壱
呉の小覇王と称される孫策様は、奇特なお方だった。
姉様を見初めて妻にと乞い、私にも周瑜様の妻になるよう強く勧めてきたのだ。
周瑜様は、猫族。人間社会で暮らしている猫族だ。女性にはとてもだらしないけれど、締めるべき場所ではそれが嘘のようにとても真摯に対応する。
孫策様が私を周瑜様の妻にと勧めるのは、まあ理解出来る。
けれども孫策様自身が姉様に惚れ込んで熱烈に求婚しているのが、そのついでに私が周瑜様の嫁にならないかと言われているのが、私には信じられなかった。
私達姉妹は猫族と人間の混血。
父が人間、母が幽州から逃れてきた猫族で、金色の目の母と違い、私達は黒目。でも耳は母と同じぴんと立った猫のそれだ。
父が喬玄と言う名前だからか、周りからは姉妹で大喬、小喬なんてあだ名――――皆は愛称だと言うけれど――――をつけられて、本名で呼ばれることはほぼ無い。
姉様はお父様の娘だと周りの皆が認めてくれているようで良いじゃない、なんて喜んでいるけれど、それならお父様が名付けて下さった名前◯◯で呼んでもらった方が良いと、私は思う。
猫族は大昔に漢王朝を脅かした大妖金眼の子孫として、十二支に入らなかった猫――――『十三支』と呼ばれ蔑まれている種族だ。
お母様も厳しい差別に耐えきれなくなって南へ逃げ、お父様に助けられた。
お母様や私達が皆に受け入れられたのは、偏(ひとえ)にお父様の人徳故。
住み慣れた土地を離れれば、たちまち偏見の的になるのは私達も分かっていた。
だから姉様も私も孫策様に何度乞われても猫族の世の扱いを理由に断り続けた。
けれど孫策様は諦めることが全く無くて。
何日も何日も通い続け、とうとう姉様を折れさせた。種族を気にして心を抑えるような器用なことは自分には出来ないと、必ず自分が二人に不便な思いはさせないからと、懸命に求婚してくる孫策様に、いつの間にか姉様も惚れてしまっていたらしい。
私はと言えば、孫策様に無理矢理に連れてこられた周瑜様と二人きりで話す機会は何度かあったが、女性に対して歯の浮く科白を軽々しく言える彼がどうにも苦手で、正直この人に嫁ぐのは……とあまり良い感情は持っていなかった。
だが姉様が受け入れたことで私も周瑜様に嫁がなければならない流れに周りがなってしまって、周瑜様も私の気持ちには気付いているだろうに嫌がる素振りを見せないものだから、結局二人揃って嫁いでしまった。
強く拒んでいれば私だけは嫁がずに済んだのかもしれない。
でも、自分が母親であるばかりに娘が二人共一生幸せになれないのではないか不安があったお母様が泣いて喜ぶのを見てしまったら、とても嫌だと言えなかった。
私は、さすがに親不孝になってまで自分の気持ちは優先出来ない。
‡‡‡
「ああ、今日も雨……」
部屋の中からしとしとと雨が降る庭を眺め、私は溜息をついた。
雨が降ってもう三日。
昨日までは土砂降りだったのが今朝は小雨になっていて、今少し雨足が強まった。
明日も雨なのだろうか。
溜息が出てしまう。
これじゃあいつまで経っても洗濯物が乾かない。
周瑜様の召し物が無いのがせめてもの救いか……。
姉妹で嫁いで五ヶ月になる。
孫策様と姉様は、とても上手くいっている。
猫族に対して偏見のある家臣や女官も少なくなかったけれど、孫策様のご家族にも懐かれていたのが幸いして直接嫌がらせをするような人間はいないようだ。
順調に、第一子を妊娠している。
反対に私は、最初から夫婦としての形を為していない。
周瑜様は基本的に城に入り浸ったり街中で女の子達と愛を語らったりしているので、屋敷にはいないことの方が多い。
周瑜様にとって私の存在はとても煩わしいだろう。
