時計屋様
※暴力・流血表現、モブと情事を臭わせる表現があります。
私は、男の下半身を満足させて金を得る。
昔からそれだけを仕事として生きてきた。
十二の時にはすでに父に外へ連れ出され、今日は何人分稼いで帰ってこいと言われ娼婦を求める男達のもとへ向かった。
妊娠は一度もしたことが無い。私は石女(うまずめ)だ。
娼婦としてなんとも都合の良い体質だ。子が出来ない身体なら、避妊なんて少しも気にしないで良い。避妊なんて面倒な気遣いを娼婦如きにせずに済んでより相手は満足して、金を多くくれる。
大勢の男の手垢に汚れきった私の身体は、好きでもない男を喜ばせる言葉ばかりを思い付く私の頭は、もはや恋や愛などと、そんな可愛らしい感情とは縁遠いものと成り果てた。
そんな私であったから、彼との遭遇は青天の霹靂(へきれき)であり、私を狂おしく燃え盛る地獄へ突き落とした。
あれはそう……客を捜していて突然の眩暈に襲われた時のことだ。
ぐらぐら揺れる視界と頭の中に耐えられずに路傍に座り込んでしまった私に声をかけたのが彼だった。
気だるさから苛立ち、彼を睨め上げた瞬間、より強い眩暈を覚え身体の自由を失った。彼から目が離せなくなってしまった。
一目惚れだったのだろう。
私よりも清らかな世界に住む子達にこそ相応しい、一度も経験したことの無かった甘い快感を伴った眩暈だ。
その瞬間だけは、身体の不調など忘れてしまった。
私を心配そうに見下ろしてくる彼に抱きつきたい衝動に駆られるけれど、不意にかけられた下賤な言葉が現実に引き戻した。
たまたまそこを通りかかった馴染みの客が、いやらしい笑みに妬心を滲ませ、私に言ったのだ。
『可愛い淫売の今宵のお相手は、そんな色男かい?』と。
ああ、そうだ。
私は娼婦だ。
子供の頃から男の欲を受け止めて金を稼いできた汚れた女だ。
どうして今更純情になれようか。
私は彼を無視して、その場を離れた。呼び止められた瞬間甘い痺れに身体が止まりそうになったけれど、振り払って駆け出し、情事の臭いが立ちこめる家の中で倒れた。
たった一瞬――――いいや、玉響(たまゆら)のこと。
だのに私を、彼は何日も何ヶ月も……一年経っても解放してくれなかった。
彼は、私を見つけるなり話しかけてくるのだ。
純真な、優しげな笑顔で、私のことを気にかけてくれた。
なんて優しい人。
けれどなればこそ、私はどんどん苦痛が増した。
私は男達の欲望の捌け口でしかない。
一生汚い日陰を出られない淫売。
愚かな私。日向の綺麗な花に引かれたって、許される筈がないじゃない。
立場を良く理解していた理性に逆らう心が疎ましかった。
私はこの人が欲しい。
私はこの人のものになりたい。
強く強く願い求める純情ぶった醜い自分が憎らしかった。
ああもうどうして分からないの?
私はあの人に釣り合わない。
いや、そもそも日向に出ることすら許されない汚れた存在なのだ。
どうして彼の手を触れよう。
どうして彼と言葉を交わせよう。
どうして、どうして――――どうして日向の彼と恋など出来ようか!!
私は一生、娼婦から足を洗えない。
一生縁の無い筈だった明るい場所で生きる存在と接してはいけないのだ。
だのに、だのに、だのに!
