰るのですね。姉は亡き孫策様の妻として操を守り続ける覚悟ですし、私は呉の都督周瑜様の妻ですよ。その上で、私達を娶ると?」

「曹操殿は、そのように仰っております」


 その曹操を、誰も諫めなかったのだろうか。
 それが気にならない程、曹操が主として優れた男なのだろうか。

 私は絶命した護衛二人を見下ろした。
 また、深呼吸をする。
 目を伏せて腹に力を込めた。


「……分かりました。この小喬が、参りましょう」

「奥様!」

「何を仰るのです!」


 護衛達を振り返り、小声で「大丈夫です」無理矢理に微笑んで見せた。


「姉はお腹に子がいて現在体調も思わしくありません。加えてあなたは我が夫の麾下の方を二人も殺めました。このような酷い仕打ちを目の当たりにして、そちらの要求を全て呑む程魯鈍なつもりはありません。あなたが二人を殺めた代償として、曹操殿のもとへ行くのは私のみ。それでよろしいですね?」


 怖くてたまらない。
 恐怖を必死に圧し殺して毅然として張遼の答えを待つ。

 張遼は自分が殺めた兵士を見、


「分かりました。参りましょう」


 微笑み、手を差し出してくる。

 私は護衛達に近寄り姉のことを頼むついでに、小声で伝えた。


「私が向こうで出来るだけ時間を稼ぎます。必ずこの戦に勝って姉様と姉様の子を守り抜いて下さい」


 彼らは一様に顎を落として私を凝視する。何故それを、と言いたげな彼らに、


「隠して下さっていたのに申し訳ございません。偶然、聞いてしまいました」


 と囁いて、張遼の手を取らずに早足に横を通過した。
 姉様に挨拶をしておくべきだと思ったけれど、そうすると逃げ出したくなるから姉様には何も言わずに、馬車を急いで離れた。

 大丈夫。
 大丈夫。
 時間を稼ぐくらいなら出来る筈。
 私は、そこまで頭は悪くはない。



 拳を強く握り締め、私は呉を離れた。



‡‡‡




 私が曹操のもとに到着した時には、烏林まで僅か一日二日程というところ。
 曹操はすぐに野営を命じ、急ぎ設けた幕舎に家臣を集め、私に面会した。

 周りの目は酷く冷たい。
 この中で表面上私に対して態度が柔らかいのは、曹操と、張遼だけ。

 故郷を出る前に分かっていたこと。
 猫族に対して友好的な人間の方が珍しい。

 わざわざ用意された座椅子に腰掛け私は背筋を伸ばして曹操をじっと見据える。

 曹操は、微笑む。
 その眼差しの優しさに、戸惑った。


「小喬殿。手荒い招待で申し訳なかった」

「……そのように思われるのでしたら、私達のことなど捨て置いていただきとうございました。混血の女など汚らしい存在でしょうに。それを妻になどと、ご自身の名に泥がつくのでは?」


 突っ慳貪に言って、不安と恐怖を押し隠す。

 曹操は鼻で一笑する。


「今となっては、我が名に多少の汚れが付こうとどうでも良い」

「さようでございますか。その程度の傷などものともしない立派なお名前ですのね。では、私如き妻としては分不相応でしょう。私を娶るなどはお止しになった方がよろしいかと存じます」


 弱い女と、容易くどうにでも出来る程度の存在だと思われてはならない。
 曹操にとって私の価値が本当に混血にあるのか分からない。いや、そもそも二喬を欲しているという話も、何かの策に利用する為の嘘なのかもしれない。

 私にはそんなもの看破出来ない。看破する必要が無い。
 ここでやると決めたのは時間稼ぎだけ。
 出来ないことをしようとして姉様達まで危険に曝してはいけない。

 そもそも運良く看破出来たとしても、周瑜様達に伝える術が無いから無理だ。

 曹操は私の言葉に気分を害した様子も無い。
 ……いいえ、ちゃんと私の言葉を聞いているのか怪しいところだわ。
 彼は私を優しい眼差しで見つめているのだ。

 家臣は私の発言に明らかに殺意が増しているのに……。

 何なの、この人。
 まさか本当に混血の娘が好みだとか、そんなことは無いわよね。

 曹操を睨めつけると、家臣の一人が剣の柄を握る。「夏侯淵」と隣の、面立ちが少し似た別の家臣に咎められた。

 彼に視線を移し、


「殺したければ殺しなさい。私は元より死も如何なる辱めも覚悟した上でここにいるのですから。ただし……」


 目を細めると、男は鼻白んで剣から手を離した。
 私は畳みかけるように言葉を続ける。


「私が死した後は、悪鬼となりて曹操殿もあなた方も一族郎党その血が耐えるまで子々孫々祟り続けましょう。その覚悟があるのでしたら、さあ、どうぞ斬り捨てて下さいませ」


 両腕を広げて見せる。
 男は舌打ちの後、顔を逸らした。

 曹操はと言えば、自分の家臣へ酷く冷たい視線を向けている。
 私には優しい眼差し。私に敵意を向けた家臣には冷たい眼差し。
 ……本当に、何なの?


