葵様

※2016GW葵様リクエスト続編



 今日は、月に一度の墓参りの日だ。
 父の墓参りには、一人で行く。

 郭嘉は連れて行かない。私が、頑なに拒んだ。

 私は一人で父に会う。着飾らず、私らしい地味な格好で、近況報告に行くのだ。
 変わり果てた幼馴染も、墓参りに関しては私の意思を尊重した。
 月に一度は父に会いに行きたいと願った私に自分も行くと彼が当たり前にように言った時、『その化け物みたいな冷たい目で父の墓を見下さないで』と、はっきり告げたからだろう。

 郭嘉にとって、父もまた強者に踏みにじられ支配されるべき弱者だ。
 弱者を見下す目で、父の墓を、亡き父に語りかける私を見て欲しくなかった。絶対に許したくなかった。

 だから、墓参りにはこれからも郭嘉を連れて行かない。

 一人で墓参りをする。

 本当は、遺体は故郷に土葬しなくてはいけないんだけど、もう故郷は無い。この乱世じゃ安易に戻れもしない。
 故郷に土葬出来なければ死者は冥界に行けずに、生きている人達に祟る悪鬼になってしまうらしい。
 そう言うのは正直信じていないんだけど、しきたりはしきたりだ。守らなかったことに背徳感は多少なりとも感じている。だから、毎月墓参りをして、冥界に無事に辿り着けるように願いながら近況を語って聞かせるのだ。冥界に行って欲しいなら話しかけない方が良いような気はするけど、そこはまあ、何とかなる、と思っている。

 郭嘉の助手として働かされる愚痴や、夏侯惇様達の他愛ない小さな事件だったり、女官達との会話の内容だったり、色んなことを墓に向かって話し続けた。
 話が尽きるまで、私は父の側を離れなかった。と言っても、そんなに話題が無かったから、時間はかからなかったのだけど。


「じゃあ、また来るね。今度はもっと話せるよう話題を貯めておくから」


 そう言って、私は父と別れた。

 そしてその帰り道、珍しい人を市井(しせい)に見たのである。


「あれ。賈栩様……」


 一瞬、人違いかなとも思ったけれど、服装も横顔もやっぱり賈栩様だ。

 意外や意外。
 綺麗な女の人と一緒ではないか。
 あの人のことは私も良く知っている。面倒見の良い女官長だ。郭嘉に無理矢理入れられた私に色々と指導してくれた優しい女性である。

 賈栩様と親しげに話しながら並んで歩いている。
 あ、女官長、賈栩様の背中叩いた。あんなこともするんだな。初めて見た。何だか新鮮……。

 ぼんやりと眺めていると、不意に先日賈栩様に接吻されたことを思い出した。
 ……いや、あれは違う。接吻じゃない。ちょっと、ほんのちょっと口を掠めただけだし。
 私は一人ぶんぶん首を横に振り追い払う。
 あああ今まで考えないようにしていたのに! 何で思い出してしまうかな!

 その場から逃げようと身体を反転させた私は、一度だけ二人を振り返った。

 ……気になってなんか、いない。
 そうだ、私は気になってないんだから。
 私は今度こそ、その場を離れた。

 けども、折角の自由な時間だ。
 一人ゆっくりと店を見て回りたくなって大通りに出た。
 出来立ての肉まんや焼き菓子の香りが食欲をそそる。ちょっと食べて帰ろうかと誘惑に負けそうになったけれど、最近郭嘉に『○○、もしかしなくても太った?』とにやにやしながら言われたことを思い出して踏みとどまった。いや、太ってない。太ってないけど……うん。私は全っ然、太ってないんだから。

 装飾品も、店の人と談笑しながら私の身に合う安い物を買って付けてみたり――――ご厚意で店の人に髪をいじってもらった――――化粧品を扱う店を紹介してもらって色々と教えてもらったり、自由気儘に楽しんだ。