彼は汚い世界に自ら入ってきて、絡みついてくる別の娼婦を笑顔でやんわりと退けて、私を捜すのだ。
私の体調が心配だから、たったそれだけの理由で、一片の躊躇無く歩き回って私を捜すのだ。
彼の優しさが私を狂わせる。
避けようとしても心は彼に強く惹かれ、逃げているつもりが彼に自ずと近付いている自分がいて、吐き気がする。
彼が愛おしい。
愛おしくてたまらない。
叫ぶ心が、私を苦しめる。
私を引き留めてくれるのは、皮肉にも私を嫌う同業者達だ。
元々ここでは私が一番客を取っている。加えて誰かの客も盗った。
ここの娼婦は、互いの客を奪い合う。明日生きる為の金も無いのだから、必死で、他人のことなど考えていられないのは当然のことだ。中には子を産んである程度まで育てると高く売り払う娼婦もいる。
稼ぎの多い私が疎まれるのは当たり前の流れだった。
彼女達から嫌がらせを受けていると否が応にも自分の汚い身分を思い知る。
客に抱かれても彼に置き換えてしまう私を繋いでくれる唯一の冷たい鎖だった。
けれども、いつまでもその鎖の冷たさに安堵している訳にも、いかなかった。
鎖はどんどん冷えて、私の身体をキツく絞めていった。
そして鎖に、限界が来たのだ。
壊れた鎖は、私を悪夢へ突き落とした。
同時に、私を彼から解放してくれた。
‡‡‡
地面に押し倒され、息が詰まり全身が痛んだ。
腹に馬乗りになったのは、この辺りでは最年長の娼婦、芥女(かいじょ)。
彼女には生まれながら名前が無かったという。だから芥女と言う彼女を育てた娼婦から名を受け継いだ。ゴミ女なんて……自らを蔑む可哀想な名前を。
芥女は私を無機質な目で見下ろしている。
憎悪や怒り、劣等感――――様々な感情が混ざり合って極まった結果、表情は失せてしまった。
今の芥女は人形だ。
かさかさの手が錆だらけの短剣を握り締めている。がたがた震えて、歯もがちがち鳴って、顔だけ異様に凪いでいるのが、ぞっとする。
きっと、その短剣で私を刺すのだ。
芥女は元は私よりも馴染みの客が付いていた。それを、余所から移ってきた私が、悉(ことごと)く奪った。年齢もあるだろうが、馴染みの客は私の身体を気に入ったその事実が、芥女の娼婦としての矜持を踏みにじったのだった。
今、彼女の金のもとは、嗜好に難のある商家の次男坊と、その友人達。
行為では必ず暴力行為を働く彼らに縋らなければ生きていけない状況にまで落ちぶれた芥女を、哀れになど思わなかった。
そんな余裕、私達には無いから。
だから、こんな真っ昼間、屋外で刃傷沙汰が起こったとしても、誰も何も思わない。むしろ共倒れになってくれれば客が自分に流れてくるかもしれないと期待をする。
私の暮らす世界では、常識だ。
「あんたが……あんたが、いなければ……!」
震える声を絞り出す芥女の手がゆっくりと持ち上がる。
それで、私を刺すのだろう。
見れば刀身には、錆に隠れて変色した血が見える。
過去、その短剣で芥女は誰を刺したんだろうか。
いや、そんなこと、どうでも良いかもしれない。
考えてみれば、ここで死んで一番安らぐのは、私じゃないか。
死ねば、彼のことで苦しまなくて良い。
私は、解放されるのだ。
こんなに嬉しいことは無い。
私はゆっくりと目を伏せた。
――――けれども。
「ぐぅう……!?」
ぼたりぼたたと胸や咽に、何かが落ちた。
目を開ければ芥女の口から吐き出された赤い液体が顔にかかる。
どさりと私の身体に覆い被さった芥女の後ろには、小太りの初老の男がいた。
私の、馴染みの客である。
嬉しそうににんまりと笑ったその男は、呼吸が弱まっていく芥女の髪を乱暴に掴むと私の上から引きずり降ろし、手にした物で刺した。
刃物だ。綺麗な綺麗な銀色の刃が、芥女の血で汚れている――――。
芥女の胸は、二つの穴が開いていた。血が溢れ出し、地面を汚していく。
死んだ。
私ではなく芥女が死んだ。
もう生気の失せた目が私に何故と問いかける。何故、私が死ななければならないのかと。
それは、私が訊きたいことだわ。
私はゆっくりと、男を仰いだ。
「危なかったね、○○。もう、大丈夫だ。僕は君の恩人だよ。さあ、恩返しをしておくれ」