「家臣の無礼、どうか許していただきたい」


 曹操は私に頭を下げたかと思うとおもむろに腰を上げ、私の方へ近付いてくる。

 私は数歩後退した。


「小喬殿。あなたの為に用意した天幕へ案内しよう」

「……っ」


 手を握られ、咄嗟に振り解き距離を取る。
 それでも曹操は私に穏やかな眼差しを向け続けるのだ。

 曹操は手を下ろし、歩き出した。幕舎を出た。
 私は周りを警戒し、距離を開けて続いた。

 幕舎へ行く時にも思ったけれど、擦れ違う兵士の顔色が悪い。中には足取りも危うい者がいた。

 諸葛亮様の仰っていたように、この強行軍で疲弊し、疫病を罹患(りかん)しているのかもしれない。
 私も長くいると、きっと……怖くなって身震いした。

 曹操の足が止まる。
 他の天幕よりも二倍程大きい。
 こんな立派な天幕を、私の為に用意したと言うの?
 曹操に促されて中へ入ると、天幕内とは思えない豪奢な内装に固まった。

 下には高そうな毛皮が敷き詰められ、高そうな真新しい調度品が配置され、二台の寝台も天蓋や紗幕も付いていて――――多分私と姉様を迎えるつもりで用意しているのだろう。

 私は愕然とした。
 まさか急がせておいてこんな物も兵士に運ばせていたの?
 そんな、嘘でしょう!

 満足げな曹操を振り返り、しかし何も言わずにおく。


「他に何か要望があれば、兵士に申しつけてもらえれば対応しよう」

「……お心遣い、感謝します」


 呆れるより、軽蔑するより、曹操という男の意図が全く分からなくてただただ混乱した。

 曹操が去って、もしやと思って部屋中を確認すれば。
 上等な生地の服に、珠玉をふんだんに使った煌びやかな装飾品。どちらも数え切れないくらいあった。
 ただただ唖然とするしか無い。


「何なの……」


 あの人、一体何のつもりなの?
 私は寝台に腰掛け、深呼吸を繰り返した。

 ここまで徹底的にもてなされたら、段々と本気なのではないかと思えてくる。

 いえ、でも……嘘でしょう?
 有り得ないわ。
 姉様の器量に惹かれた孫策様とはまるで逆。混血と言うだけで、妻に娶ろうとするなんて。

 あの人は何を考えているの。

 独り、震え出す身体を抱き締めた。


「大丈夫……大丈夫……」


 時間稼ぎをすると、命を落とす覚悟でここに来たのだ。
 この世に死ぬよりも辛いことなどあろうか。

 あるとすれば、姉様が不幸になること。

 私が上手くやれば、呉が曹操に勝てば、姉様は守られる。
 自分に言い聞かせ、奮い立たせた。


――――なのに。


 思わぬことに、私が何をしなくても曹操はいつまで経っても進軍を再開しようとしなかったのだ。

 毎日毎日私の天幕に入り浸り、私の反応が薄いことに構わず様々な話をして、時間を無駄に過ごしていく。
 時折武将が何事か相談しに来るけれど、けんもほろろに追い返す。私が大事な話なのでしょうと私が説得してやっと、自らの役目に戻る。

 私が言うのも凄くおかしな話だけれど、女に溺れる男を間近で見ているかのような気分だ。

 どうしてここまで混血に固執するのか、全く分からない。
 訊ねてみても、


『いつか自ずと分かろう。私と共に在ることが、あなたに約束された至上の幸福であると』


 なんて、訳の分からないことを返す。

 曹操が何を考えているのか、何日と話しても一向に分からなかった。
 少し踏み込めば吐露するかと思って、私の本名を教えた。
 以来、彼は私を小喬ではなく◯◯と呼ぶようになった。あまり嬉しくはない。

 でも、やはり私の知りたい情報は出てこなかった。
 ただ曹操を喜ばせただけだった。

 一日一日、日を追うごとに軍の中の空気は重たくなっていく。

 勝ち戦に臨むところへ主君の気まぐれで気が削がれたのもあるし、何より食べ物に当たるか熱を出すかして倒れる兵士が増え始めているらしい。
 また、主君に愛想を尽かして逃げ出す兵士も現れているという。

 更に烏林の対岸にはすでに呉軍が陣を広げている。

 こんな状況になって、曹操はようやっと進軍を再開する気になったそうだ。

 天幕の端に寄れば、兵士の会話は筒抜けだ。
 曹操軍の悲惨な状態がよく分かる。

 もう、行軍が再開されてしまう。兵士の状態を思えば、恐らくその歩みは遅い。

 呉はすでに対岸に陣を展開している。
 準備はすでに整っているのだろう。

 私も兵士の話を盗み聞きしたところでは共に烏林に行くことになる。
 姉様のもとに戻れれば良いけれど、戦に巻き込まれて命を落とすかもしれない。
 曹操軍の誰かにどさくさに紛れて殺される可能性もある。