それでも一応気を遣っているみたいで、屋敷に帰ってくると私へお菓子を持ってきたり、街で最近あった出来事や姉様の様子をちょっとの時間に話してくれたりする。
夫婦になってから歯の浮く科白は無くなった。
私との会話では言葉を選んで話しているように感じられる。
私の存在は煩わしいが私と険悪になって孫策様と姉様の関係に迷惑がかからないようにそうしているんだと思う。
何もそこまで……と思うものの、恥ずかしくて不快な甘ったるい言葉を聞かなくなって有り難いと感じているのもまた事実。
お陰で前よりは楽に周瑜様と話が出来るようになった。
すると、意外に見えてくるものもあるもので。
孫策様の弟の孫権様や妹の尚香様の話題になると、顔も声もとても柔らかくなるのだ。
まるで自分の家族みたいに話す周瑜様を、何となく可愛らしいと最近は思えるようになっている。
だからといって、この殺伐とした関係が前向きに変わることは無いけれども。
ここ旬日、周瑜様は帰ってきていない。
五日前買い物に出た時に、新しい女の子の肩を抱いて街中を歩いているのを見かけたきりだ。折角の逢瀬の途中に目が合ったのは、ちょっと申し訳なかったな。
その時のことを思い出しながら、私は部屋を出る。
掃除は昨日一昨日と時間をたっぷり使って隅々まで徹底的にしたし、洗濯物は乾かず溜まっていく一方。
自分しか食べない料理を下準備から凝っても仕方がない。
裁縫もこの間修繕すべき物は全て繕ってしまったから今のところ必要無い。
やることと言えば……。
「……畑、大丈夫かしら」
周瑜様にちゃんと許可を取って、建物で死角になっている敷地の隅に畑を作っていた。
酷い土砂降りだった二日間外に出られずに放置していた畑を確かめるくらい。
雨の中外に出て身体を冷やすのは駄目なのは分かっている。
でも一度気になってしまうと確かめたくなる。
この程度の雨なのだし、ちょっと確認してすぐに戻れば問題は無いだろうと、汚れても構わない古着に着替えて中庭に飛び出――――そうとした。
出来なかった。
周瑜様がずぶ濡れで帰ってきてしまったから。
玄関でかち合ってしまい、反射的に数歩後退した。
「小喬」
「お帰りなさいませ、周瑜様」
「ああ。今から掃除か?」
別に畑を見に行くくらい何の問題も無いのに、何故か私は頷いてしまった。
「こんな天気じゃ洗濯物は乾かないし、掃除以外に時間が潰せなくて」
ふうん、と私をじっと見てくる。
……古着なのが、バレてるみたいだ。
「見苦しい姿で申し訳ありません。着替え――――る前にお召し物をご用意致しますね」
「いや、自分でやる」
「分かりました」
周瑜様に一礼して自分の部屋へ退がる。
しかし、驚いた。
周瑜様の帰りはいつも私が食事を終えて片付けを終えた後だ。
外で食事を済ませて帰ってくるから、そのまま他愛ない話を少しして各々自室で就寝するのが、周瑜様が帰ってきた時のお決まりの流れ。
それが今日、雨雲で見えないけど多分日が天頂に昇りきっていない時間に帰ってきた。
一体、どういう風の吹き回しだろう。
雨なのだから無理に帰ってくる必要も理由も無いと思うのだけど……。
「……これから出かけるつもりなのかしら」
だから、一旦帰ってきたとか?
着替えを済ませ、取り敢えず今後の予定を確認しようと周瑜様の部屋へ向かった。
周瑜様の部屋は私とは正反対の場所にある。
ついでに白湯でもと厨に寄って、冷めぬよう足早に薄暗い廊下を歩いた。火を灯しておけば良かったと、歩きながら少し後悔した。
部屋まであと数歩となって、部屋の中から咳き込むような音が聞こえてきた。痰が絡んだような、湿った咳だ。
まさか体調を崩されてお帰りに?