男は、芥女の血で汚れ放心する私の身体を、抱き上げた。
彼の手であれば、どんなに嬉しかっただろうと考えたのは、きっと、現実逃避。
‡‡‡
私は、頼んでもいない恩を着せた男の妻になった。
男は毎晩私の身体に溺れた。何度も何度も私の名前を呼んで、愛しているのは私だけだと気持ち悪い声で囁いて、私を抱いた。
死ねなかった私は、まだ彼に囚われたままだ。
こんな醜い男じゃなくて、彼が良い。彼ならば、優しく私を抱いてくれるだろうか。もっと真摯に、心のこもった言葉をかけてくれるだろうか。そんなことばかり、考えた。
でも、もう彼には会えない。
男は私を連れて洛陽へ引っ越した。私の馴染みの客に妬まれて殺されかねないからだ。
帝の御座す洛陽の華やかな賑わいは、しかし私の心を埋めてはくれなかった。
二度と会えないと分かってはいても心は我が儘だった。
気付けば屋敷の中から彼を捜してしまう。
愛する彼を求めない日は無かった。
そんな私に、男は気付いた。
今度は私が彼を求めて逃げ出すのではないかと疑念を抱いた男は、私の右足の腱を断った。片足だけなのは、逃ることは出来ないが、それなりに歩けはするようにと言う要らない気遣いだった。
杖を突いての歩行になった私は、部屋から出なくなった。
何もせずに無機質に過ごし、男の欲望の受け皿となる毎日を送った。
それでも頭から出て行ってくれない、彼のこと。
男も、それが分かるようだ。
日に日に焦り出していくのが、見て取れた。
「なあ、○○。君はどうすれば僕のものになってくれるんだろう」
閨(ねや)の中、私の裸を撫で回しながら男は言う。
私は天井を見上げ、口を動かした。
「私を妻にしておいて、これ以上何を求めるんです。言ったでしょう。私は、石女ですよ。子は出来ません」
「僕は君の心が欲しい」
「お戯れを。私達娼婦に心はありません。あるとすれば、明日を生きる金が欲しい、それのみでございま――――う……っ!?」
男は私の言葉尻を遮った。
突然、首を両手で絞められたのだ。
男の力は強く、本気で私を殺そうとしているのが、その目を見て分かった。
嫉妬? 怒り? 悲しみ?
芥女と違い、顔全体にヒビのように皺が刻まれ、険しい形相になっている。
勝手な男だと、私は思った。
私を勝手に妻に据えて、私の片足を勝手に一生動けなくして、私を勝手に殺そうとしている。
でも、その勝手さに、私は感謝をした。
殺してくれるのだ、私を。
今度こそ、私は死ねるのだ。
やっと……やっと。
私は目を閉じた。
けれど力が、ふっと失われたのだ。
男は私にのしかかり、啜り泣き始めた。
「ごめん……ごめんよう……許しておくれ、○○。僕は君が好きなんだ……好きで好きでたまらないんだ……」
私の胸に脂ぎった顔を埋め、頬ずりしながら泣く。鼻水が肌にすり付けられて不快だった。
また私は死ねなかった。
じゃあ、自分で死んでみてはどうだろうか。
思い立った私は、翌日男のいぬ間に首を括ろうとした。
けれども邪魔をするように、彼のことが頭に浮かび、死ぬ前にもう一度会いたいと願う自分が主張して、私の中でせめぎ合う。
結果、自分に嫌気がさして、どうでも良くなってしまうのだ。
なんて、面倒な心……。
自分自身に辟易したのは、一体何度目だろう。
私は寝台に寝転がり、嘆息した。
今、彼に会ってしまったら、私のこの心はどうなってしまうだろう。
求めて求めて止まらなくなってしまいそうだ。
会いたくない。
会いたい。
一人でいると、尚更そう思えてしまう。
だから、私は男に内緒で供を連れて街に出た。
店を一つ一つ見て回るだけでも、彼のことを忘れられるくらいには気が晴れた。
供の老女は、最初こそ娼婦と見下していたが、病的に執着する夫に片足の腱を切られた私を見ているうちに同情を寄せてくれるようになった。
私が現実を少しでも忘れられるように気を遣ってくれた。
私も、それが有り難く、彼女のお陰でとても楽しかった。
だのに。
それは、予期せぬ偶然だった。
供の老女が側を離れていた間の、不運だった。
「あ……」
「! あの時の……」
私は全身から血の気が引いた。
どうして……どうして、ここにいるの?