 あまり楽観視が出来る立場ではない。

 でもまあ、これも覚悟していたこと。
 曹操軍が烏林に落ち着けば、私の役目はそこで終わる。後はただ、成り行きに任せるしかないのだ。



‡‡‡




 戦が、始まったらしい。
 私は戦場から離れた場所に隔離されて、外に見張りの兵士がいる為に天幕の中で寝台に横たわって遠くの喧騒を聞くことしか許されない。

 呉が負ければ、私は曹操の妻になるだろう。
 姉様もきっと……。

 お願い、負けないで。
 やっと立ち直りかけている姉様を壊さないで。
 ただただ、一心に祈り続けるしか無かった。

 その祈りが通じたのかは分からない。

 けど、外に立つ見張りの兵士が突然声を張り上げた。


『おい、見ろよあれ……火だ! 俺達の船が燃えてるぞ!!』

『何故だ、何故風向きが変わってる……!?』


 兵士の切羽詰まった会話を聞き、天幕を飛び出した。兵士の横を過ぎて強い眩暈によろめいてその場に座り込む。

 風向きがどうとか、私には分からない。
 だけど、曹操軍の船の大半が炎に包まれているのは確かだ。

 吐息をこぼした。

 呉が、勝った。
 姉様が助かる。
 そう思った。


「船があんなにも、燃えて――――」

「ぐわあぁぁっ!」

「な、何者――――がぁっ!?」


 不意に間近で悲鳴。
 振り返ると見張りの兵士が二人共血飛沫を上げて地面に倒れた。


「あ……」


 敵とは言え、人が殺される光景は恐ろしい。
 微動すらしなくなった二人を茫然と見下ろした。
 誰が……。
 などと、考える時間は必要無かった。
 不意に腕を掴まれ無理矢理立たされ、兵士から引き離された。


「小喬!」


 周瑜様だった。
 周瑜様の後ろには見慣れない猫族の――――劉備軍であろう男性が三人。

 彼を見た瞬間、今度は安堵で膝から力が抜けた。また、その場に座り込んでしまった。
 周瑜様は私の身体を抱き締め、頭を撫でた。


「もう大丈夫だ。怖い思いをさせてごめんな」

「周瑜様……」


 私は死ななかった。
 助けてもらえた。
 そう思うと、視界が滲んだ。

 ……いえ、泣いている場合ではない。ここにはいられない。

 けど、足に、身体に力が入らない。
 仕方なく彼に支えられたまま小さく謝罪した。


「申し訳ありません。私達の所為で部下の方を二人も……」

「気にするな。アンタも大喬も、何も悪くない」


 「それよりも」周瑜様は私の身体を上から下まで見て、眉間に皺を寄せた。


「その姿……」

「え、あ……ああ、これは曹操殿にいただいた物で……」


 ずっと同じ服を着続けるのも嫌で、比較的地味な物だけ拝借していた。装飾品には一切手をつけていない。
 周瑜様は不服そうに私の身体を見下ろし、


「……何もされていないか?」

「はい。話をしていたくらいで――――」

「周瑜! 曹操が来やがった!」


 えっ、と劉備軍の男性が指差した方向には、確かに曹操が武将達を連れてこちらへ向かってきている。ただ、負傷していて足を引きずっており、武将もぼろぼろだ。私の目から見ても戦える状態ではなかった。

 周瑜様は私を抱き上げてその場を急いで離脱した。

 曹操が、私の本名を呼ぶ。

 それに周瑜様が気付いて一瞬立ち止まりかけたけれど、劉備軍の男性に言われて、河を渡ってきたらしい船に乗り込んだ。

 中に連れ込まれてすぐ、周瑜様に頭を叩かれた。


「何をなさるのです」

「オレ達の不注意が原因だが、アンタも帰ったら説教を覚悟しておくんだな。特に、大喬はきっと長いぜ」

「……っ! 姉様のお身体は?」

「今のところ、母子共に問題は無い」


 姉様達は無事……良かった。
 本当に良かったと、顔がにやけた。

――――これで、私が気にかけることは無い。

 ここから離れなければ。


 病んだ身体で彼らの側にはいられない。


 曹操軍を蝕(むしば)んだ疫病は、私へも容赦なく牙を剥いた。
 症状は兵士にまだ軽いものの、このまま戻れば私から疫病が広がっていく可能性がある。

 だから、私が戻る訳にはいかなかった。

 外の様子を確認しに行った周瑜様を見送り、私は彼らの目を盗んで船尾に立った。
 深呼吸をして、呉の陣に向けて深々と頭を下げた。

 そして――――。


 飛び込む。



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