私は扉の前に立って中へそっと声を掛けた。
「周瑜様。如何なさいました」
『っ……何、でもない。何か用か?』
何か詰まらせたような、苦しげな声だ。
私は不穏なものを感じて、一言謝って中へ入った。
そして、白湯を盆ごと床に落としてしまった。
周瑜様は私から見て右向きにうずくまっていた。口を押さえて、金色の目を真ん丸に見開いて私を凝視している。
その手は、真っ赤に濡れていた。
ぞっとした。
喀血(かっけつ)――――。
私はすぐに周瑜様の身体を起こした。
が、腕に払い退けられて尻餅をつく。
「周瑜さ、」
「オレことは良いから出て行け!!」
怒鳴った直後、周瑜様はまた激しく咳き込んだ。
これで放っておける程、私は非情な女のつもりはない。
私は部屋を飛び出し厨から桶と水を注いだ盃を持ち急いで戻った。
周瑜様はまだうずくまっている。咳は収まったようだが、依然苦しそうだ。
こういう時は確か、頭を高くして寝かせて――――ああその前に口の中の血を全部吐き出させないといけないのだったわ!
周瑜様の横に座り、顎の下に桶を差し出した。
「周瑜様、この中に口の中に残ってる血を全部吐き出して下さい」
しかし周瑜様は腕で押し退けて私を拒む。
気持ちは分かる。
疎ましいだけの女に助けられるのは嫌だろう。
でもだからといって、仮にも夫となった男性がこんな状態になっていて、無視出来ると思う? 出来ないに決まっている。
私は努めて穏やかに言う通りにするよう周瑜様を説得した。
だけどやっぱり駄目。周瑜様は頑なだ。
私も焦りと思い通りにならないもどかしさで苛立ちが募り、乱暴に払い退けられた桶が私の右の目尻を掠った瞬間、頭の中で何かがぷつんと切れた。
「……ああ、もう!!」
声を荒げて水を少しだけ含む。
両手で周瑜様の顔をがっしと挟んだ。左右の顎関節を手首すぐ上の小指球で強めに押さえつけて、薄く開いた口に自分のそれを押しつけた。
水を流し込み、すぐに吸い上げる。
濃い鉄の臭いに咳込みかけたけれど、桶を引き寄せ吐き出した。
もう一回と盃に手を伸ばすと、周瑜様が慌てて桶を掴んで自分から血を吐き出した。
かと思えば私を睨んで盃を取り強引に口へと寄せてきた。
「何やってんだアンタは!!」
飲んで血を吐き出せと怒鳴られるが、それにもかちんと来て周瑜様の口に指を突っ込んだ。
「血を吐き出すのは私じゃなくてあなたの口!! 早く吐きなさい! 窒息して死にたいの!? また年下に口移しで水ぶち込まれたいの!?」
裏返った声で叱りつけ、非力ながらに指で口をこじ開けて桶を寄せる。
周瑜様が私の反撃にたじろいだ隙に手から盃を奪い返し口に押しつけた。
後で冷静になった時に、弱っている周瑜様にこの乱暴極まるやり方は、最悪また咳き込んで病状を悪化させかねなかったと気付き、ひたすら猛省した。この時、自分が思っていた以上に私は動揺していたらしい。
「もう吐き出した! 口の中の血は全部吐き出したから離れろって……!」
口の中を開けて見せるのを確認して、私は周瑜様から離れた。
周瑜様は露骨に安堵する。
「咳は?」
「もう出ない。けど、今日はこのまま休ませてくれ。そうすれば、明日には戻ってる」
「……分かりました」
私は腰を上げ、周瑜様の寝台へ。
枕の高さを確認し、周瑜様にまだ横にならないように強めに言って厨で桶を洗った後、自分の部屋へ急いだ。実家から持ってきた私の服を何着か適当に持ち出してまた戻る。
怪訝そうに私の動きを追う周瑜様を無視して枕を退かす。服を半分程丸めて厚みが均一になるよう寄せた塊を、一着を残し、残りで包んだ。下に枕、更にその下に最後の一着を敷いてなるべく上半身を持ち上げる柔らかい枕に仕上げた。
横に洗った桶を置いて、唖然とする周瑜様を振り返った。
「周瑜様。横になっていただいてよろしいですよ。身体は仰向けに、顔は桶の方に向けて寝て下さい。……あ、その前にお召し物を着替えねばなりませんね」