彼、が……洛陽に――――。
彼は私に気付くなり顔色を変えて駆け寄り、私の手を握ってきた。
「洛陽にいたのか」
「……何故、」
手を引こうとすると、ぎゅっと握られる。
「俺も洛陽に用があったんだ。そちらは、何故?」
「……私、は……商家に嫁いで、ここへ……」
視線を逸らしながら答えると、目を丸くした彼の力が弛んだ。
その隙に手を抜き、私は彼に背を向けて逃げた。
戻ってきていた供の老女が彼に気付き、「お知り合いですか?」と問いかけてくるのに何でもないと早口に言って杖を突いて歩き去ろうとした。
けれど慌てていた所為で躓(つまず)き転んでしまう。
老女が助け起こそうとしてくれたのを制し、彼が横にしゃがみ込んで杖を持たせてくれた。支えられて立ち上がる。
「片足が不随なのか?」
「あ、あなたには、関係ないでしょう……」
手を振り払い、私は彼から離れる。
胸がどきどきと騒がしい。
次を期待する自分が体温を上昇させる。
熱い。胸が熱い。燃えて全身に回ってしまいそう。
離れなければ。
離れなければ、いけないのに。
この人の側にいられないのに。いてはいけないのに。
供の老女が戸惑い私達を交互に見てくるのに、私は冷や汗が流れて彼からまた距離を取った。
周囲の様子を窺い、夫がいないか確認する。
もし見つかってしまったら、どうなるか分からない。
老女を呼び、私は屋敷に帰った。
私の無礼を謝罪したのか、やや遅れて追いかけてきた老女にはキツく口止めして、その日のことを男に知られないように、振る舞った。
けれど、久し振りに会ってしまった私の心は、増長するばかりだった。
また明日街を歩いていれば彼に会えるかもしれない。
彼ともう一度会いたい……いや、一度と言わず、彼が洛陽にいる間毎日でも会えたら……。
そればかりである。
当然、男にバレた。
バレて、老女は折檻を受けた後暇を出され、私も髪をばっさり切られ胸元に深い切り傷を刻まれた。きっと、傷は痕が残ってしまうだろう。これでは他の男も私を抱けまいとの独占欲の証であった。
私はともかく、私が付き合わせただけの老女にはただただ申し訳なかった。私が、障害を持った息子の為にとあくせく働いていた彼女から職を奪ってしまったのだ。謝罪の意を込めて下女に頼んで沢山の金子を届けさせたが、これから彼女達の生活を思うと、胸が痛んだ。
私はあれから部屋から出ることを禁じられた。
ただ部屋の中で客を待つ娼婦としての生活を強いられた。
いっそ、殺してしまえば良いのに。
もう一度、死んでみようと思った。
でも駄目だった。彼に会いたいその気持ちが、騒ぎ出して邪魔をする。
出ることを禁じられてしまうと、想いはより強まった。
会いたい。
会って、私を連れ出してくれたらどんなに良かっただろう。
汚い娼婦のくせに何を夢見ているの。
私には、今更純情なんて言葉は似合わない。求めることすら烏滸(おこが)がましい。
頭を悩ませる私に、ある日老女からの手紙が届く。
自分と息子を一緒に雇ってくれる店を見つけたことを報せる手紙だった。中には金子を渡したことを感謝する旨も書かれていた。
そして――――あの日再会してしまった彼に、私が男に無理矢理に妻にされ、片足を不随にされたことを話したとも。
なんてことをしてくれたんだと、手紙を握り締めた。
そんなことをしたって私はここを出られない。男はもう、許さない。
汚い娼婦如きにどうしてそんなに執着するのか分からないが、男の狂気を孕んだ執念は本物だ。
もし男に彼の存在を知られたら、何をするか分からない……彼にも、老女にも。
私は一層頭を悩ませた。
だが心は、希望を得たと馬鹿みたいに歓喜するのである。