 こんな時間が送れるのは、多分墓参りの時だけだ。
 そう思うと、郭嘉から解放されたいと思ってしまう。
 馬鹿な私じゃ逃げることなんて出来ないだろうし、私が逃げたことでまた何人関係無い人が殺されるか分からない。


「私、自由になれるのかなー……」


 無理そうだ。

 郭嘉にとって、私は彼と彼の姉を繋ぐ役割を担っているんだと思う。
 郭嘉個人の記憶に、私の記憶を併(あわ)せたって、どうにもならないと、私は思うんだけど。

 私、あいつの所為で婚期逃す気がする。
 私は頭を抱え、嘆息した。
 賈栩様が頭に浮かんだけれども、無視だ。無視、無視。
 気にならない気にならない気にならない私は全然気にしてません!
 自分に言い聞かせ、私は町を歩き回った。

 途中、碁を楽しむお爺さん達を見つけて混ざったが、見事に連敗でした。

 やっぱり私は、庶民の雑踏の中で生きているのが良いと思う。
 道行く人々に混ざっていた方が、心地良かった。
 私――――○○という人間の等身大に合った世界は、こっちだって、感じた。

 これまで数回墓参りには来てるけど、今まで一度も思わなかったことだ。
 何で今更思うようになったんだろう。
 きっかけなんて思い当たらない。

 ふと、雑踏の中で足を止める。
 人々の喧噪が私を包み込む。
 厳かな沈黙なんてここには存在しない。
 少し歩けば、父と過ごした家がまだ残っているだろう。

 騒々しくて、色んな匂いがして、人の多さに息の詰まるこの場所にいると、心が落ち着く。
 やっぱり、私はこの世界の住人なのだ。
 あっちの世界と関わることの無かった弱者だ。

 戻りたい、と思った。
 あの家で暮らしたいと願いが、芽生えた。

 けれど、駄目だ。
 郭嘉は絶対に許してくれない。
 ○○は郭嘉の記憶の中にいる彼の姉の存在を守る為に必要なのだと思われている。

 郭嘉は頭が良いくせに馬鹿だ。
 彼女のことになると途端に頭が回らなくなってしまうんだと思う。
 本当に救いようの無い姉馬鹿だ。

 私は溜息を漏らし、「帰ろ……」呟いた。

 と、後方から馬車が急ぎ足に大通りを通っているのに気が付いた。
 彼らの真正面にいる私は邪魔だ。
 私は退いていく人々に混ざって道を開けた。

――――けども。


「! わ……っ」


 不意に、知らない女性三人に肩を強く何度も何度も押し返されて大通りの真ん中に投げ出された。

 温かい石畳に両手を付いた瞬間、全身が一瞬で冷えた。
 嘘でしょう。
 最悪。
 これじゃあ私――――。


 馬車に轢(ひ)かれてしまう。


「嬢ちゃん!! そこを退けぇ!!」


 無理だ。
 立ち上がれはしたが、足が動かない。

 馬車の方も急には止まれない。
 青ざめた御者が私に退くように怒鳴りかける――――。

 え、私死ぬの?



‡‡‡




 腕が引き千切られそうな痛みを感じた瞬間、目の前を馬車が通過していく。
 ややあって、馬の嘶(いなな)きと共に馬車は速度を急速に弛め、停車した。

 あ、私生きてる。

 足から力が抜けて座り込んだ私は、未だ痛いくらいに腕を掴んでいる相手を見上げ、顎を落とした。


「あ、あれ……賈栩様」


 なんと、賈栩様が私を助けてくれたのだった。
 私は唖然として、肩で息をしている賈栩様を見上げた。


「……やけにお疲れですね」


 賈栩様は目を細め、大きく嘆息した。
 私の頭を鷲掴みにして、左右に揺らす。


「うわ、わ……っ」

「今ので分からないのかい?」

「今ので? あ、ああ、はい。賈栩様に助けてもらいました。ありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げる私に、賈栩様は眉間に皺を寄せる。賈栩様が、珍しい。
 一瞬またあの時のことが脳裏に浮かんだが、それを振り払ってくれたのは人を押し退けて駆け寄ってきた御者だった。