「ちょっと待て。アンタ、それ自分の服だろ?」
「私が実家から持ち込んだ服ですので、汚れても構いません」
「いや、逆だろう!」
「服ならまだありますから気にしないで下さい。では、くれぐれも無理はなさらないで下さいましね」
「おい待てって――――」
黙殺し、足早に部屋を出て扉を閉めた。
明日はここの掃除をしよう。
今日のうちに掃除しないと血が取れなくなってしまうかもしれないが、彼の側で埃を立てる訳にはいかない。
ああ、あとお医者様に相談して、薬も処方していただかなければ。
晴れたら屋敷中をもっと念入りに綺麗にしよう。出来る限り埃を無くさないと。
夜にまた様子を見に行かなければ。その時には桶も変えたい。
確か評判のお医者様が柴桑の南西の隅にいるという話があった筈。
その辺りに行ってから人に訊ねれば分かるだろうが、掃除の時間も確保したいからあまり時間はかけられない。
だとすると朝餉はいつもより早めにして――――。
「――――ああ、食材も買い足しておかなくては」
明日、晴れてくれると有り難いのだけど。
‡‡‡
翌日、快晴。
周瑜様が起きていないうちに念の為野菜を噛まなくても良いくらいに柔らかく煮込んだ朝餉を部屋に運んで、残しても構わないとの書き置きを添えて屋敷を出た。
医者ではない私の中途半端な知識での判断だから、間違っている部分は周瑜様ご自身で対処してもらうようにしよう。
頭巾で耳を隠し、街中を走って柴桑の南西へ至る。
朝から迷惑をかけて嫌がられることを覚悟して人に訊きながらお医者様の家を見つけ出す。
お医者様はかなりのご高齢で、私を快く迎えてくれた。
周瑜様――――とは一応伏せて症状だけを話し有効な薬は無いか相談すると、患者を直接診られないかと問われた。
昨日の周瑜様の態度を思うと、多分難しい。猫族でありながら都督という立場にいることもあって周りに弱みを見せられないのかも。
本人と相談してみるとだけ伝えて、取り敢えず薬を、種類を幾つか頂いた。
想定よりも高めになった代金を払い、今度は市場へ。
活気づき始めた市場の雑踏に紛れて食材の買い出しに移る。
周瑜様が屋敷で食事を摂る可能性も考えて、いつもより多めだ。
顔見知りになった野菜売りのお婆さんにちょっとだけまけてもらって、両腕一杯に抱えて人並みを縫うようにして進んだ――――。
「小喬!」
「?」
足を止めて周囲を見渡す。
不意に、私を呼ぶ男性の声が、女性のはしゃいだ声に重なって聞こえた気がする。
周瑜様の声に似ていたような……でもあの人は屋敷で休んでいるんだからいる筈がないわよね。
気の所為、気の所為と前に視線を戻す。
両手を荷物に塞がれ、逆方向に歩く人と身体を擦り合わせながら何とか前へ進み帰宅を急いでいると、
「小喬、待てって言ってるだろ!」
後ろから肩を掴まれて引き止められた。
驚いた。
周瑜様だった。
愛らしい女の子を三人も引き連れて。
病み上がりなのに、もう女の子との逢瀬ですか。そうですか。
私だって、許せないことはあります。
周瑜様の腕に細腕を絡ませ襟から除く谷間をわざと私に見せつけてくる女の子に、きょとんとした顔で明らかに私を値踏みしてくる女の子、それから三人の中で一番分かりやすく私を見下している女の子達を見、周瑜様を見上げる。
「申し訳ありませんが……どちら様でしょう?」
「は?」
「では、私、先を急いでおりますので」
関わらない方が身の為だと思った。
なので困惑する周瑜様に頭を下げ、小走りに雑踏に混ざった。
昨日の今日であんな埃っぽい市場を女の子達と彷徨けるとは、私が思うより深刻な病ではないのだろうか。
いや、でも咳に血が混ざってたし……素人目には深刻だとしか思えない。
薬、部屋に置いておこう。
注意書もお医者様が一つ一つに書き添えてくれている。それを読めば大丈夫。
屋敷に帰ればやっと、頭巾を外せる。