どんなに諦めてと願っても、私は彼に囚われたまま……。
‡‡‡
その日、男は洛陽にいなかった。
商談で兌州にまで行かなければならなくなったのだ。
男に抱かれぬ夜は、楽だ。
月を眺めて眠くなったら寝台に入る。
こんな過ごし方、贅沢だ――――。
少しだけ気分が良い私の前に、彼は現れてしまうのだ。
数人の下女を、伴って。
庭に――――窓の前に立っている。
月から視線を落とした瞬間気付いた私は驚いて言葉を失った。動くことも忘れた。
彼が何かを言おうとした時にやっと我に返り、部屋の中へ引っ込んだ。
「待ってくれ!」
「……ひ、人を呼びますよ」
扉に手をかけようとすると、下女達が窓に飛びつき泣きそうな顔で訴えてくる。
「奥様。大丈夫です。今、旦那様の息のかかった者は全て酒を飲んで良く眠っております」
「どうかここから逃げて下さい。今を逃せば、きっと旦那様からは一生逃げられません」
「あなた達の言う通りにしてしまったら、今度はあなた達があの老女のようになるわよ。娼婦風情の所為でそんな目に遭って良いの?」
下女達は首を横に振った。
「構いません。あたし達だって、あなた様を利用してここから逃げるつもりです。ですからどうか、あたし達の為と思って、この方と逃げて下さい。この方なら、あなたを旦那様の手の届かぬ場所まで連れて行ってくれます」
「暇を出されたばば様も奥様が逃げられることを望んでいます。彼女がこの方をここへ連れてきたのです」
止めて。
そんなこと言わないで。
心が、期待してしまうじゃない。
駄目なのに……駄目なのに!
「そ、そんなこと……っ」
「奥様!」
「奥様」
「止めて!!」
私は叫んで扉を開けた。
杖を突いて必死に部屋から、彼から逃げた。
酒を飲んで起きないのであれば、起こしてしまえば良い。
どうして、どうしてこうなってしまうの。
どうして放っておいてくれないの。
いっそ殺して欲しい。誰でも良いから私を殺して欲しい。
娼婦のくせに、娼婦のくせに、娼婦のくせに――――彼のものになりたいと、ついて行きたいと騒ぐ心を殺して欲しい!
「待ってくれ!」
「……っ!」
背後から声。
杖を突きながら逃げる私は、当然すぐに捕まった。
暴れて手を振り払うけれど、その場に尻餅をついてしまう。
「まずは話を聞いてくれっ。俺は、」
「嫌っ!!」
背中を支えられても私は手を振り回して拒絶する。
止めて、止めて、止めて。
私を見ないで。
私に触れないで。
私に話しかけないで。
これ以上私に入ってこないで。
これ以上私の中を占めないで。
娼婦の私にあなたは眩し過ぎる。
彼を視界に入れないように、俯いて両手を振る。
腕を掴まれて簡単に封じられる。
身を捩っても逃げる前に抱き寄せられた。
今までこんなに近付いたことなんて無かった。
彼の匂いは、こんなだったのか。
駄目だ。
体温に、匂いに、心が酔う。
とろけそうになる身体から力が抜けていく。
視界が滲んでいく。
彼の背中へ、両の手が伸びそうになる。
日向に惹かれていく日陰の自分が、駄目だと分かっているのに勝手に動くのを、必死に抑えた。
「姿を消してから、ずっと捜していたんだ」
「止めて……」
「風の噂で、お前が別の娼婦と刺し違えたと聞いて……真偽を確かめたかった。遺体が見つからないのなら生きている筈だと、ずっと捜していたんだ。ここで見つけた時、俺がどれだけ安心したか……どれだけ嬉しかったか」
長く溜息をつき、私の頭を撫でる。
優しい手つきに目頭が熱くなった。
嬉しいと、思ってしまう。
嗚呼、好きだ。
私はこの人が好きだ。
ずっとずっと求めていた人。