「嬢ちゃん!! 大丈夫かい!!」

「あ、はい。大丈夫です。すみません、飛び出しちゃって」


 御者が前にしゃがみ込み、申し訳なさそうに頭を下げる。


「けど、さっきのは誰かに押されたみてえだったじゃねえか。見た奴もいるだろうし、俺が皆に頼んで犯人捜してやろうか?」

「いいえ。そこまで大事(おおごと)にしなくて大丈夫です」


 多分……いや確実に郭嘉が手を出した女性達だ。
 久し振りに嫌がらせを受けたよ。
 賈栩様の手を借りて立ち上がると、今度は人混みを掻き分けて女官長が血相を変えて現れた。


「賈栩さん……なっ、○○さん!? 大丈夫ですか!?」


 賈栩様をどんと押し退けて私の肩を掴んだ女官長は、必死の形相で私に怪我が無いか確認する。
 ぺたぺた身体を触られ私は慌てて大丈夫だと彼女を宥めた。


「そ、それよりも今賈栩様を押した時の音の方が……」

「この人は大丈夫です! それよりも○○さん、あなたは嫁入り前の大事な身体なのです。もし痕が残ったら……!」


 私以上に必死だ。
 困り果てて賈栩様を見やると、肩をすくめて返された。つまり、どうも出来ないって?

 満足行くまで確認した女官長の矛先は、賈栩様に変わった。


「賈栩さん。あんな乱暴な助け方をしたら○○さんの腕が脱臼してしまうではありませんか! 頭だけが取り柄なのだからもっと良い方法を取りなさい!」

「あの……」

「○○さんは黙っていなさい」

「はい」


 女官長さん、何だか怖い。
 いつもの優しい女官長は一体何処へ行ったんだ。

 苦笑混じりに肯定的な相槌を繰り返す賈栩様に女官長はまるで親のように小言を言う。


「あ、あのー……」


 女官長を止めようにも止められない。
 中途半端に片手を挙げた状態で、固まっていると、不意に御者が、肩に手を置いてきた。


「あー……取り敢えず、大事にならなくて何よりだ。あんたも恋人に感謝しなよ」

「はあ……え?」


 恋人?
 ……恋人!?


「ちっ、違う違う! 私の上司の同僚!!」


 全力で否定すると、御者は驚いたように目を丸くして賈栩様と私を交互に見た。


「えっ、そうなのかい? さっき、嬢ちゃんを助けた時の切羽詰まった形相見て、俺ぁてっきり……」

「いやいやいや……」


 有り得ません……とは言えなかった。
 先日のあれが思い出されて余計に恥ずかしくなった私は、きっと、いや絶対顔が真っ赤だっただろう。

 私の顔を見た御者が、徐々ににんまりと楽しげに笑っていくのが分かった。


「……ふぅむ。なるほどなぁ。嬢ちゃん若いから、恋には積極的に動いて良いと思うぞ。いやぁ、俺も若い頃は今のカミさんにゾッコンで振り向かせたくて必死だったなぁ」

「は、はあ……」


 腕を組んで上を見上げ、うんうん頷いて昔を思い起こす。

 私は御者を見、溜息をついた。

 その場から逃げたかったけど、事故が起こった場所に、衛兵がやってこない筈がない。


「何だ、何の騒ぎだ!」

「! なんと、賈栩様!? それに○○殿に、女官長まで……!」

「あ、ご苦労様です」


 駆けつけた衛兵は二人共顔見知りだった。
 私達がいることに心底驚いたようで私達を見渡した後、何があったのか訊ねてきた。

 それを説明したのは御者だ。
 必要無いのに、私が誰かに突き飛ばされたようだとまで話してしまったものだから、片方が犯人捜しに乗り出した。
 多分郭嘉に手を出された人達だと思うからと言っても、女官長に押し切られて結局目撃者捜しに向かう衛兵達を見送ることになった。