てきぱきと食材を片付け、急いで掃除に取りかかる。まずは周瑜様の部屋だ。
周瑜様の生活空間は徹底的に掃除して、埃も舞わないようにしないと――――と思うものの、昨日に比べるとやる気がちょっと下がってしまっている。
当の本人が市場で女の子を数人侍らせて歩いているのを見たら、誰でもそうなると思う。
昨日の私は、余計な世話を焼いた感が否めない。
古着に着替えて周瑜様の部屋に入った私は、中が昨日よりも綺麗にされているのに衝撃を受けた。
血の跡も多少床に染み込んでしまっているものの、ぼんやりと見える程度に消えていたし、部屋全体を見渡した時自然に見えるよう敷物で上手く隠されていた。
その為に調度品も動かされている。
昨日様子を見に来た時は部屋は周瑜様が倒れた状態のままだった。
今朝私が出かけた後に一人で掃除したのだろう。
私の服も全て周瑜様に処分されたみたいだった。
「本当に、一日休んだだけで元の通りに元気になってるのね……」
正直、少し腹立たしい。
必要無いのではないか思ったけれど、買ってきた薬を机上に置いて部屋を出た。
もしかしてと思って廚に行けば、食器も片付けられている。私が朝餉を作らなくても良かったのではないかとやる気の目減りが加速して脱力した。
「もう良いわ……畑に行きましょう」
今日は掃除なんてせずに、畑に付きっきりでいよう。
どうせ、あの女の子達と過ごして遅く帰ってくるのだろうし。
今日からいつも通りの日常に戻るならば、きっと掃除をしても何をしても無駄に終わるだけ。
結局無駄にならなかったのは、彼の姿勢を保つ為に集めた私の服と、願わくは薬。
溜息が漏れた。
周瑜様が帰ってきたのは丁度私が夕餉の支度に取りかかった時だった。
少々気まずそうな顔で、彼は廚に入ってきた。
「小喬」
「お帰りなさいませ。夕餉は食べていらしたのですか?」
「いや……まだだ」
「左様でございますか。分かりました。出来次第私が自室にお運び致しますので、それまでおくつろぎ下さい」
そう言えば周瑜様も、私のこと『小喬』って呼ぶのね。
今更そんなことを思う。このままじゃ自分で自分の名前を忘れてしまいそうだわ。
調理に戻ると、周瑜様は立ち去る気配が無い。
そのうちいなくなるだろうと思って気にせずにいると、
「……誰かに話したか?」
「朝のうちにお医者様に相談させていただきました。周瑜様と特定されないように話しましたが、お医者様は本人に診断を受けて欲しいと仰っておいででした。お受けになるのでしたら、屋敷にお招きすることも出来ますが、どうされますか」
「いや、要らない。オレのは医者にはどうにも出来ないんだ」
「分かりました。ですが薬をいただいて来ましたから、一応お試し下さい」
「薬ね……分かったよ」
淡々と返しながら、手は忙しなく食材を切る。
やはり、彼は病のことを誰にも知られたくはないようだ。
医者には治せないというのは少し気になったが、私が突っ込んで良い話ではなさそうだ。
「周瑜様の病について他言無用のこと、承知致しました。お休みになられたら如何ですか」
「……そうする」
ようやっと、周瑜様は部屋に戻っていった。
まだ何か言いたげのご様子だったけれど、結局言わなかったのだから大したことではなかったのだろう。
「昨日の今日なのだし、念の為、朝と同じような料理にしておくべきかしら……」
呟き、私は切ってしまった食材を見下ろし、献立を考え直した。
‡‡‡
これは、一体どういうことなのだろう。
屋敷で倒れたあの一件から、周瑜様は頻繁に、しかも外食せず寄り道せず早い時間に屋敷に帰ってくるようになった。
加えて、やたらと私に構ってくる。前よりも会話を長く続けようとする。
最初は私が他言しないか疑念があるからかと思ったのだけど、どうも、そんな風には見えない。
かと言って私を妻として扱おうとしている風でもない。
周瑜様の意図が掴めないまま、私はただただ戸惑った。