「……これ以上、私の中に入ってこないで」
声が震える。
必死に拒絶しているつもりなのに、声はとても弱々しい。
こんなんじゃ本当に拒絶しているかも分からない。
「それは、何故だ」
彼に腕の力が強まる。
これでは逃げられない。
良いじゃないか。
逃げなくても。
この人と一緒に逃げられたら、私はあの男から解放される。この人の側にいられる。
元娼婦だって、彼も私も言わなければバレないではないか。
もう一人の私が囁きかけてくる。
それを拒絶したくて私は首を振った。
「止めて……今まで、ずっと、ずっと……あなたは私の中にいたじゃないですか。これ以上私に何をなさるつもりですか……」
「好きだ。俺と共に来て欲しい。俺が、お前を守りたい」
私はこの人の名前を知らない。
この人も私の名前を知らない。
お互い何も知らない。
だけど、私はこんなにも彼に惹かれている。
許されないのに。
「どうして……娼婦如きに」
彼が私の顔を両手で挟み、ゆっくりと上げる。
いけないことなのに、日溜まりの下を歩く彼の目を、間近で見つめる。
「それは、考えたことが無かった。ただ……三年前に、転んで泣きじゃくる子供を傍らで微笑んで泣き止むまで宥めているお前を見てから、ずっと、頭の中をお前が占めていた。ふとした時にお前を思い出すと、傍にいて欲しくなる。子供に向けていた笑顔を独り占めしたくなる」
彼の言葉が、私の頭を侵していく。
止めて……止めて欲しいのに。
彼は口を止めてもくれないし、私をしっかりと捕まえて放さないのだ。
「だから、一年前うずくまっているお前を偶然見つけた時は、申し訳ないがとても嬉しかった。それからずっとお前に毎日でも会いたいと、そればかりで、お前が何をしているのかなど思いつきもしなかったな。娼婦というのも、その時に知ったくらいだった」
「でも、知ったのでしょう」
「お前を抱く男達にみっともなく嫉妬をしたよ。もし彼らの中にお前の心を射止める者が現れたら――――気が気でなかった。お前が商家に嫁いでいたと知って取り乱した。俺は、醜い男だろう?」
取り乱していたなんて、そんな風には、全く見えなかった。
言うと、彼は、自嘲に笑う。
それ以上何も言わないでと、切に願う。
もう駄目。
私の心が、止められなくなる。
日向に、飛び出してしまう。
「あなた、は……私とは違う。日の下に生きる方……ですから」
「ならばお前も出れば良い。恐いなら、俺がしっかりと手を握っていよう。何があっても、お前を守ろう。だから、俺と共に洛陽を出よう。右北平に、戻ってくれ」
親指で、いつの間にか濡れていた目元を拭われる。
けれど涙が堰(せき)を切ったように溢れ出してしまうのだ。
私はこの人のものになりたい――――……。
それが、胸を、頭を占めていく。
嗚呼。
駄目だ。
もう。
想いが膨れ上がっていく。
抑えられない。
抗えない。
「俺の名は、趙雲。お前の名前は?」
「……○○、です……」
「○○。俺はお前を、妻に迎えたい」
彼が――――趙雲様が、顔を寄せてくる。
私は、逃げることが出来なかった。
逃げるには、私はもう、自分の想いに雁字搦(がんじがら)めにされていたから。
日向の存在に包まれる感覚を、涙を流しながら享受(きょうじゅ)する――――。
‡‡‡
その日。
数人の下女と共に商家の妻が洛陽から姿を消した。
報せを受けて急遽帰宅した夫は髪を振り乱し、必死の形相で洛陽の街を妻の名を叫びながら走り回ったという。
妻は、とうとう見つからなかった。
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