「放っておいて良いのに……」

「そういう訳には参りません。罪には罰を。これが理です」


 厳然と断じる女官長は、他の兵士にも協力を頼んでくると言って、私が止める前に野次馬の中へ紛れ込んでいった。

 残された私は、御者を横目に睨んだ。


「言わなくて良かったのに……」

「いやいや、言った方が良いだろ。ああいうことは。ところで嬢ちゃん、お詫びにっちゃあなんだが、家まで送ってやるよ。そこの兄ちゃんもどうだい?」

「あ、それは大丈夫です。私、店を見て回ってる途中だったので。もう暫くこの辺を彷徨(うろつ)くつもりです」

「大丈夫なのかい? まだ犯人が近くにいるかもしれないだろう」


 いや、それはもう、随分前から私を狙っている人達は沢山いましたから平気です。
 ……とはさすがに言えず、私は大丈夫を繰り返して無理矢理に押し切ろうとした――――


――――のだけど。


「賈栩さん!! ○○さんから絶対に目を離さないように! 良いですね!?」


 戻ってきた女官長に、怒鳴られた。


「……」

「……と、いうことだ」

「じゃあ、問題無ぇか。じゃあ、また今度改めて詫びをさせてもらうよ」


 ちょっと待って下さい、御者さん。
 この人と二人きりは、私、本当に気まずいんです。
 馬車に乗り込み仕事に戻っていく御者を見送り、私は頭を抱えて賈栩様に背中を向ける。

 と、後ろから頭をぽんぽん撫でられた。


「心配しなくても、もう何もしないよ」

「……」

「そちらが何もしない限りは」


 ちょっと待って。
 余計に気まずくなるんですけど、それ。
 賈栩様を振り返り、また先日の一件を思い出した私は、また顔を逸らした。


「……と、ところで、賈栩様と女官長と親しいなんて知りませんでした。女官長、いつも誰にも丁寧で礼儀正しいのに」

「ああ……彼女とは、前に仕えていた人物が同じでね。俺よりも年上だからと、やたらと世話を焼いてきて辟易していた」

「えっ、賈栩様よりも年上なんですか!?」


 驚きの事実。
 賈栩様より年下だと思ってたのに。
 思わず賈栩様を振り返って、すぐに逸らすと、賈栩様が小さく笑った。


「あれで四十に近い筈だ」

「う、羨ましい……!」


 あれで四十近いなんて!
 二十前半と言われても納得してしまうくらい、女官長は誰よりも若々しい。
 これが上流階級の女性の力と言うものか。
 自分の肌を触ってみるが、かさかさの荒れ荒れで、ハリとは無縁である。

 貴族と庶民の違いを実感し、私は溜息をついた。もう一度羨ましいとぼやいた。


「そんなに羨むものかい?」

「羨むものですよ。庶民だって、女なら綺麗になりたいって願望はあるんです」

「俺には分からない」

「殿方には分からないでしょうね。でも綺麗と思ったらそう言ってあげると女は喜びますよ。特にお姫様みたいに、自分の見た目に気を遣っている方々とか」

「○○は?」

「私は――――」


 ……。

 ……。

 ……ん?


「な、何で私なんですか」

「○○は、それを喜ぶのかい?」

「そりゃ、誰かにそう言われたら、素直に喜びますけど……私、全然綺麗じゃないですよ」

「綺麗と言うよりは可愛いの部類だろうね」


 ……。

 ……。

 ……んん!?