そして、それから一ヶ月も経たないうちに、私は姉様の侍女として城に勤めることに。
理由は、孫策様の戦死だ。
孫策様の死を知った姉様は酷く落ち込み精神的に不安定になってしまった。
このままではお腹の子にも悪い影響が出てしまいかねないと言うことで、私が姉様の側にいることになったのだった。
結婚してから二・三度しか会えていない姉様は、見違えて窶(やつ)れ、すぐにでも孫策様の後を追いかけていってしまいそうだった。
私と久し振りに顔を合わせても、口では嬉しいと言っていても、顔も目も、悲しみで暗く陰ってしまっていた。
そんな痛々しい姉様が哀れで、何としても子供と姉様は孫策様の分まで生かさなくてはと、私は姉様と色んな話をした。
孫策様の話になると情緒が不安定になるけれど、私は楽しい思い出なのだから忘れてはいけないと、孫策様との思い出も姉様に話させた。勿論、彼女の様子に細心過ぎる程の注意を払いながらだ。
周瑜様も、孫策様の跡を継いだ孫権様の補佐として忙しく、私達はほぼ顔を合わせなくなった。
代わりに姉様の様子を見に部屋にやってくる尚香様と仲良くなった。周瑜様の話にかなりの頻度で出てくる所為か、初対面という感じはしなかった。
天気が良い日には尚香様と私とで、姉様を外に連れ出しもした。
姉様の悲しみは、私の想像を遙かに超えて深かった。
だけど時間はかかっても、ちょっとずつ、ちょっとずつ、姉は顔に感情が出てくるようになったし、自分から孫策様の話をするようにもなっていった。
亀よりも遅いけど、それでも確かに姉様の傷は癒されている。
その間に、呉も厄介な問題に直面していた。
河北を手中に収めた曹操が、いよいよ南下してきたのだ。
周瑜様と孫権様が身分を偽り幽州の猫族、劉備軍と接触して同盟を結ぶかどうかを考えているらしい。
二人が城を留守にしていたと、帰還の報せを受けて初めて知った。
曹操の軍は精強だ。
陸の上での戦いではまず勝てない。
水上戦なら有利でも、圧倒的な数の軍勢で到来するという話だから圧し負ける可能性もある。
曹操から事実上の降伏勧告を受け、呉は抗戦か降伏かで対立していると尚香様が教えてくれた。
ただ、これは彼女が知らなかったことで、曹操からの書状には、何故か私達のことも書かれていたらしい。
それを、今目の前に座る文官に知らされた。
「喬玄の娘、大喬、小喬を差し出せ……と」
「そうです」
ここは私にあてがわれた部屋。私と文官の二人きりだ。
姉様は今日は気分が悪く、部屋で眠っている。
遠回しに降伏を促す書状を見下ろし、私は溜息が出た。
「……ここでも、本名で書かれていないのですね……」
「は?」
「いえ、こちらの話です、何故私達が欲されているのでしょう。私も姉も、お会いしたことはありませんのに」
「それが、奇妙なことにお二人が混血であると知って、どちらも妻に迎えたいと」
「……はあ」
反応に困ってしまった。
姉様にも私にも優しくしてくれるこの文官も、混血を理由に人妻を求める曹操の意図が読めない。
彼がこのことを教えてくれたのは、今後戦に反対する勢力が私達に接触してくる可能性があったからだ。
周瑜様が頑なにこのことは私達に話すなと言っていたらしい。どのような結論が出ようとも、私達を曹操に差し出したりはしないと。
「そういうことですから、お二人共。これから暫くは、接触してくる者の言動には努々(ゆめゆめ)ご注意を」
「分かりました。姉にも伝えておきます。禁じられておりますのに、お気遣い下さってありがとうございました」
文官を送り出し、一人思案する。
混血の女を妻にしようなどと……北の曹操というのは相当な好き者なのね。
あまり良いように思えない。
私達を玩具にするつもりなのではないか――――ぞっとする。
姉様が寝込んでいる部屋に戻り、顔を覗き見る。
顔色は少し悪い。
「悪くならなければ良いけれど……」