 ぎょっとした瞬間、賈栩様の顔が視界に入ってきて仰天した。
 数歩後退すると苦笑混じりに肩をすくめられた。

 いきなりはマズかった。
 しかもあの時程じゃなくてもすっごい近かった。
 ああもう落ち着け私の心臓。

 深呼吸を繰り返し、自身を落ち着かせる。

 賈栩様は私が逃げた分の距離を詰めようとはせず、苦笑を浮かべてこちらの動きを待っているようだった。
 そっか。私さっき店をもう少し見て回るって言ったからか。

 ……。

 ……うん。賈栩様と店回るとか、無理だ。
 ここは素直に帰ろう。


「賈栩様。やっぱり今日はこれで帰ります」

「店は?」

「今度にします。……また嫌がらせされて郭嘉にバレたら面倒臭いので」


 それらしい理由を取り付けると、賈栩様は納得してくれた。


「彼女達は、楽に生きてはいけないだろうね。見つかれば」


 女性達の厄介なところは、そんな目に遭うと分かっていないことだ。
 郭嘉は基本口説いて側に置いておく間は甘い言葉でどろどろに甘やかす。それで勘違いして、自分は愛されているから許されるという自信を持ってしまうのだ。

 複数人から嫌がらせを受けたのは初めてだけど、協力しているようでそうじゃないと思う。
 郭嘉は自分こそを一番愛しているという考えがそれぞれあって、出し抜けること前提で自分の為に他者を利用しているんじゃないかな。

 郭嘉に手を出された女性達は、どんな甘い言葉をかけられたのか、例外無く自信満々だ。
 だから郭嘉に振られた場合は自尊心を傷つけられた憤懣(ふんまん)に任せて城まで押し掛け、結果的に夏侯惇様が相手をさせられる苦労を背負うことになる。
 そんな人達だから私みたいなのが郭嘉の助手としてでも自分よりも側に置かれるのが気に食わないのだった。私自身、今すぐにでも郭嘉から解放されて前の生活に戻りたくて仕方がないんだけど、そんなこと彼女達には関係無い。

 自分は愛されていると自信を持っている、そんな女性達が郭嘉に酷い目に遭わされるのには、私もさすがに同情してしまう。

 このことは、郭嘉には黙っておこう。
 面倒臭くなるだけだ。

 私が城に向かって歩き出すと、賈栩様は私の斜め後ろを歩く。
 私を気遣って接近せず、適度な距離を保ってくれる。
 城に着くまでそれは少しも変わらなかった。ただ一度、急ぎ足の人とぶつかりそうになったのを事前に言葉で注意してくれただけ。

 申し訳ないけれど、心底ほっとした。

 門を抜けて、私は賈栩様に頭を下げた。


「賈栩様。助けていただいて、ありがとうございました」

「礼を言うよりも、今後気を付けて外を歩いてもらう方が良い。今日の一件はたまたま俺が近くを通りかかったから助けられたが、次はそうはいかない」

「はい。肝に銘じます。それと、女官長と用事があったでしょうに、邪魔しちゃってすみませんでした」


 「いや」賈栩様は苦笑混じりに首を左右に振った。


「元々無理矢理連れ出されて辟易していたところでね。正直、解放されて助かった」

「無理矢理?」

「詫びの品を買って渡せとね」

「詫びの品……誰か怒らせちゃったんですか?」


 賈栩様は肩をすくめた。
 懐を探り小さな木箱を取り出した。

 それを――――どうしてか、私に差し出した。


「?」

「先日の無礼の詫びに」

「先日……」


 そこで賈栩様が自身の口をとんとんと指で叩いて見せた。

 理解した。
 あ の こ と だ。
 まさか賈栩様から蒸し返されるとは思わなかった。
 私は賈栩様を見上げ、口角をひきつらせた。


「あ、あのー……いや、あれは……あー……えっと――――って、何で女官長が知ってるんですか」


 賈栩様は少し言いにくそうに、私が逃げ出した丁度その時を目撃した女官長が、賈栩様に猛烈な勢いで質問責めしたそうだ。
 どうも、賈栩様は女官長が苦手なようだ。
 彼女にだけは言いたくなかったのだが、と付け加えて、事情を説明したと語った。

 なるほど。それで女官長にあれこれ世話を焼かれて詫びの品まで買わされた、と。

 この賈栩様にお姉さん風吹かせてる女官長……お強い。
 今日だけで女官長の印象が一気に塗り替えられてしまった。私が思ってるよりも、凄い人だった。

 賈栩様は受け取ろうとしない私の手を取って、無理矢理に持たせた。


「え、いや……べ、別に、お、お詫びなんて要りませんよ……私……」

「女物を俺が持っていても、変な話だ。それに……あの人は、目敏(めざと)い」


 最後に苦々しく呟かれた言葉に、本当に苦手なんだなと思った。
 けど、何だかんだで付き合うくらいの信頼関係はある訳だ。

 ……いや、べ、別に羨ましい訳ではないけれど。

 私はそっと小さな木箱を受け取り、私の掌よりも小さなそれの感触を確かめた。
 開けようかと思った私の様子を悟ったらしい賈栩様は、私の頭を撫でて、女官長が戻ってくると面倒だからと足早に立ち去った。
 私はそれを見送り、木箱の蓋をそっと開けた。


「……わ」


 指輪だ。
 お姫様に似合うような豪華な物ではない。
 私の身の丈に合うような、飾り気の無い素朴な指輪である。でも、だからといって安物じゃないのは、私の目でも分かった。

 指で恐る恐る摘んで日に翳(かざ)す。
 反射して鋭い光を放つそれは、郭嘉に無理矢理渡された高い装飾品のどれよりも綺麗で特別に見えた。

 口が弛むのが、自分でも分かっ――――。


「そこで何をしてるんだ、○○」

「ぅ、うわわわっ!?」


 不意に話しかけられ、驚いた私は思わず指輪を取り落としそうになり、必死に握り締めた。変な格好になってしまったのは、仕方がないと思う。
 私はすぐに体勢を元に戻し、木箱と指輪を袖の中に隠し、落ちないように押さえて振り返った。


「あ、か、夏侯惇様! お、お疲れ様です……っ」

「袖がどうかしたか?」

「いえいえ何でも!」


 鍛錬直後のようで汗で髪が濡れている夏侯惇様は、不思議そうに首を傾けて瞬きを繰り返す。

 私は取り繕うように笑って誤魔化した。


「そうか。なら良いが……。先程町の方で事故が遭ったらしいが大丈夫だったか。お前、今日は父親の墓参りだっただろう」

「大丈夫でしたよ。その騒ぎの近くにいましたけど」


 まさか私が馬車に轢かれかけましたなんて正直に言える筈もなく、嘘を付いた。
 私が言うと、彼は微笑んで「十分父親と話は出来たか?」と。

 私は頷いた。


「話せるだけ話してきましたよ。愚痴も含めて。一人で店もゆっくり見て回れましたし、お爺さん達と碁も打ってきました」

「負けただろう」

「……よくお分かりで」


 夏侯惇様は笑った。
 彼も、私が碁が弱いことを良くご存じでいらっしゃる。

 渋面を作ると、夏侯惇様は私の肩を叩き、


「悔しいだろうが、負けることも、武人の成長には必要なことだ」


 重い言葉をくれました。
 でも笑ってる。笑いながら言ってる。
 半分はからかってる。
 私はぎっと睨んだけれど、夏侯惇様に軽く謝罪されるだけだった。


「次の墓参りの時には、お爺さん達を倒せるように精進します!」

「そうか、頑張れ」


 心 が こ も っ て な い!
 笑いながら、夏侯惇様は夏侯淵様に呼ばれているからと、歩き去って行った。

 私は口を尖らせ、懐からもう一度指輪を取り出す。

 気を取り直してまた日に翳し、輝く様を満足行くまで見つめていたのだった。



 その様子が女官長に目撃されて、賈栩様に脚色過多で話されたことを知った私が頭を抱えて唸る様を、郭嘉が笑いながら眺めるのは、これより三日後のことである。



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