身体は強い方だったけど、今は心身共に弱って病魔にあらがえる状態ではない。
更にもう一人、小さな命も背負っている身体だ。
妊娠出産は、女が命を懸けて臨む大仕事とは故郷の老婆の話。
まだ一度だって周瑜様に抱かれたことの無い私には、恐らく一生縁の無い大仕事だ。
申し訳ないけれど、出産の時には私は役に立てないだろう。
そんな私だから、妊婦の負担を推し量ることも出来ない。
部屋の隅に座って、溜息を一つ。
と、
『小喬、いるか?』
「周瑜様?」
珍しい訪問者が。
私は扉を開けて、姉の体調が悪いからと先程の文官と同じく私の部屋へ入ってもらった。
姉様の部屋がある方の壁を見て、周瑜様は眦を少しだけ下げた。
「……悪いのか?」
「今は、それ程では。ただこれからが少し心配ですね。ですから私が付きっきりで……」
「医者を呼ぶか? 早い方が良いだろ」
「……そうですね。お願いします。それで、姉に何かご用でしょうか」
周瑜様は首を左右に振った。
扉の外を窺って、
「さっき、文官が来てたよな」
「はい。姉様の様子をお訊ねに。あの方は、混血の私達に普段から優しく接して下さっておりますから。あと、近々大きな戦になるかもしれないから、その時は前以上に姉様を気にかけてくれとも言われました」
嘘をつく。
周瑜様は「そうか」と疑う素振りも無く頷いた。
「北の曹操と戦になるのですか? 反対派もいると、尚香様から伺いましたけれど……」
ぴくりと、周瑜様の眉が僅かに動いた。
「そうだな……戦わない方を選ぶなら孫家は終わりだ。良くて辺地に軟禁、悪くて一族全て殺される。大喬の腹の中にいる子供も……」
「……では、姉様も殺されるのですか?」
「曹操の性格を考えれば、恐らく対象だろう」
「そんな……」
知らないフリで問うと、周瑜は言いづらそうに目を伏せた。
「孫権様は、どのようにお考えなのですか」
「あいつはあいつなりに考えてる。……オレとしては、曹操と戦ってでも孫家を守って欲しいがな」
私が曹操のもとに行って乞えば、何か変わるだろうか。
いえ、駄目だわ、私に国主と交渉出来るような話術も頭も無い。
私の考えていることなど知らず、周瑜様は私の頭を撫でた。
「どちらに転んでもオマエ達だけは助かるようにするつもりだ。だから、戦のことはオレ達に任せて、小喬は大喬のことを頼む」
「……分かりました」
「じゃあ、医者を呼んでくる」
周瑜様は多分、文官が私達に曹操からの書状の内容を伝えたのではないか危惧したのだと思う。
残念ながら、知ってしまった訳だけども。
周瑜様と共に部屋を出て、戻られる周瑜様を呼び止める。
「お身体にはお気を付け下さい」
胸を押さえて見せる。
周瑜様は軽く目を瞠った後、笑って頷いた。
「そうだ。大喬の身体が安定したら、美味い飯でも食べに行こうぜ」
「ありがとうございます」
私は、周瑜様へ深々と頭を下げた。
姉様の部屋に戻ると、姉様が上体を起こしていた。
膨らみ始めたお腹を申し訳なさそうに撫でていた。
「姉様。起きて大丈夫?」
「◯◯。ええ、寝る前よりも楽だわ」
「そう。良かった」
水を用意する。
姉様はそれを飲みながら、扉の方へ視線をやって微笑んだ。
「周瑜様と◯◯が上手く行っているようで安心したわ」
「上手く行ってるように聞こえたの?」
「夫婦としてではないけれどね。あなたがお母様に気を遣って周瑜様に嫁いだのは分かっていたわ。だから心配していたの。でも仲が悪くないのなら、伴侶としては駄目でも同居人としては大丈夫。それだけ分かっただけでも良かった」
わたしも、周瑜様と◯◯と一緒に外へ遊びに行きたいわ。
本心から言う姉様に、私は安堵した。
曹操のことは姉様には言わないでおこう。
私だけが知っていれば良い。
なるべく反対派が姉様に接触しないようにしようと、私は思う。
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